聖書 ルカによる福音書2章1〜7節
説教者 山岡創牧師
◆イエスの誕生
2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
「場所を用意しよう」
最近、教会員関係者の間で、“お孫さん”がお生まれになったとの話を聞きました。赤ちゃんが生まれる。この世に新しい命が、家族が誕生する。それは、どんなに大きな喜びでありましょう。
けれども、赤ちゃんが誕生するという喜びの背後には、現代の厳しい出産事情があります。それは、多くの方がご存じと思いますが、今、日本では赤ちゃんを出産できる場所が少なくなって来ている、という事実です。お産を引き受ける病院、産婦人科が減って来ました。坂戸市でも今では、小川病院と清水病院の二つしかありません。今、日本全国、出産を引き受けているほとんどの病院が、“予約制”でありましょう。いつでも、どこでも赤ちゃんを産めるという状況ではないのです。
陣痛が始まった妊婦が、どこの病院でも受け入れてもらうことができず、やっとたどり着いた病院で、しかし、お母さんが亡くなる赤ちゃんが亡くなる、という悲しい問題が続けて起こっています。それだけ、出産を引き受けている病院が少なく、また少ないために手いっぱいだということでもあるのでしょう。妊娠したら早めに出産のできる病院を見つけ、予約をしておかないと、安心して出産の日を迎えることができない。現代日本は、そういう出産事情を抱えています。
実は、主イエス・キリストの母となったマリアも、落ち着いて安心して出産をすることができませんでした。不安の中で迎えた、非常に辛い出産であったと思われます。どうしてそういうことになったのでしょう? それは「宿屋には彼らの泊る場所がなかったから」(7節)です。安心して出産できる「場所」がなかったのです。
マリアが出産をした当時「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が」(1節)出されていました。皇帝アウグストゥスという名前は、皆さん、学校の歴史の授業で聞いた覚えがおありでしょう。地中海周辺の広大な領土を納めたローマ帝国で初代の皇帝となった人です。このアウグストゥスから住民登録の勅令が出た。全領土というのはちょっとオーバーで、シリア州の一部ユダヤ地方だけで行われたようです。ともかく、そのような事情でユダヤの人々住民登録をしなければならなくなった。自分が住んでいる町や村、生活している場所で登録すれば簡単なのですが、ユダヤ人は自分の家系、血筋を重んじる人々ですから、皆、自分たちの宗家本家のある町や村に旅をすることになったのです。ヨセフはダビデという、かつてユダヤ人の王だった人物の家系だったので、ダビデの家系の本家があるベツレヘムへ、身重のマリアを連れて旅をすることになりました。しかし、ベツレヘムの町は同じ理由で旅をして来た人々でいっぱいで、二人が着いた時には泊まれる宿屋がありませんでした。それで仕方なく家畜小屋に寝泊まりすることになったのでしょう。マリアが出産した時「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(7節)とありますが、飼い葉桶というのは、家畜が食べる草を入れる桶ですから、そんなところに寝かせたということは、出産が行われた場所が家畜小屋だったのだろう、という推測がなされるわけです。家畜小屋と言えば、私たちは宿屋の裏手に家畜小屋があって、宿屋さんが“部屋はないが、家畜小屋なら‥‥”と言って二人を案内するような場面を想像するかも知れませんが、そういう家畜小屋ではなくて、郊外の洞穴だったのではないかとの説もあります。野原で羊を放牧する羊飼いたちが、夜は洞窟で羊たちを休ませるのが当時のスタイルだったようで、二人はさまよい歩いた末に、そのような洞窟でマリアに陣痛が起り、出産することになったのかも知れません。
いずれにせよ、このような事情でヨセフとマリアはベツレヘムの宿屋に泊ることができなかった。まともな場所で出産することができなかったのです。どんなに不安で、辛い出産であったでしょう。そして、それはだれにも知らされない、ひっそりとした出来事でした。そのような事情を、聖書は一言で「宿屋には彼らの泊る場所がなかったからである」という言葉で表しているのです。
「宿屋には彼らの泊る場所がなかったからである」。私はこの御言葉を読むたびに思うことがあります。それは、ただ単に、ヨセフとマリアに泊る場所がなかったというだけの意味ではない。裏を返せば、神さまがこの世に、私たちにお与えくださる救い主イエス・キリストをお迎えする「場所」がなかったということではないか、と。
神の子、救い主がお生まれになるのに、それをお迎えする「場所」の用意が出来ていない。極めて失礼な話です。けれども、もちろん、マリアから生まれる子が神の子、救い主だなどとは、世間のだれも事前に知らされていたわけではない。だから、場所の用意がないのも無理はありません。もし、生まれて来る子供が王様の子であるとか、そんな大げさなことではなくとも、自分の身内に赤ちゃんが生まれると分かっていれば、私たちは何かしらそのための準備をするし、場所を整えて待つでありましょう。
けれども、現代において私たちが「宿屋には彼らの泊る場所がなかったからである」という御言葉を信仰的に受け止める時、それは空間的な場所や表面的な用意・準備の問題ではなく、私たち自身の心の内に、信仰的な意味で、救い主イエス・キリストをお迎えし、受け入れる「場所」があるか、整えられているか、という問いかけになります。
今、クリスマスを待ち望み、準備をする待降節アドベントを歩んでいますが、お生まれになるイエス・キリストを、私たちの心に“救い主”としてお迎えする用意をしているでしょうか。祈りながら過ごしているでしょうか。聖書の御言葉を黙想しながら過ごしているでしょうか。毎日の生活や楽しみに心を労する余り、クリスマスは2の次、3の次、神さまのこと、信仰のことはそっち除けになってはいないでしょうか。否、アドベントの時ばかりの話ではありません。1年を通して、否、生涯通しての信仰生活の中でたゆまず、この“私”の心に、救イエス・キリストを救い主としてお迎えする、そのための「場所」を用意し、整える、そういう心で生きているでしょうか。
「宿屋には彼らの泊る場所がなかったからである」との御言葉から、私たちはそのことを問われていると思うのです。
イエス・キリストがお生まれになった時、この世には、その「場所」がありませんでした。そして、人の心の内に、この神の子・救い主をお迎えし、受け入れる「場所」がありませんでした。
しかしながら、イエス・キリストがこの世の救い主、私たちの救い主としてお生まれになったのは何のためでしょうか。それは、ある意味で、私たちのために「場所」を用意するためにお生まれくださったと言っても良いのです。この世に「場所」のなった方が、この世の人々の救いのために「場所」を用意してくださるのです。否、この世に「場所」のない不安、苦しさをよくご存じだからこそ、私たちがその不安、苦しさから救われるために、私たちのために「場所」を与えてくださるのかも知れません。
イエス・キリストが与えてくださる「場所」は、空間的な場所、スペースのことではありません。そうではなくて、精神的な場所、心の置きどころと申しましょうか、私たちが安心していられる“心の場所”です。もう少し詳しく言えば、自分が愛され、受け入れられている場所です。格好つけたり、背伸びをしたり、無理に頑張らなくても、自分が自分のままで安心して居られる場所、振舞える場所です。自分の“居場所”です。しかし、居場所というものはやっぱり、家とか、学校とか、会社とか、空間的な場所が有るか無いかという問題ではなく、そこに自分が愛され、受け入れられて、安心していられる“関係”があるかという問題です。“場所”の問題とは、実は“関係”の問題なのです。
イエス・キリストは、私たちに神の愛を伝えるために、この世においでくださいました。神さまは、イエス・キリストを通して、私たちに対するご自分の愛を表してくださいました。神の御心を説き明かすキリストの言葉を通して、キリストが人々と接したその温かさを通して、そしてキリストが私たちの罪を負って命を献げてくださった十字架の出来事を通して、そしてそれらキリストの御業を記した聖書を通して、私たちに対する大きな愛を示してくださいました。
自分という存在は、神さまに愛され、受け入れられている。この愛、この恵みを信じる時、神さまとの“関係”が生まれます。神さまは私たちを愛し、私たちは神さまを信じるという関係です。信仰による心の関係です。そして、この関係の下に、私たちは自分の人生をいちばん深いところで安心して生きることができるようになります。なぜなら、人生の居場所があるからです。神の愛の内に、“私の場所”があるからです。
そのことは、神さまに自分を登録すること、神さまに属することだと言っても良いでしょう。今日の聖書の中で、ローマ帝国の住民登録という事柄が出て来ました。住民登録をするとは、自分がどの町に、延いてはどの国に属しているかを確認するということです。また、ヨセフがダビデの家に属しているということも出て来ましたが、こちらは国ではなく、自分がどの民族に属しているかという血統、家系の事柄です。
いずれにしても、自分が何に属しているかという帰属の問題です。そして、自分が何かに属しているという意識は、私たち人間が生きていく上で、非常に重要だと言われます。自分がどこにも属していないと、私たちは大きな不安を感じます。何かに帰属していると安心するのです。
私たちはこの国に属しています。また、今ではあまり民族とか血筋とかは意識しなくなっているかも知れませんが、血のつながった家族関係の中に属しています。
けれども、キリスト者とは、何よりも神に属する者のことです。神さまに愛されていることを信じる。その関係において、神さまと結びつき、神さまに帰属する。そこに私たちキリスト者の、何にも優る人生安心の元があります。
先週の役員会でMさんの転入会を承認しました。来週のクリスマス礼拝において転入会式を行います。Mさんは私たちの教会に属する会員となられました。けれども、それは私たちという人間関係のグループに帰属したということではありません。坂戸いずみ教会という教会を通して、神に属する者になったということ、キリストの体の一部として帰属したということです。人間との関係にではなく、神さまとの関係に、自分が安心して生きられる人生の「場所」を見いだしたということです。そして、それはこの教会に属している方々、会員として属している方、会員でなくとも何らかの形で属している方々すべてがそうなのですし、そうあってほしい、神の愛を信じて、安心の場所を持ってほしいと願っています。
イエス・キリストは、私たちのために安心の「場所」を与えるために、この世にお生まれくださいました。その記念のクリスマスを迎える私たちにとって、イエス・キリストをそのように信じることが、私たちの心の内に、キリストを迎え入れる「場所」を用意することだと思います。主を迎える「場所」を用意しましょう。
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