坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「イエスが生きている?」

2023年1月15日 主日礼拝説教                        
聖 書 使徒言行録25章13~22節
説教者 山岡 創牧師

13数日たって、アグリッパ王とベルニケが、フェストゥスに敬意を表するためにカイサリアに来た。 14彼らが幾日もそこに滞在していたので、フェストゥスはパウロの件を王に持ち出して言った。「ここに、フェリクスが囚人(しゅうじん)として残していった男がいます。 15わたしがエルサレムに行ったときに、祭司長(さいしちょう)たちやユダヤ人の長老たちがこの男を訴え出て、有罪の判決を下すように要求したのです。 16わたしは彼らに答えました。『被告が告発されたことについて、原告の面前で弁明する機会も与えられず、引き渡されるのはローマ人の慣習ではない』と。 17それで、彼らが連れ立って当地へ来ましたから、わたしはすぐにその翌日、裁判の席に着き、その男を出廷させるように命令しました。 18告発者たちは立ち上がりましたが、彼について、わたしが予想していたような罪状は何一つ指摘できませんでした。 19パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。 20わたしは、これらのことの調査の方法が分からなかったので、『エルサレムへ行き、そこでこれらの件に関して裁判を受けたくはないか』と言いました。 21しかしパウロは、皇帝陛下の判決を受けるときまで、ここにとどめておいてほしいと願い出ましたので、皇帝のもとに護送(ごそう)するまで、彼をとどめておくように命令しました。」 22そこで、アグリッパがフェストゥスに、「わたしも、その男の言うことを聞いてみたいと思います」と言うと、フェストゥスは、「明日、お聞きになれます」と言った。


「イエスが生きている?」
 アグリッパ王とベルニケ。二人は、フェストゥスがローマ帝国のユダヤ州総督に就任(しゅうにん)した際に表敬訪問に訪れました。初めて聞く名前だ、という人もおられることでしょう。ユダヤの王様と言えば、主イエスが生まれた時のヘロデ王がよく知られています。
 ところで、ローマ帝国のトップにはローマ皇帝がいるのに、どうして王様がいるのだろう?と疑問を感じた人がおられるかも知れません。確かにローマは王国ではありません。皇帝を政治の頂点とする帝国です。それなのに、どうして王様がいるのでしょう?
 それは、ローマ帝国が支配した国や民族の元々の政治制度を認めていたからです。ローマ帝国は戦争によって領土を拡大し、新たに支配した領土を属州として、そこに総督(そうとく)と守備軍を派遣します。そして、税金を徴収(ちょうしゅう)する権利と人を死刑にする権利を管理下に置きます。それ以外は、その地域に住む民族のライフ・スタイルや政治制度を認めるのです。ユダヤ人は王国制を敷いていました。だから、ユダヤ州にはユダヤ人の王がいたのです。アグリッパ王はその地域のユダヤ人の王であり、ベルニケはその妹でした。
 とは言え、徴税権と死刑権はユダヤ人にはありません。だから、パウロの死刑を求めるユダヤ人の祭司長や議員たちは、総督であるフェストゥスに訴え出たのです。それでパウロの再審が行われたのですが、ローマの法律に照らして死刑に当たる罪は、パウロにはありませんでした。それなのに、フェストゥスはパウロにエルサレムに戻って再々審を行うか?と提案します。それでは途中でパウロ暗殺を企てているユダヤ人の思うつぼです。それでパウロが、ローマ皇帝に上訴(じょうそ)せざるを得ない運びとなったのです。
       *
 パウロとユダヤ人たちが「言い争っている問題」(19節)は、ローマの法律に違反するような政治的な問題ではなく、「彼らの宗教に関すること」(19節)でした。それは「死んでしまったイエス」(19節)に関わることであり、「このイエスが生きている」(19節)とパウロが主張していることが両者の争点だとフェストゥスは見ていました。つまり、主イエスの“復活”に関わる宗教的、信仰的な捉え方の問題です。
 主イエスは、ユダヤ人の祭司長や議員たちに裁かれ、帝国に対する反乱罪で訴えられました。裁判がエルサレムで行われたためユダヤ人群衆の圧力もあり、当時のユダヤ州総督ピラトは死刑判決を下します。それで主イエスは十字架に架けられ、殺されました。
 ところが、その主イエスが復活(ふっかつ)して弟子たちの前に現れました。その出来事が福音書(ふくいんしょ)の中で数多く報じられています。そして、復活した主イエスから再び、神の救いを宣(の)べ伝えよ、と命じられたからこそ、弟子たちは、主イエスによる救いを宣べ伝え、教会を生み出していったのです。パウロもまた、復活した主イエスと出会い、異邦人への伝道を命じられたので、回心(かいしん)し、命をかけて主イエスによる救いを宣べ伝えていたのです。
 イエスは生きているのです。とは言え、それは主イエスが“生身(なまみ)の体”で生き返ったということではありません。弟子たちに現れた主イエスは、40日後に天に昇って行かれたと、使徒言行録(しとげんこうろく)1章は報じています。パウロは、天から主イエスの声を聞くという形で、“生きている主イエス”と出会います。このような聖書の記事から、「イエスが生きている」ということを、私たちはどのように受け取り、信じればよいのでしょうか。
       *
 話は変わりますが、浜松市の精神保健福祉センターが〈いのちをつなぐ手紙〉という冊子(さっし)を発行しています。その4376号に、小学校5年生が次のような文書を書いていました。
 「いのち」、この言葉を聞いていつも思うことがあります。それは、わたしのひいおじいちゃんが亡くなってしまった時のことです。わたしが1年生の時、ひいおじいちゃんは亡くなりました。ひいおじいちゃんは、わたしが産まれた時からずっとかわいがってくれて、心配もしてくれました。そんなひいおじいちゃんが90さいをすぎ、だんだん体が弱くなっていき、動けなくなってしまいました。そのすがたを見てわたしは、もう死んでしまうのではないかとこわくなり不安になりました。死んでしまうともう会えなくなってしまうと思ったからです。少しでも長く一緒にいたいと思い、わたしはひいおじいちゃんのお世話を手伝い、できる限り一緒にいるようにしました。家族みんなが元気になることを祈ったけれど、それでもひいおじいちゃんは亡くなってしまいました。もう会えなくなってしまうんだなと、とても悲しくなって、涙がとまりませんでした。‥‥
 でもある時、目には見えないのに、ひいおじいちゃんがなぜかそばにいるような気がしました。その時からひいおじいちゃんを思い出しても涙が出なくなり、パワーをもらっているような気がしてきました。だから、亡くなっても一緒にすごすことができると思っています。ひいおじいちゃんは今でも生きている時と同じようにわたしをかわいがって心配してくれていると思います。見守っていてくれるからわたしもひいおじいちゃんに喜んでもらえるように一生けん命生きたいです。‥‥
 この子は、亡くなったひいおじいちゃんが、目には見えないけれど、そばにいる、パワーをもらっている、一緒に過ごすことができる、生きている時と同じようにかわいがり、見守っていてくれると感じています。これは理屈ではありません。この子自身の、命に対する感性であり、存在に対するセンスです。そして、そのように実感しているからこそ、ひいおじいちゃんに喜ばれるように生きたいと願っています。
       *
 「イエスが生きている」という信仰も、この子の思いと似ているのではないでしょうか。生前の親しい、愛と信頼の関係が、相手が亡くなった後も、その存在を身近に感じ、生きる力を与えるのです。困難や悩み、迷いの中にある時に、亡くなった人の言葉が、自分を導き、支え、命の価値観と生き方そのものを大きく変えるのです。
私も、主イエスの言葉を直接聞いたり、霊的なものを体感した経験があるわけではありません。でも、大学受験に2度失敗し、神さまに与えられた自分の価値を見失い、自信をなくしていた私が、主イエスの言葉と愛によって、命の価値観が180度逆転し、自信と喜びを取り戻して生きるようになりました。主イエスに喜ばれるように生きようと願うようになりました。その意味では、「イエスが生きている」ということは、“イエスによって私の命が生かされている”ということにほかなりません。
もし違いがあるとすれば、「イエスが生きている」ということは、信じている自分が死んだら、それと共に消滅してしまうような、単に主観的なものではない、ということでしょう。主イエスは天にあって永遠に生きており、働き続けている。それがキリスト教の教理です。とは言え客観的な教理は、主観的な信仰とならなければ意味がありません。
パウロは、ガラテヤの信徒への手紙2章20節で、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と証ししています。私たちも「キリストがわたしの内に生きておられる」と信じ、主イエス・キリストの存在と愛を身近に感じ、愛のパワーをもらいながら歩みたいと願います。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

       インスタグラム