坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年7月17日 主日礼拝説教  「自分の道を走り通す」

聖 書 使徒言行録20章17~24節
説教者 山岡 創牧師

17パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。 18長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。 19すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。 20役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。 21神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。 22そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。 23ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊(せいれい)がどこの町でもはっきり告げてくださっています。 24しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音(ふくいん)を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。


「自分の道を走り通す」
 「決められた道」(24節)って何でしょうか?パウロは、エフェソの教会の長老たちに語りました。「自分の決められた道を走り通す」(24節)と。そして、その道で「神の恵みの福音を」(24節)証しすることができたら、「この命すら決して惜しいとは思いません」(24節)と言うのです。命を失うかも知れない事態を、この時、パウロは想定していました。
 エーゲ海の港町エフェソでの“アルテミス騒動”を脱したパウロは、その後、マケドニア州やアカイア州の教会を訪ねました。その帰路、パウロは「“霊”に促(うなが)されて」(22節)エルサレム行きを決心します。エルサレムは神殿のあるユダヤ教の聖地であり、総本山でした。その地で“決着”をつけねばならない何かを感じたのでしょう。そして、その地に行くことは、この時のパウロにとって“死”を覚悟することだったようです。
かつてのパウロはエルサレムに本拠を置いて教会を迫害していました。ところが、教会迫害の道中で、パウロは“霊”において主イエス・キリストと出会い、回心します。そして、今度はキリストによる救いを宣(の)べ伝えるようになります。それは、エルサレムにいる以前の仲間たちからすれば“裏切り”以外の何ものでもなかったのです。
 またパウロは、律法(りっぽう)の行いを重んじるかつての立場から、行いではなくキリストの愛と赦(ゆる)しという恵みによって救われると証しし、伝えるようになりました。そのためにユダヤ人でありながら律法をないがしろにすると見なされ、エルサレムだけではなく海外のユダヤ人からも迫害され、命を狙われるようになりました。それゆえパウロは、聖地エルサレム行きを決心した自分を待ち受けているのは「投獄と苦難」(23節)だと予想していました。命を失うことすら覚悟していたのです。
 だからパウロは、最も長い3年間、力を注いだエフェソ伝道によって生まれた教会の長老をミレトスに呼び集めます。これが最後になるかも知れない。その思いで語るパウロの言葉は、言わば“遺言”であり、大切な“別れの説教”なのです。
とは言え、力んでいるわけではなく、格好をつけているわけでもなく、自分の人生で何をなすべきかを確信している人の、落ち着いた、自然体の言葉だと私は感じます。
       *
 「決められた道」とパウロは口にしました。それは、神さまがパウロに、走るようにと定められた道ということです。とは言え、自分の人生を、自分の以外の他人に決められるというのは、あまり良い印象を持てないかも知れません。子どもが、親の敷いたレールの上を走る、なんていう話を聞くことがあります。親が、我が子に、進むべき道を指示し、勧め、時には強制さえすることもあります。それは、我が子のためを思ってしていることなのでしょうが、自分の主体的な決断ではなく、親(他人)の意思を優先したり、半強制的に歩かされる道は、決して幸せな人生とは言えないでしょう。
 神さまによって決められた道も、神に強制された、納得も、喜びも、幸せもない道なのでしょうか?今日の聖書箇所のパウロの言葉を読む限り、パウロが嫌々走っているようには感じられません。神に決められた道と言いながら、その一方で、自ら納得して受け入れ、積極的に進もうとする本人の意思が感じられます。
 何が違うのでしょう?どこにその秘訣があるのでしょう?‥‥パウロは神を信じているのです。神さまが、ご計画をもって自分の人生を導き、良いものを備えてくださると、最善に計らってくださると、神の御心(みこころ)を信じて、自分の意思でその道を受け入れ、自分の人生を神さまにゆだねているのです。その信仰を持つ者だけが胸に抱くことのできる納得であり、信仰に裏打ちされた積極性であり、使命感なのです。
       *
 神の御心を信じて進む。神の独り子であり、救い主イエス・キリストが、まさに神の御心を信じて進みました。「“霊”に促されて」という言葉がありましたが、かつて主イエスも“霊”に促されてユダヤの荒れ野に行き、悪魔の誘惑をお受けになりました。霊に促されて、というのは言い換えれば、神の御心を信じて、ということです。そして、御言葉によって父なる神の御心を信じた主イエスは、悪魔の誘惑に打ち克(か)って、愛と赦しの伝道を開始されました。そして、その伝道生涯の最後に、主イエスもまたエルサレムに向かいました。迫害と死を覚悟して。けれども、そこから逃げようとするのではなく、まさに何かに促されるかのように、神に決められた使命の道を、行いではなく神の愛と赦しによる救いの恵みを証しするために、御心を信じて進まれました。
 今、エルサレムへ向かおうとするパウロの姿に、主イエス・キリストの姿が見えます。パウロは、「神の恵みの福音」(25節)を証しするために、神の御心によって決められた自分の道を、主イエスの後ろ姿に従って進もうとしているのです。
       *
 私たちの人生にも「自分の決められた道」があるように思います。もちろん、自分で考え、選択し、決断しているのですが、人生すなわち“命の道”というものは、自分の意思だけでは決められない、決まらない不思議さがあります。自分の意思とは違う“何か”が働いているようです。その何かが強くなれば、自分の意思では変えられないような“強いられた道”を進まなければならないこともあるでしょう。
 そのような自分の人生、自分の道をどのように受け止めて生きるかで、私たちの喜びと幸せは大きく変わって来ます。神さまが導き、最善に計らってくださる。この御心を信じて進む時、どんな境遇でさえも、神が置いてくださった“恵みの場所”になります。


神が置いてくださったところで咲きなさい。
仕方がないとあきらめてではなく、「咲く」のです。
  「咲く」ということは、自分がしあわせに生き、他人もしあわせにすることです。
  「咲く」ということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、
  私はしあわせなのだということを、示して生きることです。
  神が、ここに置いてくださった。それはすばらしいことであり、
ありがたいことだと、あなたのすべてが語っていることなのです。
  置かれているところで精一杯咲くと、それがいつしか花を美しくするのです。
  神が置いてくださったところで咲きなさい。
              ラインホールド・ニーバー(渡辺和子・訳)
 自分の人生、自分が今、歩いている道は、神が置いてくださった場所だ。そう信じることができたら、どんなに幸いでしょうか。100%の確信なんて、そう簡単には得られません。疑い、迷い、悩みながら進む修業、求道の道です。でも、主イエスの後ろ姿を見つめながら、パウロと同じように進む。その道で、自分の笑顔で神の愛を証しすることが少しでもできたら、とても嬉しく思うのです。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

       インスタグラムネ