坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「人へのおもねりと神への誠実」

2023年1月8日 主日礼拝説教                          
聖 書 使徒言行録25章1~12節
説教者 山岡 創牧師
1フェストゥスは、総督(そうとく)として着任して三日たってから、カイサリアからエルサレムへ上った。 2-3祭司長たちやユダヤ人のおもだった人々は、パウロを訴え出て、彼をエルサレムへ送り返すよう計(はか)らっていただきたいと、フェストゥスに頼んだ。途中で殺そうと陰謀をたくらんでいたのである。 4ところがフェストゥスは、パウロはカイサリアで監禁されており、自分も間もなくそこへ帰るつもりであると答え、 5「だから、その男に不都合(ふつごう)なところがあるというのなら、あなたたちのうちの有力者が、わたしと一緒に下って行って、告発すればよいではないか」と言った。
6フェストゥスは、八日か十日ほど彼らの間で過ごしてから、カイサリアへ下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令した。 7パウロが出廷すると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちが彼を取り囲んで、重い罪状(ざいじょう)をあれこれ言い立てたが、それを立証することはできなかった。 8パウロは、「私は、ユダヤ人の律法(りっぽう)に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」と弁明した。 9しかし、フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロに言った。「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか。」 10パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。 11もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免(まぬが)れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴(じょうそ)します。」 12そこで、フェストゥスは陪審(ばいしん)の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」と答えた。

「人へのおもねりと神への誠実」
 「お前は、エルサレムに上って、そこでこられのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか」(9節)。新たにローマ帝国のユダヤ州総督(そうとく)に就任したフェストゥスはパウロに言いました。まだ監禁(かんきん)と裁判が続くのか!?その言葉を聞いた時、パウロは、うんざりしたに違いありません。なぜなら、カイサリアにある総督官邸に2年余り監禁されていたからです。早く自由の身になって、思うままに主イエス・キリストを伝道したいと考えているパウロにとっては、迷惑な提案だったでしょう。
 パウロは、ユダヤ人たちの訴えと前任の総督であるフェリクスの思惑(おもわく)によって長らく監禁されていました。事の発端(ほったん)は、パウロが海外伝道からエルサレムに帰って来た時に起こりました。久しぶりにエルサレム神殿に参拝したパウロを、海外出身のユダヤ人たちが捕らえたのです。彼らは、パウロが、ユダヤ人にも異邦人にも、ユダヤ教の掟である律法に違反することを教えている、と腹を立てていました。しかも今、神殿に外国人を連れ込んで、神殿を汚(けが)した、と誤解したのです。彼らはそのようにまくし立て、神殿にいた他のユダヤ人たちも巻き込みます。そして、パウロがあわやリンチで殺されそうになっていた時、騒ぎを聞きつけたローマの守備隊が、彼をユダヤ人の間から助け出し、保護下に置きました。そのためにユダヤ人たちはパウロに手を出すことができず、裁判に訴えます。パウロは、ローマ帝国の法律から見て懲罰(ちょうばつ)に当たるような罪は犯していませんでした。けれども、「ユダヤ人に気に入られようと」(24章27節)するフェリクスの意図(いと)によって、パウロはその後、判決保留のまま2年の間、監禁され続けたのです。
 その後、後任のフェストゥスが着任したのを機に、ユダヤ人たちがパウロを訴え出て、再び裁判になりました。しかし、やはり懲罰に当たる罪は立証されなかったのですが、最初に話したようにフェストゥスが再審の提案をします。それを聞いて、このままでは埒(らち)が明かないとパウロは感じたのでしょう。「わたしはローマ皇帝に上訴します」(11節)と、言わば最高裁判所に上告を申し立てたというわけです。
 パウロは、ローマ帝国の首都ローマでの伝道を計画していました。その意味では、事、志とは違ったでしょう。けれども、被告人としてローマに護送されるという現実の中で、パウロのローマ伝道の志は実現していくのです。事、志とは違っても、神さまの御心(みこころ)と計画において、万事は益となっていく。信仰があれば、そのように私たちを導き、良い物を備えてくださる神の恵みが、私たちの人生にもきっと見えてきます。
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 さて、今日の御言葉を黙想しながら、私が思いを留めたのは、総督フェストゥスの心柄(こころがら)でした。彼は「ユダヤ人に気に入られようとして」(9節)、エルサレムでの裁判を提案しました。フェリクスもそうでしたが、彼は自分自身の信念でも、正義からでもなく、人の目を気にし、人の思惑におもねって、気に入られようとしたのです。
 彼はユダヤ人を治(おさ)める総督です。だから、できるだけユダヤ人に反感を抱かれず、いざこざを起こさずに治めたい。そのために、ユダヤ人に気に入られるような振舞いをしようとしたのです。そのような政治的な判断と行動が分からないわけではありません。けれども、そこには自分の信念がない。自分の正義がない。つまり、そこに“自分”がないのです。ジブリの映画『千と千尋の神隠し』に出てくる“顔なし”です。ただ欲望だけがあって“自分”がない。その生き方に、何か腑(ふ)に落ちない残念さと嫌気を感じるのです。
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 主イエスは、山の上の説教で、信仰による施(ほどこ)し、祈り、断食(だんじき)について教えました。そこで主イエスが注意したのが、人に見てもらおうとして、人から評価してもらおうと期待して、人が見ているところでこれらの善い行いをするな、ということでした。それでは人に気に入られても、神さまには喜ばれない。そうではなく、隠れたところに(つまり見えないところに)おられ、隠れたことを見ておられる神さまを相手に、善い行いをしなさい。そうすれば、人の評価を得られなくとも、父なる神が見ていて報いてくださる、と主イエスは教えました。人を相手にして生きると残念なことになりがちです。見えない神さまを相手に生きる。信仰の本質はそれです。
 そして、神さまを相手に生きているのがパウロです。彼は自分の信念と正義をはっきりと弁明しました。そして、「もし、悪いことをし、何か死罪に当たるようなことをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません」(11節)と語っています。もし自分の欲望を押し立て、自分の保身を考えていたら、こんなことは決して言えないでしょう。
 このように潔(いさぎよ)い態度は、人ではなく神を相手にしているからこそ生まれる生き方です。神さまは目には見えませんし、現実的に目に見える形で、自分の欲に適う報いをもたらしてくださるわけでもありません。けれども、見えない方を相手にしているからこそ“自分が自分として”生きているかどうかが問われるのです。自分の信念が、自分の正義が、そしてそれが独善に陥っていないか、見えない自分の内側が問われるのです。それゆえに神の言葉を聴き、主イエス・キリストという鏡の前に立って、自分を整える。悔い改める。私たちを愛してくださる神さまに、誠実に応えて生きるのです。
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 箱根にある星の王子さまミュージアムが、今年3月いっぱいで閉館だそうです。『星の王子さま』、サン・テグジュペリによって描かれたこの本はとても不思議な内容です。小さな星に住んでいた王子が、大好きな一本のバラとけんかをして、その星を飛び出します。そして色々な惑星を遍歴(へんれき)し、最後に地球にやって来る。そこで、サハラ砂漠に不時着していた一人のパイロットと出会い、きつねと友だちになり、一年後に自分の星に戻って行きます。その間の王子の経験と言葉が書き連ねられているのですが、この本のテーマは“大切なものは目に見えない”ということだと思います。
現代社会において、目に見えるものに、目に見える現実と結果に心を奪われがちな私たちにとって、見えないものを大切に受け止めながら生きることが、どれほど有意義なことか。神さまを相手に生きることが、どれほど自分を整えて生きることになるか。聖書はこの恵みを私たちに語りかけてきます。人は見えます。でも神さまは見えません。しかし、見える人を愛して生きるには、見えない神さまと向き合うことが必要だと聖書は語りかけてきます。
 私たちは、神さまが私たちを愛してくださっていると信じます。目には見えない神を、愛を信じます。この神さまを相手に、愛を持って、誠実に応えて歩みましょう。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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