坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「心に働く“霊”と主の御心」

2022年8月7日 主日礼拝説教

聖 書 使徒言行録21章1~14節

説教者 山岡 創牧師
✞ パウロ、エルサレムへ行く
1わたしたちは人々に別れを告げて船出し、コス島に直航した。翌日ロドス島に着き、そこからパタラに渡り、2フェニキアに行く船を見つけたので、それに乗って出発した。3やがてキプロス島が見えてきたが、それを左にして通り過ぎ、シリア州に向かって船旅を続けてティルスの港に着いた。ここで船は、荷物を陸揚げすることになっていたのである。4わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。5しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、6互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。
7わたしたちは、ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、兄弟たちに挨拶して、彼らのところで一日を過ごした。8翌日そこをたってカイサリアに赴(おもむ)き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。9この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。10幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。11そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛(しば)って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」12わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上(のぼ)らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。13そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」14パウロがわたしたちの勧(すす)めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心(みこころ)が行われますように」と言って、口をつぐんだ。

 

「心に働く“霊”と主の御心」
 今日の聖書の御言葉を黙想しながら、んっ?と不思議に思ったことがありました。それは、聖霊なる神さまの働きについて、です。
 主イエス・キリストの救いを、ユダヤ人だけではなく異邦人にも宣べ伝える。それが自分に託(たく)された使命だと信じて、3度目の伝道の旅を行ったパウロは、その帰り道、ユダヤ教の聖地エルサレムに行くことを決心しました。
けれども、それは決して先の明るい旅ではありませんでした。パウロのエルサレム行きについて、アガポという預言者は、「エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す」(11節)と預言しました。そして、パウロ自身も「‥主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」(13節)と語っています。
 パウロには深い因縁がありました。かつてパウロは、主イエスを信じるユダヤ人を迫害し、投獄し、処刑していました。ところが、迫害のさ中、聖霊なる神の働きを通して「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」(使徒9章4節)と呼びかける主イエスと、パウロは出会います。そして回心して、反対に主イエスを宣べ伝えるようになったのです。“裏切者!”、エルサレムのユダヤ人たちは激怒(げきど)しました。自分たちへの裏切りであり、神への裏切りです。裏切りには神の制裁が必要だ。そう考えるユダヤ人たちは、パウロを殺そうと何度も企てました。それを避けて来たパウロでしたが、この因縁に決着をつけなければと感じたのでしょう、エルサレムに行く決心をするのです。
 けれども、周りの人々はパウロのエルサレム行きを望みませんでした。ティルスの弟子(信徒)たちも、カイサリアの弟子たちも、パウロと同行してきた人々も、それを思いとどまらせようとして、行かないようにと、しきりに止めたのです。
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 そういった、パウロと主の弟子たちのやり取りの中で、聖霊なる神さまがそれぞれの心に働いています。その働きについて、んーっ?と不思議に思ったというわけです。
4節に「彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った」と記されています。“霊”とは聖霊なる神の働きかけです。つまり、聖霊は、パウロのエルサレム行きに反対し、思いとどまらせようとしている、ということです。
 他方、エルサレムから下って来たアガポは預言しました。「聖霊がこう告げている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す』」と。つまり、聖霊は、パウロのエルサレム行きを計画し、その苦難を許容している、ということです。もちろんパウロ自身も、自分は聖霊に導かれていると信じていたでしょう。
 聖霊なる神さまは、一方ではパウロのエルサレム行きを導き、他方では反対し、思いとどまらせようとしている、とういことになります。同じ聖霊でしょう?、それって矛盾(むじゅん)じゃない?、おかしくない?、どういうこと?と思うのです。
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 あるいは、どちらかが間違っているのかも知れない。自分の思いは聖霊の働きだと勘違いしているのかも知れません。
 かつて主イエスがエルサレムに行く決心をした時、弟子のペトロが反対し、思いとどまらせようとしたことがありました。主イエスは旅の途中で預言されました。自分はエルサレムでユダヤ人に捕らえられ、裁かれ、異邦人に引き渡されて、処刑される、と。それを聞いたペトロは、主イエスの言葉に反対しました。そのペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8章33節)と主イエスはお叱(しか)りになりました。ペトロの思いは、サタンの思いであり、悪霊の働きだと言われたのです。
 パウロを思いとどまらせようとした人々の思いも、聖霊に動かされたのではなく、「神のこと(御心)」を妨げようとするサタンの働きだったのでしょうか。
 でも、彼らとペトロには決定的な違いがあります。それは、ペトロの言葉には自分自身の思惑や欲望が絡(から)んでいたのに対し、パウロを思いとどまらせようとした人々は、純粋にパウロの身を案じていたのではないか、という点です。つまり、“愛”から出た思いであり、行動だということです。愛から生まれる思いは“霊的”です。
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 “霊”に動かされる。つまり、私たちが“霊的”であるとはどういうことを言うのでしょうか?。最後の14節に「主の御心が行われますように」とありました。主イエスを信じる人は、主の御心を知ろうとし、御心に沿って歩みたいと願います。
 けれども、「主の御心」が何なのか、私たちには分からないのです。エルサレムに行こうとするパウロの思いが「主の御心」なのか、それとも、それを思いとどまらせようとする弟子たちの思いが「主の御心」なのか、それは分からないのです。だから、自分の思い、自分の行動は「主の御心」なのだと思い込んではならない。独善的になり、人を裁(さば)く恐れがあります。
私たちに許されているのは、「主の御心」に沿って歩みたいと願う意思を持つことです。そして、その意思の下で、自分の心の中の願いに素直に行動することです。考えすぎたら動けなくなります。自分の心に素直に生きること。もちろん、自己本位、我がまま勝手に、という意味ではありません。自分の心の願いが、主の御心に沿うものであるようにと祈り願う。そして、自分の行動が、パウロが言うように「主イエスの名のためならば」(13節)という動機から生まれる時、言い換えれば、自分の思いと行動が“愛”から生まれる時、それは“霊”に動かされている、霊的であるということができるのではないでしょうか。キーポイントは“素直さ”と“愛”です。
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 十字架に架けられる前夜、ゲッセマネの園で祈られた主イエスの祈りを思い起こします。「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14章36節)。自分の願いを素直に願っている。自分の心に素直に生きようとしている。でも、神の御心に沿う者でありたいと願っているのです。あの祈りこそ、最も霊的である、と思うのです。
 私たちの生き方もこうでありたいと思うのです。素直に、愛に沿って生きること。それが、人として最も霊的な、幸いな、すてきな生き方ではないでしょうか。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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