坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「あなたがたに平和があるように」

2022年8月14日 主日礼拝説教(平和聖日)

聖 書 ヨハネによる福音書20章19~23節

説教者 山岡 創牧師

✞  イエス、弟子たちに現れる
19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣(つか)わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦(ゆる)せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 「あなたがたに平和があるように」
 “あなたがたに愛と平和があるように。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)”。礼拝の最後にある派遣と祝福。牧師である私がキリストの代理として、皆さんをこの世へと派遣します。その言葉は、今日の聖書箇所でキリストが弟子たちを祝福し、派遣した言葉、もしくはそれをアレンジしたものです。皆さんがキリストの御心を汲み取り、自分も弟子たちと同じように、自分の置かれた場所へと、平和を造り出すために遣わされていくのだ、ということを感じてほしいのです。
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 “主が裁(さば)かれ、十字架に架(か)けられた”“自分たちにも類が及ぶかも知れない”。弟子たちは恐れていました。主イエスを捕らえたユダヤ人たちの探索を恐れ、隠れている家の戸に鍵をかけていました。主イエスがオリーブ山で捕らえられた時、弟子のほとんどは散り散りに逃げました。隠れてついて行ったペトロも、疑われて、主イエスなんて知らない、と否定し、やはり逃げました。彼らは、主イエスが十字架で処刑される場所に行かず、だれもその死を見届けませんでした。だから、ペトロら12弟子たちは、その後、主イエスがどうなったのかさえ、しばらくは知らなかったでしょう。
 自分たちはいったいどうなるのか?事情を知った弟子たちは恐れ、閉じこもりました。そこに突如、復活した主イエスがおいでになったのです。そして、「あなたがたに平和があるように」(19節)と恐れる弟子たちを祝福されました。その姿は見ず知らずの人ではありません。幽霊でもありません。その証拠に、主イエスは十字架で処刑された際の手とわき腹をお見せになりました。
 “シャローム”。主イエスが弟子たちに言われたのは、ヘブライ語のこの言葉だったと思われます。日本語に訳すと“こんにちは”という日常の挨拶ですが、元来“平和”という意味の言葉です。神を信じる者がだれかと会う時、最初に交わす言葉は、相手に“平和”を贈(おく)る言葉、“平和”を祈る言葉であるシャロームなのです。
 ただの挨拶ではありません。私たちは、仲の悪い人、嫌いな人に、進んで快く挨拶をする気には正直なれません。まして主イエスは弟子たちに見捨てられたのです。だれもついて来なかったのです。助けようとしなかったのです。処刑される時もいなかったのです。寂しい限りでしょう。そして、そのような弟子たちを恨み、呪い、“絶対に赦さん!”という気持になったとしても不思議ではありません。シャロームどころではないのです。
 ところが、復活した主イエスから弟子たちにかけられた最初の言葉は、シャローム、「あなたがたに平和があるように」という祝福でした。単に戦争がない、という意味の平和ではありません。ユダヤ人に捕まるかどうかによって左右される平和でもありません。もっと根本的な、何が起こっても揺るがない魂(たましい)の平安。それを願う祈りです。
 この平和を願う祝福の根底には、赦しがあります。つまり、自分を見捨てた弟子たちを、主イエスは赦している。十字架刑を受け入れ、命を懸(か)けて、弟子たちを免罪になさったのです。罪の問題が解決している。だから、魂の平安があります。主イエスと弟子たちの間に、神と人との間に平和があります。
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 主の赦しを与えられ、魂の平和を約束された弟子たちは遣わされます。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(23節)。今度は、自分たちが人を赦し、相手との間に平和を造り出す使者として遣わされるのです。
 けれども、赦しとは決して簡単なことではありません。自分にとって大したことでなければ赦せても、重大なこと、こだわっていることは、そう簡単には赦せないのです。
 既に天に召されましたが、渡辺和子さんというカトリックのシスターがおられました。岡山市にあるノートルダム清心学園の学長、理事長を勤められ、著書も多数あります。この方の父親は、渡辺錠太郎という陸軍中将であり、教育総監も勤めた人物でしたが、1936年に起こった2・26事件で、青年将校たちによって殺されます。渡辺和子さんは9歳の時、父親が何十発も銃弾を撃ち込まれ、殺害される光景を目の前で目撃します。
 大人になって、キリスト教の信仰を持って、自分の父を殺害した人々をもう赦したという気持になっていた渡辺さんでした。けれども、ある会見の席で、父の殺害に関わった人物と同席した時、思わず手が震え、コーヒーが喉を通らなかったといいます。
 これほどの出来事を経験することは、私たちにはまずないでしょう。けれども、自分が心に傷を負ったり、被害を被った出来事は、記憶から決して消えることはありません。“水に流す”なんて言えないのです。受けた傷と痛みを抱えて私たちは生きていきます。
そういう私たちが、人の罪を赦すということは、赦したいと願いながら、赦そうと思いながら生きていくということではないでしょうか。赦せない。でも、赦したい。赦そう。そう祈り願って生きるところに、小さな平和の第一歩が踏み出されるのです。人の力、人の意思だけではできません。だからこそ、聖霊なる神の働きを受けなさい、と主は言われるのです。神が心に働いてくださる時、私たちは赦せるように変えられます。
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 主イエス・キリストを信じる私たちは、愛と赦しによって平和を造(つく)り出す弟子として遣わされます。一人ひとりが置かれた場所に、与えられた生活環境に、備えられた人間関係に遣わされていきます。赦すこと、愛することは簡単だとは言いません。
けれども、平和を学んだ一人の小学生の言葉を心に留めたいと思います。セイシロウくんという当時、6年生だった子どもです。4年生の時、大阪の大空小学校に転校してきた彼は、周りの子どもも大人も信頼できず、攻撃的で、いつもトラブルを起こしていました。そんな彼が受け入れられて成長し、3年後、卒業式を迎え、6年生一人ひとりが一言メッセージを語る時、セイシロウくんは、次のように言ったそうです。
“5年生の皆さん、この学校をよろしくお願いします。‥‥人にとって一番大切なのは、平和です”。“お前がそれを言うんかい!”と椅子から転げ落ちそうになる先生たちを尻目に、彼は続けてこう言いました。“平和ってとっても簡単ですよ。自分のとなりにいる人を自分が大切にするだけで、世界中の人が大切にされます”
 平和を難しいものと思い込まなくていい。自分の力が及ばないものと考えなくていい。考えすぎて、あきらめなくていい。私たちには聖霊なる神の助けがあります。それがあれば、きっと簡単なことになります。自分のとなりにいる人を大切にする。それだけで世界中の人が大切にされる。そういう世界を実現するためにチャレンジしたい。そのために、私たちを遣わされる主イエスに、“主よ、私たちをキリストの愛とともに歩ませてください”としっかり応答して、自分の置かれた場所へと踏み出していきましょう。

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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