坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「光を見た」

2023年1月29日 主日礼拝説教                          
聖 書 使徒言行録26章12~18節
説教者 山岡 創牧師

12「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、 13その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。 14私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。 15私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 16起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。 17わたしは、あなたをこの民と異邦人(いほうじん)の中から救い出し、彼らのもとに遣(つか)わす。 18それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦(ゆる)しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」

「光を見た」
 畑を耕(たがや)すというのはなかなか大変な作業です。私も以前、家庭菜園をしていましたが、広くはなくても隅々まで耕すとなると大変でした。それである年は、教会員で小型のトラクターをお持ちの方からお借りしたこともありました。文明の利器、感謝!
 昔はもちろん、そんな便利な機械はありません。だから、人が人力で広い畑を耕そうとしたら、とんでもない時間がかかります。それで、動物に鋤(すき)を引かせて畑を耕しました。聖書の時代の農業もそうしたようですが、若く気性の荒い牛は鋤を付けられるのを嫌がって、後ろ足で鋤を蹴って外そうとするのだそうです。それで、牛と鋤の間に「とげの付いた棒」を取りつける。すると、牛はその棒をけると痛いので、そのうち蹴らなくなり、おとなしく鋤を引いて畑を耕すようになるのだそうです。
 そのことから「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(14節)という格言が生まれました。反抗すると自分が痛い目に遭うので、無駄である、という意味を表わしているのだそうです。
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 かつてのパウロは、キリストに反抗し、教会とクリスチャンを迫害する人間でした。直前の9節以下でもパウロ自らそのように語っています。律法(りっぽう)を行うのではなく、神の愛と赦しによって救われるというキリストの信仰が、パウロには許せなかったのです。
ところが、ダマスコに迫害に向かう途中で、パウロは「天からの光」(13節)に照らされ、その光の中で主イエス・キリストの声を聞きます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(14節)。この体験によってパウロは、キリストを迫害する人間から、キリストを信じ、キリストを宣(の)べ伝え、教会とクリスチャンを生み出す人間に変えられたのです。
 パウロの回心(かいしん)の体験は、使徒言行録(しとげんこうろく)9章と22章にも描かれ、語られています。これで3度目です。けれども、「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」という言葉は前の2回にはありません。初めて語られた言葉です。
 思うにこれは、キリストの言葉と言うよりも、パウロ自身が、かつての回心体験を振り返って感じたことを、身近な格言で表したのではないでしょうか。かつての自分は、人を救う神さまの壮大な計画を前にして、それに気づかず、苛立(いらだ)ち、まるでとげの付いた棒を蹴るかのように、無意味で、無駄なことをしていた、と。
 私たちもそうだと思いますが、自分の体験を振り返って語る時、年月と共にその体験の捉(とら)え方と表現が少しずつ変わって来ます。それは、年齢を重ねるに連れ、考え方や生き方が成長し、深まって行くからです。
 パウロの体験は、彼が書いた手紙から推測すると、この時おそらく20年以上の年月が経(た)っていたと思われます。そして、“今”の自分が“かつて”の回心体験を振り返ってみると、あの教会迫害は自分にとっても痛みだったなぁ、キリストに対する反抗は無意味で、無駄なことであったなぁ、とパウロには感じられたのでしょう。
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 クリスチャンを痛めつけ、教会に痛みを与えていたのはパウロです。ところが、痛めつけている自分自身が心に痛みを感じていたと述懐(じゅくかい)しているのです。
パウロは、自分が捕らえ、処刑に賛成するクリスチャンたちの多くに、「光」(13節)を見ていたのではないでしょうか。迫害されているクリスチャンたちは、泣き叫んだり、相手を呪(のろ)ったりするのではなく、キリストを信じ、復活と神の国を信じて、潔(いさぎよ)く、気高く、落ち着いている。その様子に、自分の怒りと憎しみの信仰と態度に比べて「太陽より明るく輝く」(13節)光を、そして強烈なアンチテーゼを感じ、動揺したのではないでしょうか。自分の信仰は果たしてこれで良いのか?間違っているのではないか?と。
その問いかけを最も強烈に感じたのは、ステファノの処刑の時だったのではないかと思われます。ユダヤ人の最高法院に立たされたステファノは、「その顔はさながら天使の顔のように見えた」(6章15節)と記(しる)されています。そして彼は、自分たちの信仰に驕(おご)っているユダヤ人の過ちを語ったため、その場で石打ちの刑にされ、殺されます。それでも、ステファノは、キリストを信頼して、自分の命をゆだね、更に自分に石を投げる者のために「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(7章60節)と祈って死んでいったのです。その姿と信仰はパウロの心を強烈に揺さぶったに違いありません。
それでもパウロは暴れ続けました。自分の心の声に素直になれず、自分の間違いを認めることができず迫害を続けました。それは教会とクリスチャンを痛めつけながら、実は自分の心を偽(いつわ)り、自分に嘘をつきながら行動しているわけですから、まるで「とげの付いた棒」を蹴るかのように、自分の心がどんどん痛んでいくわけです。
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 そんなパウロがついに、自分の間違いを認める時が来ます。自分のしていることが無意味であり、無駄であると悟る時が来ます。そのきっかけは、ダマスコの教会を迫害しに行く途中で失明する体験をしたことでした。その出来事はパウロにとって、今まで神のためにと思って取って来た教会迫害の行動が、神さまによって否定されたかのような強烈なショックでした。パウロは絶望という「闇」(18節)の中にうずくまります。
 けれども、その時、パウロにもう一つの、太陽より明るく輝く「光」が射(さ)します。それは、神の愛に包まれ、キリストに赦される「光」でした。それは、アナニアというダマスコのクリスチャンを通して彼に射した神の光でした。
この愛と赦しに支えられ、パウロは自分の今までの間違いを、つまり神への罪を認め、悔い改め、「闇から光へ」と歩み始めるのです。それはまさに“希望”という名の「光」でした。その光を味わって、パウロは初めて、自分のしてきたことは無意味で、無駄であったと素直に認めることができたのです。自分の正しさを守ろうとして、心にもない言動や態度を取るのではなく、神さまに赦されて歩む恵みを知ったのです。
 どうして自分の間違いを素直に認めることができないのだろうか?そのように思うことが少なからずあります。過ちを感じていても素直になれないのです。それは私(たち)が、自分のことを“正しい人間”だと思いたいからでしょう。自分で自分の正しさを主張し、弁護しなければ、自分がやって来たことをすべて否定してしまうかのように、まるで人生の立つ瀬がなくなってしまうかのように考えているからです。まさにエデンの園でのアダムとエヴァが自己弁護と責任転嫁をした振る舞い(創世記3章)と同じです。
 けれども、そのように愚かな私たちを、神さまは愛して憐れみ、キリストは赦して、受け入れてくださいます。そこに私たちを支える“立つ瀬”があります。自分の正しさではなく、神の愛と赦しこそ、立つべき人生の土台、魂の立つ瀬なのだ。私たちは、愛され、赦されている人間だからこそ、生きられる。そう信じた人は変わります。立ち帰ります。繰り返し悔い改めます。「闇から光へ」と歩み始めます。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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