坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「この道」

2022年11月13日 主日礼拝説教                       

聖 書  使徒言行録24章10~23節
説教者  山岡 創牧師

 10総督(そうとく)が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。 11確かめていただけば分かることですが、私が礼拝(れいはい)のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。 12神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動(せんどう)したりするのを、だれも見た者はおりません。 13そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙(あ)げることができません。 14しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派(ぶんぱ)』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝(れいはい)し、また、律法(りっぽう)に則(そく)したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。 15更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。 16こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。 17さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献(ささ)げるために、何年ぶりかで戻って来ました。 18私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動(そうどう)もありませんでした。 19ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。 20さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。 21彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」22フェリクスは、この道についてかなり詳(くわ)しく知っていたので、「千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする」と言って裁判を延期した。 23そして、パウロを監禁(かんきん)するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。

「この道」

 “これは、毎日がワーク・キャンプみたいだ。楽しそうだなぁ”。『夢見る小学校』というドキュメンタリー映画を観(み)た第一印象です。11月12日(土)午前中に、坂戸市の入西(にっさい)地域交流センターで、きのくに子どもの村学園の小中学校の様子を映した映画が上映されました。私も若い頃、子どもと関わることが好きで、教育に志を抱いたこともあり、また長男がこの映画の上映に関(かか)わっていたので観に行きました。

 子どもたちが、のこぎりや金づち、電動の工具などを使いながら、校庭に木製のアスレチックのような展望台を作っていました。しかも、大人はノータッチ!小学生の子どもだけで作っているのです。この木工建築の他、料理・農業、工作(アート&クラフト)、演劇、昔探検という5つの縦割りのプロジェクトがあり、これらのプロジェクトが授業の大半を占めています。南アルプス子どもの村小学校の子どもたちは、自分が取り組みたいプロジェクトを選びます。そこで子どもたちが能動的に取り組んだ体験をフィードバックして、国語、算数、理科、社会といった基礎授業(と言ってもプロジェクトに比べれば短い時間ですが)に結び付けていくのが、この学校のカリキュラムです。

 私だったらどのプロジェクトに入るだろうか?私は子どもの頃、ほぼ毎日5~6時間も紙工作に没頭しているような少年でしたから、工作プロジェクトもいいなぁ。でも、たぶん木工建築に入って、自分で設計図を描きながら、毎日ワクワク、建物や家具を作るだろうなぁ。あの頃の自分にピッタリの学校だ‥‥‥そんなことを、ふと思いました。

 この映画を観て、初めて知ったことがありました。それは、学校教育ではいわゆる数字で評価する“通知表”を出さなくていいということ。それどころか文部科学省の教育指導要領に則(そく)しているならば、授業もいわゆる国語、算数、理科、社会、英語‥‥といった形でしなくていい、ということです。これは公立の学校でもできるのです。きのくに学園は、教育指導要領に則しつつも、とても自由で、創造的な、子どもの興味とやる気を引き出すような教育に取り組んでいました。そこに一つの道があると感じました。

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「私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています」(14節)。パウロは、ローマ帝国のユダヤ州総督(そうとく)フェリクスを前で、このように答弁しました。パウロ自身が証言しているように、彼は、ユダヤ人の大祭司(だいさいし)や長老たちから、「世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こし」(5節)、律法に違反して「神殿さえも汚(けが)そうとした」(6節)罪で訴えられていました。けれども、それは事実ではなく、また何の証拠も挙(あ)げることができない告発でした。だから、その告発を否定しながら、しかしパウロは、自分は「ナザレ人の分派」(5節)と呼ばれる道に従って、ナザレの人イエスを神の子、救い主キリストと信じる信仰の道に従って、神を礼拝し、律法に則し、預言書の言葉を信じて生きていると、はっきりと証(あか)ししたのです。

 教育指導要領に則して、自分たちの教育理念を実践しているきのくに学園の取り組みと、律法と預言書、つまり聖書に則して、イエスを神の子、救い主と信じる道を歩いているパウロの姿が、私の中で重なり合うように感じました。この道には、ガチガチに凝(こ)り固まった決まりや規則はなく、自由と愛があり、人を笑顔にし、その心を慰(なぐさ)めと喜びで満たすものがあるのです。

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 かつて主イエスもこう言われました。「わたしが来たのは律法や預言書を廃止するためではない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5章17節)。主イエスは、ユダヤ人の律法学者やファリサイ派からしばしば、律法違反だ!と非難されました。特に、人が労働をせず、休むようにと定められている安息日(あんそくび)に、人の病を癒(いや)すので、安息日の掟を蔑(ないがしろ)にしていると責められました。他にも様々、律法の基準や常識に反していたため、やつは律法を廃止しようとしている!けしからん!と思われていたのでしょう。

 けれども、主イエスは律法に違反し、廃止しようとしていたわけではありません。自分の道、自分の信念に従って、律法と預言書に則した信仰生活をし、完成しようとしていたのです。律法学者やファリサイ派等、ユダヤ教の主流派は、律法の一字一句を正確に、厳格に守ることを「道」としていました。けれども、その道は少なからぬ人を否定し、苦しめ、道に迷わせました。そのような人々の苦しみを目の当たりにした主イエスは、律法と預言書の真髄(しんずい)は何か?と模索(もさく)されたのです。そして、心を尽して神を愛し、隣人を自分のように愛することが神の御心(みこころ)だと汲(く)み取り(マタイ22章40節)、「自分がしてもらいたいと思うことを‥‥人にもする」(マタイ7章12節」ことこそ、まさに律法と預言書の真髄だと受け取られました。その信念、その道に従って、主イエスは、律法と預言書を実践し、完成しようとしておられたのです。人を愛で救おうとしたのです。

 パウロも、この主イエスの“愛”の道に従って歩(あゆ)もうとしているのです。かつてはパウロも、熱心なファリサイ派のエリートでした。律法を守れない人々を否定し、主イエスの愛によって救われると信じるクリスチャンを激(はげ)しく迫害しました。

 けれども、失明によってパウロはファリサイ派の道に挫折(ざせつ)します。しかし、たとえ律法を守れなくとも、熱心な行いがなくても、自分という存在に無条件で注(そそ)がれている神の愛を信じるならば、愛を受け入れるならば救われる。この主イエスの道を信じて立ち上がり、歩き始めるのです。この道の喜びを伝道し、証しするようになったのです。

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 『夢見る小学校』の映画を見ながら、不思議と心の琴線(きんせん)に触(ふ)れた言葉がありました。“どんな椅子(いす)を作ってもいいのです”。建築木工のプロジェクトで自分が座る椅子を作るのですが、決まった設計図があるわけではなく、一人ひとりが、自分独自の椅子を作っています。その取り組みでのコメントが、なぜか心に響きました。

 後になって考えてみると、それは“どんな椅子を作ってもいいのです”という言葉が、“自分のままでいいんだよ”という、この学校の人間観に通じているからだと思いました。自分のままでいい。ありのままの自分で居られることは、私たち人間にとって、何よりの安心であり、喜びであり、幸せです。もしもそれが失われているならば、その精神状態、環境を回復することはまさに“救い”です。それは“愛”があって初めて可能になります。

 主イエスは、父なる神が愛の御心を注いでお造りになった人間一人ひとりを、愛のまなざしで見て、その人のありのままを丸ごと受け入れました。その御業(みわざ)によってどれだけの人が当時、そしてこの2千年の間に救われたことでしょう。神の愛は、人を自由にします。自分の“ありのまま”を認めます。隣人(りんじん)の “ありのまま”を受け入れます。私たちも今、「この道」を生きています。「この道」に招(まね)かれています。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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