坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「主を畏れる人の幸い」

2022年12月11日 待降節第三主日礼拝説教

聖 書 ルカによる福音書1章46~55節

説教者 山岡 創牧師
◆マリアの賛歌 46そこで、マリアは言った。「わたしの魂(たましい)は主をあがめ、47わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48身分の低い、この主のはしためにも/目を留(と)めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸(さいわ)いな者と言うでしょう、49力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名(みな)は尊(とおと)く、50その憐(あわ)れみは代々に限りなく、/主を畏(おそ)れる者に及びます。51主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、52権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、53飢(う)えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。54その僕イスラエルを受け入れて、/憐(あわ)れみをお忘れになりません、55わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

「主を畏れる人の幸い」
「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」(48節)
 マリアは、「救い主である神を喜びたたえて」(47節)、このように歌いました。神の恵みを悟(さと)ったからです。マリアのもとに天使ガブリエルがやって来て、「おめでとう。恵(めぐ)まれた方。主があなたと共におられる」(28節)と告げた時、最初マリアは戸惑(とまど)い、何のことか分かりませんでした。そして、自分が神の子を身ごもると教えられ、「どうして、そんなことがありえましょうか」(34節)と拒絶します。けれども、神の「力があなたを包む」(35節)との天使の言葉に思い直し、「お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)と、天使の言葉によって示された神の御心(みこころ)を受け入れます。
 その後マリアは、同じく神に力によって身ごもったという親類のエリサベトを訪ね、3カ月の間、共に過ごします。その生活、信仰の分かち合い、励(はげ)ましの中で、マリアの心の内に泉のように湧(わ)き上がった喜びの賛美が〈マリアの賛歌〉です。
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 「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」。黙想をしていて、ふとこの言葉が心に留まり、思い巡(めぐ)らしました。「幸い」、幸(しあわ)せって何だろう?マリア自身も神さまを賛美するほど幸せを感じているし、マリアを見た人も、マリアのことを“あの人は幸せだ”と見なす、と言うのです。
 だれかを見て“この人は幸せそうだな”と私が思う人って、だれだろう?考えてみました。皆さんは、この人は幸せそうだ、とパッと思い浮かぶ人はいますか?‥‥でも、よくよく考えてみると、人の幸せを、他人がその見た目で計ることはできないのではないでしょうか。幸せそうに見える人が必ずしも幸せを感じているとは限りません。マリアの言葉も、自分は幸いだと感じる喜びを、このような言い方で表現したのでしょう。
 幸せには客観的な基準なんてない。ふとブータンという国を思い起こしました。世界でいちばん幸福な国、国民のほとんどが“自分は幸せ”と答える国だと言われています。アジアの小さな国であり、決して経済的に豊かなわけでも、便利なわけでもありません。でも、国民は“雨風をしのげる家があり、食べるものがあり、家族がいるから幸せだ”と答えるのです。基本的な生活が満たされていることに幸せを感じていたのです。
 ところが、2019年の世界幸福度ランキングで、ブータンの順位が急激に落ちました。その理由について、“かつてブータンの幸福度が高かったのは、情報鎖国によって他国の情報が入って来なかったからでしょう。情報が流入し、他国と比較できるようになったことで、隣の芝生が青く見えるようになり、順位が大きく下がったのです”と言われています。(前ブータン王国名誉総領事館のホームページより)
 私はふと、創世記3章に記されているエデンの園の物語を思い起こしました。神さまによって造(つく)られ、命を与えられた最初の人アダムとエヴァは、エデンの園で、それこそ幸せに暮らしていました。ところが、蛇(へび)に誘惑されて、食べてはいけないと神さまから命じられていた知恵の木の実を食べてしまいます。それによって目が開け、自分が裸であることを知り、神さまを避(さ)けるようになってしまったのです。
 インターネットという手段によって他国の情報と知識という実を得て、目が開かれた結果、ブータンの人々は、他国と比べて自分たちの姿を見てしまったことで、もっと豊かで、便利な生活があることを知り、幸せを感じなくなってしまったのでしょう。情報と知識を得ることが、かえって幸せを失わせたのです。
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 幸せとは難しいものだと感じます。今日の聖書の御言葉、マリアの賛歌は、「幸い」について、私たちに何を語りかけているのでしょうか?マリアが自分のことを「幸いな者」と語っている理由は、神さまが、身分の低い、取るに足りないような自分に「目を留めてくださり」(48節)「偉大なことをなさり」(49節)「憐れみ」(50節)をかけてくださったからです。それはマリアが「主を畏れる者」(50節)だったからです。
 「主を畏れる者」とはどんな人でしょうか?気をつけたいのは、畏れとは恐怖という“恐れ”ではないということ、神の裁き、神の罰(ばつ)を恐れるという意味ではないという点です。畏れるとは、神さまをかしこみ、敬う人。神の言葉に耳を傾け、その御心を受け止め、従う人のことでありましょう。
 1章26節以下にあるマリアの信仰から「神を畏れる者」とはどんな人かを考えてみましょう。マリアは神の力によって身ごもりました。けれども、エリサベトを除けばだれも、それが神の力だとは信じないのです。目に見えるのはマリアが身ごもったという事実だけです。いいなずけのヨセフでさえも、マリアが身ごもったことを知って、これは表沙汰(おもてざた)になれば姦淫(かんいん)(不倫)の罪に問われると思い、秘かに離縁(りえん)しようと考えました。まして周りの人々は、口には出さなくとも、マリアは律法の掟(おきて)に違反したと思っていたでしょう。だから、「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」どころではないのです。周(まわり)りからは白い目で見られていたかも知れません。
 マリアも最初は、神さまのなさる事を「幸い」とは思わず、拒絶しました。けれども、天使を通して神の言葉を聴き、神さまの力が自分を包むこと、神さまが取るに足りないような自分に目を留めて、憐れみをかけてくださることを信じました。一言で言えば、“神さまに愛されている”と信じたのです。そして、その信仰によって自分に起こった出来事が、単に不幸なのではなく、「恵み」(30節)であり、「祝福」(42節)であり、「幸い」(48節)であると捉(とら)え直しました。つまり、神の言葉を聞いて、神の視点で、神さまの基準で、愛を信じる心で、自分の身に起こった出来事を見直した時に、そこに幸いが見えたのです。愛に包まれて、神のメッセージが見えたのです。
 もちろん、幸いはそう簡単に見えるものではありません。自分の身に起こる出来事が苦しく悲しいものであればあるほど見えません。神の愛を信じて、見ようとしなければ見えないでしょう。信じて、求めて、探すのです。
 『少女パレアナ』という童話があります。パレアナは、牧師である父親から“幸せ探し”のゲームを教えられます。どんなことにも何か幸せな要素を探し出すのです。両親が死んで、親戚(しんせき)の家で暮らすことになり、屋根裏の粗末な、狭い部屋に追いやられても、パレアナは“鏡がなくて幸せ。だって自分のそばかすを気にしなくて済むもの”と考えました。事故で歩けなくなった時も、自分を訪ねてくれるたくさんの人々の存在に、愛されていることを感じ、そこに幸せを探し出すのです。
 幸せは権力があっても、高い身分や富があっても得ることができないでしょう。信仰者の幸いは、神の愛を信じる信仰によって得るものです。神の愛を信じる人は、自分と他人を比べなくなります。どんなことにも神の愛の目的を探そうとします。ありのままの自分が愛され、認められ、赦(ゆる)されていることを信じます。クリスマスは、神さまがその独(ひと)り子イエス・キリストによって届けてくださった神の愛を受け取り、信じる時です。

 

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