坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「行いから恵みへ」

2022年8月21日 主日礼拝説教

聖 書 使徒言行録21章17~26節

説教者 山岡 創牧師
 パウロ、ヤコブを訪(たず)ねる
17わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。18翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。19パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。20これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。21この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施(ほどこ)すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。22いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。23だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願(せいがん)を立てた者が四人います。24この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。25また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既(すで)に手紙を書き送りました。それは、偶像に献(ささ)げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避(さ)けるようにという決定です。」26そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清(きよ)めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供(そな)え物を献げることができるかを告げた。

  「行いから恵みへ」
 人の価値観が180度変わる。人の生き方がそれまでとは正反対になり、全く違う生き方になる。そんなことがあり得ると、皆さんは思いますか?‥‥‥結論から言うと、ある、と言わずにはいられません。ゆっくりと、時間をかけて変わって行く人もいれば、瞬間的に、悟(さと)ったようにガラッと変わる人もいると思います。〈行いから恵みへ〉という今日の説教題は、言い換えれば、人の価値観と生き方が180度変わった、ということを意味します。そして、この劇的な変化を経験した人の一人が、パウロです。
         *
 主イエス・キリストの救いを宣べ伝えるために、3度目の海外伝道の旅をしたパウロは、その帰り道、ユダヤ教の聖地エルサレムに行く決心をします。それは一つには、海外の異邦人教会で集めた献金をエルサレム教会の貧しいユダヤ人に届けるためでした。そしてもう一つは、パウロが宣べ伝えている救い、キリストの“恵み”によって救われるという福音を、エルサレム教会で承認してもらうためでした。
 エルサレムに到着したパウロは、当時教会の中心人物であった主イエスの兄弟であるヤコブを訪ねます。教会の長老たちと共にパウロを迎えたヤコブは、パウロに語りました。エルサレムでは「幾万人ものユダヤ人が」、イエスを救い主キリストと信じる「信者になって、皆熱心に律法を守っています」(20節)と。当たり前のように、エルサレムのユダヤ人クリスチャンたちは皆、律法を熱心に守っていると語るヤコブの言葉に、パウロは非常に大きな違和感を覚えたのではないでしょうか。律法を熱心に守っている、という点こそ、パウロが決着をつけなければ、と考えていた重大事項だったからです。なぜなら、律法を守ることで人が救われるとしたら、キリストの恵みは必要のないものになってしまうからです。恵みによって救われる。それこそがキリストを信じる信仰だからです。
 ユダヤ教の教えは、神の掟(おきて)である律法を守ることによって神さまに救われる、という内容です。だから、ユダヤ教徒は当然、律法を守る、熱心に守るということになります。かつてのパウロもそうでした。彼は、最も熱心に律法を守るファリサイ派に属し、律法を厳守(げんしゅ)することに励(はげ)んでいました。
 だからこそ、かつてのパウロは、教会とクリスチャンが赦(ゆる)せませんでした。律法を守れなくとも、神はその人を愛しておられる。神の愛という恵みによって、人は救われる。そのように教え、信じる教会とクリスチャンに対して、“神はそんなこと言ってないぞ。それは神への冒涜(ぼうとく)だ!”と感じたパウロは教会に怒り、クリスチャンを迫害しました。
 そんなパウロが、エルサレムからダマスコのクリスチャンを迫害しに行く途中で、失明します。それは単に目が見えなくなったという不幸だけではなく、パウロの信仰生活をどん底に突き落とすものでした。律法を守っているから神に愛され、救われる。目に見える祝福として自分に良いことが起こる、人生が幸運で満たされる。それがユダヤ教の救いについての理解でした。
         *
 ところが、失明という障がいを負った。それは、神に救われておらず、むしろ呪(のろ)われているという動かぬ証拠でした。パウロを見たユダヤ人は“あいつは律法を守らず、罪を犯したのだ。だから神に呪われ、罰を受けたのだ”と見なすでしょう。そんなはずはない!自分はだれよりも熱心に律法を守って来たのに‥‥‥なぜ?こんなことが?‥‥パウロは葛藤(かっとう)し、苦しみ悩んだに違いありません。信じて来た価値観と生き方が根底から揺さぶられ、覆(くつがえ)ったのです。使徒言行録9章には、その苦悩の時間は3日とありますが、実際にはもっと長かったかも知れません。
 そのような苦悩と葛藤のどん底で、パウロは初めて“恵み”という価値観に心の目が開かれるのです。失明という出来事によって、パウロは、律法を守ることと救いとは関係がない、ということに気づくのです。律法を守っていても失明したからです。そして、もし失明したとしても、その人生に救いがあるとしたら、それは律法を守るという“行い”によるものではなく、“恵み”によるものだ。目が見えようと失明していようと、地位や財産を持っていようとなかろうと、何かを行い結果を出していようとなかろうと、どんな自分であろうとも、その自分を認め、愛してくださる“神の恵み”によるものだ。パウロは、この信仰に目が開かれたのです。
 もしパウロの人生がうまく行っていたら、“恵み”という価値観には気づかなかったと思われます。自分を変える必要がないからです。何かにぶつかって、挫折(ざせつ)して、苦悩して、人は初めて、新しい価値観に目が開かれ、新たな生き方へと導かれるのでしょう。
 この時から、パウロは、律法を守る“行い”を重んじる生き方ではなく、“恵み”によって救われる生き方へと180度方向転換します。律法を宣(の)べ伝えるのではなく、キリストの“恵み”を宣べ伝える者となります。それは、ユダヤ教徒からすれば、裏切りであり、赦せぬ神への冒涜でした。そういう生き方が、「あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えている」(21節)と見なされ、迫害され、命を狙われる原因となっていたのです。けれども、神の本意を、真理を知ったパウロには、恵みの道以外にはもはやないのです。
         *
 行いから恵みへ。これは、ただ単に宗教信仰だけの問題ではありません。信仰の有る無しに関わらず、人の存在と人生に関わる問題なのです。なぜなら私たちは、また多くの人が、なかなか自分をありのままに認めることができず、自分の行いに苦しみ、また他人との比較に悩みながら生きているからです。
 既に天に召された牧師で、藤木正三という方が次のように語っています。
 私たちは考えるでしょう。‥‥(立派な肩書、名誉、地位、権力、能力、お金)何かを持っている人は何となく偉いと‥‥また考えるでしょう。大きな仕事をする人は偉い、人には出来ないようなことをする人は偉い、地味なことを忍耐強くする人は偉い、人を助けたり、社会のお役に立つことをする人は偉い、要するに何かを“する”人は何となく偉いと私達は考えるのではないでしょうか。‥‥‥
私達が普通現実と言っている社会は、“持つ”と“する”で決まる社会です。万事は“持つ”と“する”をめぐって打算的、功利的、人為的に構築され、その中でいかにいちばんになるかで、私達は狂奔し、疲れています。そこでは“ある”に注意すること、存在に配慮することが完全になくなっています。そして、生かされて今“ある”という、いのちに対する根源的な感覚が麻痺しています。‥‥‥“持つ”ことを離れ、“する”ことを離れ、“ある”という事実‥‥に目覚めて生きる。それが‥‥イエスを信じる者の生き方なのです。(『福音はとどいていますか』8~10頁、ヨルダン社)
 何かを持つ、何かをする、という“行い”によって自分も他人も、その値打ちを計るのではなく、今、ここに“ある”ということ、置かれた場所で生きているということ、それを認め、受け入れ、喜び、感謝して生きていくということ。それが、自分のことをそのままに愛してくださる神の“恵み”を信じる、という生き方です。
 私たちはどうしても“行い”という価値観に苦しみ、迷います。その時にこそ、自分という存在がそのままに愛されて“ある”という“恵み”に立ち帰りましょう。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

       インスタグラム