坂戸いずみ教会礼拝説教集(^^)

  礼拝予告

            わたしたちの願い                「キリストの愛とともに歩もう」                          「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合    いなさい」 ヨハネによる福音書13章34節       

     <朝礼拝> 主日礼拝
2019年3月24日  午前10:30~11:45   
 聖  書 ヨハネによる福音書12章1~8節
 説教題 「無意味なものはない」
 説教者 山岡 創牧師
 讃美歌 Ⅱ・185、21・506、567、90
   
     <夕礼拝> 主日礼拝
2019年3月24日   午後7:30~8:15
 聖  書 ヨハネによる福音書12章1~8節
 説教題 「無意味なものはない」
 説教者 山岡 創牧師
 讃美歌 Ⅱ・185、21・506、567、90 
 

2019年3月17日 受難節第2主日礼拝説教「身代わりの死」

聖書  ヨハネによる福音書11章45~57節
説教者 山岡 創牧師

◆イエスを殺す計画
11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
11:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
11:53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
11:54 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
11:55 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
11:56 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」
11:57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

 

          「身代わりの死」 

 スケープ・ゴートという言葉があります。“贖罪(しょくざい)のヤギ”という意味です。元々、旧約聖書レビ記16章に由来する言葉です。イスラエルの人々が、神さまに対して、自分たちの罪を償うために、すべての罪を一匹のヤギに背負わせて、自分たちの身代りに、荒れ野に放つのです。

 そこから転じて、一般的には、責任を転嫁するための身代りとか、不満や憎しみを他へそらすための身代わりのことを、スケープ・ゴートと言います。例えば、20世紀前半に世界恐慌が起こって、ドイツが不況に陥った時、ナチスが台頭し、ヒトラーが国民の不満をユダヤ人に向けさせ、大虐殺を行いました。ユダヤ人はドイツ国民の不満のスケープ・ゴートにされたわけです。日本でも関東大震災の時に、多くの在日朝鮮人が殺されたことが、スケープ・ゴートの例として取り上げられていました。

 私たちの身近なところでは、学校でいじめが起こる時、一人の子どもがスケープ・ゴートとして、何かしらみんなの不満のはけ口にされていたり、家庭では親の不満のはけ口として、子どもが虐待されているという場合があります。また、企業や組織などでも、不正や失敗を取り繕うために、一人の人間もしくは一部の部署に責任が転嫁されることがあるかも知れません。(日産のカルロス・ゴーンさんが、それかどうかは分かりませんが) 

  主イエスは、ユダヤ人全体のスケープ・ゴートにされようとしていました。大祭司カイアファは、主イエスのことで、こう言っています。

「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(50節)。

カイアファは、主イエスユダヤ国民のスケープ・ゴートにしようと考えたのです。

 11章の直前の箇所で、主イエスが、死んだラザロを生き返らせた奇跡が記されています。そのため、「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」(45節)と書かれています。

 その様子を見て、ファリサイ派の人々や祭司長たちは、不安を抱きました。

「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいのだろうか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(47~48節)。

つまり、ユダヤ人滅亡の不安です。

 当時のユダヤ人はローマ帝国に戦争で敗れ、支配されていました。ユダヤ人は屈辱に耐えながら、何とかして独立を回復したいと願っていました。そのために反乱と独立運動のリーダーとなり得る英雄(救世主メシア)を、神さまが遣わしてくださることを祈り、期待していたのです。

 そういう風潮の中に、主イエスが現れた。病を癒したり、嵐を静めたり、5つのパンと2匹の魚で5千人を満腹させたり、ラザロを生き返らせたりしている。民衆は、この人こそ救世主と期待して、主イエスをリーダーに担(かつ)ぎ、反乱を起こすかも知れない。

けれども、強大なローマ帝国が黙っているはずがない。彼らは反乱を鎮圧するだろう。もし反乱の規模が大きければ、鎮圧だけでは済まない。全国民的な反乱となれば、今後のためにローマ帝国ユダヤ人を滅ぼすだろう。

 それが、祭司長やファリサイ派といった指導者たちの不安でした。民衆はローマの支配に屈辱を感じ、独立を期待していましたが、指導者層である彼らは、一定の自治権を認められていたので、その現状が崩れ去ることは不都合だったのです。

 そこで、彼らは、現状を守るために、ユダヤ人の自治権と自分たちの地位や権益を守るために、主イエスをスケープ・ゴートにしようと考えました。主イエスを、ローマ帝国に反対する政治犯に仕立て上げ、自分たちで捕らえ、ローマ帝国に差し出すことで、ユダヤ人の滅びを免れようとしたのです。 

 このように、大祭司カイアファは、主イエス一人を犠牲にして、国民全体が滅びないように、自分たちの地位と権益を守るようにと提案しました。その発言を、福音書を書いたヨハネは、「預言」だと見なしています。

「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬと言ったのである。国民のためばかりではなく、散らされている神の子を一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」(51節)。

 「預言」というのは、神の言葉を預かって語る、ということです。つまり、神の御心(みこころ)を、神のご計画を語る、ということです。神の御心、神のご計画は、カイアファが提案したように、ローマ帝国の軍事力から国民を守る、という意味ではありません。そうではなくて、罪の力から、ユダヤ人を、散らされている神の子たちを守り、救うという意味です。つまり、罪の力ために神さまの愛から引き離されている人々を、神さまの愛のもとに引き戻すために、主イエスがスケープ・ゴートとなり、身代わりとなって死ぬ、ということです。

 これはもちろん、カイアファが「自分の考えから話した」ことではありません。カイアファはただ、国民を滅びから守るため、自分たちの地位と権益を守るため、主イエスを犠牲にしようと言っただけです。それがカイアファの考えです。

 けれども、神さまというお方は不思議です。神さまの御心など、まるで考えていないような人間の考えや行動を通して、ご自分の御心、ご自分のご計画を遂行されるのです。そういう意味で、私たちが自分の考えで取る行動とその結果の背後で、神さまはご自分の愛の御心、愛のご計画を進めておられるのです。当初は分からないかも知れませんが、後になって、神さまの愛の御心、愛のご計画に気づくことがあるかも知れません。“今”そのことを信じ、“後で”そのことに気づく。それが信仰です。信仰によって生きる、ということです。

 主イエスはこの後で、十字架に架(か)けられて処刑されます。それは、カイアファたちの思惑から見れば、国民と自分たちの権益を守るために主イエスを犠牲にしたということであり、ローマ帝国からすれば政治犯を処刑したということです。けれども、神の御心からすれば、ユダヤ国民を、散らされている信じる者たちを、罪から救い、神の愛のもとに引き戻し、愛において一つとするために実行された“救いの御業(みわざ)”だということです。主イエスの十字架刑を、そのように信じることが、そして、主イエスの十字架は“私”を救うためだと信じることが、すなわち信仰です。その救いが、その愛がきっと、一人ひとりの人生にも隠されています。込められています。 

 クリスチャンの小説家であった三浦綾子さんのことは、ご存じの方も多いと思います。その三浦綾子さんが、『光あるうちに』という著書の中で、次のように書いておられます。

 わたしが聖書を読みはじめて、何が一番理解できなかったか、いや、信じられなかったかというと、イエスが神の子であるということだった。イエスだって人間じゃないか。女から生まれた人間に過ぎないじゃないか。わたしはイエスが神の子と聞かされる度にそう思い、そして反発した。(上掲書127頁)

 そんな三浦さんが、結核脊椎カリエスを病む闘病生活の中で、聖書を通して主イエスの深い愛に触れ、イエスは神の子であると信じるようになります。そして、イエスがどうして“人間”ではなく、“神の子”でなければならないのか、について、それは、私たち人間の罪が赦(ゆる)されるためには、“神の子”の命の身代りが必要だったのだと書いています。

 ここにきて、わたしたち人間は、罪の前に全く無力であり、人間自身ではどうにもしようのないことを知らされる。しかし、それ故にこそ神は神の子をこの世に遣わされたのだ。‥‥‥つまり、神の子は十字架にかかられて、全人類の罪を、神の前に詫びるために、この世に来られたのだ。これがキリストへの信仰なのだ。

 神の子イエスは、全く清い方であられたからこそ、わたしたちの罪を贖うことができたのだ。これが、豚や犬の命では罪はゆるされはしない。犬、畜生にも劣る人間の世界では、人間の命をもってしても、罪はゆるされない。どうしても、神の子でなければならなかったのだ。(上掲書142頁)

 確かに、イエスが神の子だ、神だという教えはなかなかピンッと来ないかも知れない。イエスが人間のために、“私”のために、身代わりとなって罪を償うために十字架にかかられた、なんていうことは、全くもって信じられないことかも知れません。けれども、自分の姿を、自分の心を深く見つめ、自覚していくうちに、自分の力では自分をどうしようもないことを知り、神にすがり、神の憐れみを祈るようになっていくでしょう。その時、主イエスが十字架におかかりになったことの意味も、私たちの胸にストンと納得されるようになっていくのではないでしょうか。人は自分の力で生きているのではなく、生きられるものでもなく、もっと大きな力に赦され、生かされているのだ、と。 

 ところで、主イエスの苦しみを心に刻む受難節レントが始まって、礼拝堂の十字架には、いばらの冠が掛けられています。主イエスが十字架刑に処せられる時、無理やりかぶらされた冠です。夜、講壇の天上の電灯だけを付けると、後ろの壁に影ができます。いばらの冠を掛けていると、十字架の影と重なるようにハートの形の影ができます。それはまるで、主イエスの十字架刑によって示された神の愛を表わしているかのようです。

 その影を見ながら、私はふと、罪とは、私たちが神の愛を見失い、忘れ、気づかずにいることではないだろうか、と思いました。聖書が言う罪とは、法を破る犯罪とは少し意味が違います。法には引っかからないけれど、人の悪い心や悪い行い、言葉なども罪と考えます。けれども、そんな罪人の私たち、失敗や欠点の多い私たち、この世から見放されているかのような、取るに足りない私たちに、神の愛は、主イエスの十字架を通して無償で注がれているのです。

 けれども、私たちはその愛を見失います。自分の力で何とかしよう、何とかしなければと思い、どうにもできない現実に、変われない自分に打ちのめされて、こんな私ではダメだ、救われないと自分を否定します。苦しみや悲しみの中で、こんな人生に神の愛などあるはずがない、とあきらめ、気づかずにいます。神の愛を信じることができず、自分を愛し、自分を受け入れることができない。それが、私たちの陥りがちな姿なのかも知れません。

 けれども、実はそこに、神の愛は注がれている。“私”のために、主イエスは十字架にかかり、命を捨ててくださることによって、神の愛を示してくださったのです。この愛を信じたら、人生、捨てたものではありません。

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2019年3月10日 主日礼拝説教「もし信じるなら」

聖書  ヨハネによる福音書11章38~44節
説教者 山岡 創牧師

11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 

          「もし信じるなら」 

 主イエスは、ラザロの墓に来られました。その墓は洞穴で、その奥にラザロの遺体が布でまかれて納められ、入口は石でふさがれていました。「その石を取りのけなさい」(39節)と主イエスは言われました。すると、ラザロの姉妹であったマルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」(39節)と言って止めようとします。すると、その言葉をたしなめるかのように、主イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(40節)と言われました。

「もし信じるなら」‥‥この言葉の前で、私は立ち止まりました。イエス様は“何を”信じるように求めておられるのだろうか?私たちは何を信じたらよいのでしょうか?

マルタが言ったことは常識的で、当然とも言えることです。ラザロは死んで、もう4日もたっている。その遺体は腐敗し始めている。だから、石を取りのけないで、そのままふさいでおこう。それは、ラザロが生き返るとは思っていない人の言葉であり、行動です。

けれども、主イエスは、そのマリアをたしなめて、「もし信じるなら」と言われました。そして、死んだラザロを生き返らせて見せたのです。

そういう意味では、信じるとは、人間の常識や考え方の範囲内で留まっている生き方の殻を破って、その外側にあるもの、それ以上のもの、つまり神の世界を信じるということだと言うことができるでしょう。

 それならば信じるとは、死んだ人間が生き返ると、神は死んだ人間を生き返らせることができると信じることでしょうか。確かに、神さまは何でもできる(全能)と信じることは、信仰の根本です。神さまは、天地とそこに生きるすべてのものをお造りになったのだから、死んだ人にも再び命を与えて生き返らせることができると、神の力を信じることは、信仰の前提です。主イエスは、神さまから遣(のこ)わされた者として、ラザロを生き返らせることで、神の全能の力をお示しになったのです。

 けれども、神さまを信じれば、死んだ者も生き返ると信じることを、主イエスはマルタに、そして私たちに求めておられるのでしょうか。そうではないと思います。神さまを信じれば、私たちが生き返ってほしいと願っている愛する人を、神さまに生き返らせていただくことができる‥‥‥信仰とは、そんなふうに私たちの願いどおりになる、都合の良いものではありません。失った愛する人が生き返って、もう一度会えたら、という願いは、私たちの究極の願望かも知れません。けれども、信仰とは私たちの願望を都合よく叶えるものではないのです。

 では、信じるとは何を信じることでしょうか?主イエスは、「もし信じるなら」という御(み)言葉で、私たちに何を信じるようにと求めておられるのでしょうか?

 

 少し話を戻しますが、主イエスがベタニアの村に着いた時、ラザロは既に亡くなっていて、葬儀が行われていました。主イエスが来られたと聞いて、マルタは迎えに出ました。そして、主イエスが間に合わなかったことに恨(うら)み事を言います。そんなマルタに対して、主イエスは、11章25節でこう言われました。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、けっして死なない。このことを信じるか」(25節)。

 ですから、「もし信じるなら」と言って、主イエスがマルタに求めたのは、この御言葉であり、その内容です。主イエスが「復活であり、命である」ことを信じるのです。

 とは言え、どのように信じたら良いのか、よく分からない、分かりにくい言葉だなぁ、と感じます。「死んでも生きる」というのは、死んだ人が、主イエスを信じたら生き返る、ということだとは思えません。また、ラザロは生き返らせていただいたのだとしても、その後、寿命を迎えて死んだでしょうから、「‥決して死なない」ということが、地上で死なずに永遠に生きることだとは考えられません。ならば、主イエスが「復活であり、命である」ことを信じるとは、どのように信じ、何を手にすることでしょうか?

 少し話が変わりますが、改めて“信じる”という営み、それ自体を考えてみました。信じるとは、信じて生きる、ということでしょう。生きることなしに、頭だけで信じることはあり得ません。そして、信じて生きるとは、主イエスに従って生きるということでしょう。主イエスの御言葉をよく聞いて生きることでしょう。主イエスに倣(なら)って、主イエスのように生きることでしょう。主イエスは「わたしは復活であり、命である」と言われる。主イエスは、復活そのものとして、命そのものとして生きている。よく分からない。けれども、その言葉を受け止めて生きてみる。その言葉を自分の中に取り入れて、思い巡らしながら生きてみる。そのようにして生きているうちに、自分自身も復活そのものとして、命そのものとして生きているということが分かるようになって来る。理屈抜きに、“あぁ、復活って、こういうことなんだ。命を生きるって、こういうことなんだ”と感じられるようになって来る。それが、信じるという営みだと思うのです。

 

 そんなことを思い巡らしながら、ふと思い起こしたのが、星野富弘さんの〈いのち〉という題の詩でした。

  いのちがいちばん大切だと思っていたころ

  生きるのが苦しかった

  いのちより大切なものがあると知った日

  生きているのが嬉しかった       (『鈴の鳴る道』80頁)

 ご存じの方も多いと思いますが、星野富弘さんは、群馬県で高校の体育の教師として働いていました。けれども、24歳の時でしたか、授業中に器械体操で空中回転の模範演技をして、その着地に失敗し、首の骨を折って、首から下が麻痺してしまい全く動かなくなってしまいました。病院のベッドで絶望の日々を送っていた星野さんでしたが、そこでクリスチャンの看護師と出会い、牧師と出会い、聖書を読むことを勧(すす)められます。そして、聖書の御言葉によって自分を見直し、自分の生き方を考え、自分の命と向き合うように変えられていきます。そのような歩みの中で、主イエスを信じ、神さまを信じて洗礼を受け、口に筆をくわえて描く草花の絵と詩を通して、神さまの愛を伝えるようになります。それは言い換えればきっと、命そのものを生きて伝えるということだと思うのです。

 そんな星野富弘さんが、いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった、とうたっています。それは、今日の主イエスの言葉で言えば、復活そのものとして、命そのものとして生きるということが分かったということ、その嬉しさが自分の腹にストンと落ちたということだと思うのです。

 いのちより大切なもの、って何でしょうか?そこで、また思い出したのが、カトリックの司祭である井上洋治さんの話でした。井上先生はある時、“人生で一番大切なもの”というテーマで原稿を書いてほしいと、ある出版社から頼まれました。そこで先生はあれこれとお考えになったわけですが、そんな時、一通の手紙が舞い込みました。見ず知らずの若い女性からの手紙で、交通事故を起こしてしまい、顔に大やけどを負った。それ以来、苦しみの連続で、これでは結婚もできない、もう死んでしまいたいというような内容の手紙でした。その手紙を読んだ時、井上先生はハッして、こう思ったそうです。

  私たちは、健康にしろ財産にしろ友情にしろ家庭にしろ、たくさんそういう大切なものを持って、またそういった大切なものにささえられて生きているわけですけれども、いざそういうものを失ってしまったときに、価値ある大切なものを失って色あせてしまったときに、その色あせ挫折(ざせつ)してしまった自分を受け入れることができる心というもの、それが考えてみれば人生で一番大切なものではないかと思ったのです。

(『人はなぜ生きるか』9頁)

 自分を受け入れることができる心、それを星野富弘さんは、主イエスを信じて手に入れたのだと思います。命がいちばん大切だと思っていたら、価値ある大切なものを失って、色あせ挫折した自分を受け入れることはできません。生きることが苦しいのです。苦しみの連続なのです。

 けれども、星野富弘さんは、生きているのが嬉しかったという喜びを手に入れました。首の骨を折り、首から下が麻痺してしまった自分を受け入れる心を与えられました。それは、命の“何”に気づいたからでしょうか?

 それは、命が、神の愛に包まれているという命の本来に気づいたからではないでしょうか。自分の命は、健康や財産や友情や家庭といった命の外側の形に関わらず、そういう命のオプションには関係なく、命そのものは、神さまに造られ、神さまに愛され、神さまに生かされてあるものだということに気づいたからではないでしょうか。自分の手の中にあって、すべて自分の力で何とかしなければならないものではなく、神さまの愛を信頼して“こんな私ですが、神さま、よろしくお願いします”とお任せしていいのだ、ということに気づいたからではないでしょうか。そういう命に、星野富弘さんは、聖書の言葉を通して、また周りの人たちの愛を通して気づかれたのでしょう。

 そのような信仰の心境を、星野さんは〈にせアカシア〉という詩にうたっています。

  何のために生きているのだろう

  何を喜びとしたらよいのだろう

  これからどうなるのだろう

  その時 私の横に あなたが一枝の花を置いてくれた

  力を抜いて 重みのままに咲いている 美しい花だった(『鈴の鳴る道』66頁)

自分を大きな手で包み、支えている神さまの愛を信頼して、力を抜き、人生の重みのままに、その重みを神さまにお任せして生きる。主イエスとは、そのように生きておられた方だと思うのです。そして、その生き方を、「わたしは復活であり、命である」という言葉で表されたのではないでしょうか。だから、主イエスが「復活であり、命である」と信じるということは、主イエスの御言葉を信じ、主イエスに倣い、私たちも、“私”を愛し、生かしてくださる方に“よろしく”とお任せして生きることです。そういう命の本来がだんだんと分かり、生きていることが嬉しいと感じられるようになっていくことです。

 その時、私たちは「神の栄光」(40節)を見ます。生きるのが苦しいと感じている人を、生きているのが嬉しいと思えるように変える神の力、神の愛、神の栄光を見るのです。「もし信じるなら」‥‥、私たちも主イエスを信じて、命の道を、復活の道を進みましょう。

 

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2019年2月24日 主日礼拝 「愛は涙となる」

聖書  ヨハネによる福音書11章28~37節
説教者 山岡 創牧師

11:28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 

          「愛は涙となる」 

                              ~ イエスは涙を流された ~

 ラザロは亡くなりました。ラザロの姉妹であるマルタとマリアは、彼が危篤(きとく)の状態だった時に、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(3節)と主イエスに知らせていました。けれども、主イエスは間に合いませんでした。主イエスが3人が暮らしているベタニアに着いた時には、ラザロはもう死んでしまって4日が過ぎていました。

 主イエスがおいでになったと知らせを受けて、マルタは主イエスを迎えに行きました。そこで、主イエスはマルタと言葉を交わして、その後、家に残っていたマリアを呼ばれます。たぶん、弔問客(ちょうもんきゃく)でごった返している家に着く前に、マリアとも言葉を交わしたいと思われたのではないでしょうか。それで、マリアはやって来て、主イエスを見るなり、足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)と恨み言を言って泣きました。その時、主イエスは「心に憤りを覚え、興奮し(た)」(33節)というのです。 今日の聖書の御(み)言葉を黙想し、説教の準備をする中で、私がいちばん不思議に感じ、よく分からなかったのが、この主イエスの「憤り」でした。主イエスはどうして憤ったのだろう?何に対して憤り、怒ったのだろう?それがピンッと来なかったのです。

  分かりにくい、と感じているのは、私だけではないようです。例えば、新約聖書にはいくつかの種類がありますが、この「憤りを覚え」という原語のギリシア語を、「激しく感動し」と訳したり(口語訳聖書)、「強く心を打たれ」(リビング・バイブル)と訳している聖書があります。では、原語のギリシア語はどういう意味だろうか?と調べてみると、辞書では“鼻息荒く叱る。どなりつける。立腹する。憤激する”といった意味が書かれていました。辞書的には「憤りを覚える」という日本語訳が、いちばん正確なようです。けれども、「憤り」と訳さなかったのは、どうしてこの場面で“憤り”が起こるのだろうか?と、この箇所を訳した方々が不思議に思ったからではないかと思うのです。どうして主イエスは憤りを覚えたのでしょう?何に対して怒りを感じたのでしょうか?

 あれこれと思いめぐらしながら、ふと思い出したのが、大切な、愛する人を失った時に、人は“怒り”を感じることがある、ということでした。特に、亡くなった人が、事故や病気等で、まだ人生の途中で死んでしまったと感じられる場合に、どうして?という思いが、その答えがないために、怒りとなって現われることがあります。その怒りは、自分自身に向けられることもありますし、もっとも身近な人にぶつけられることもあります。牧師がぶつけられることもあるのです。

 改めてインターネットで、このことを調べてみましたら、あるブログに次のようなことが書かれていました。人が、大切な、愛する人を亡くした時、最初に感じるのはショックであり、一時的に感情が麻痺したような状態になると言います。その次に起こるのは悲しみです。大切な人を失った現実に気づき、喪失感(そうしつかん)を感じ、悲しみがどっと押し寄せ、感情がいちばん揺れ動く時です。そしてその時に、悲しみの現れの一つの形として“怒り”が起こることがあるということです。その怒りは、時に医療機関に向かい、時に葬儀社やお坊さんに向かい、時に周りの人々に向い、場合によっては亡くなった人に向けられ、更には神や仏、運命に向けられることもある、と書かれていました。

 マリアは、兄弟であるラザロを失いました。しかも、寿命として納得しているのではなく、病気のために人生の途中で失ったと感じたことでしょう。その悲しみが、怒りとなって現われました。そして、その怒りは主イエスに向けられました。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」

まるでラザロが死んだのは主イエスのせいであるかのように、マリアの悲しみは怒りとなり、恨み言となって主イエスにぶつけられたのです。そのように怒りを主イエスにぶつけ、マリアは悲しみのあまり泣きました。主イエスが、「心に憤りを覚え(た)」のは、その時です。

 主イエスにとっても、ラザロは、大切な、愛する人です。そのラザロが死んだ。知らせを聞いて、ショックを受けたはずです。けれども、現実感がなかったかも知れません。その後で、出かけて行って、まずマルタと対面した。主イエスはラザロの死を実感し、悲しみがご自分の心に湧き起こるのを感じたことでしょう。マルタもマリアと同じ言葉で(21節)、同じように、主イエスに怒りと恨みをぶつけています。けれども、その後の主イエスとのやり取りから、マルタの方が幾分、理性的で、感情をコントロールしているように思われます。だから、主イエスも、マルタに対しては、まだ興奮せず、悲しみを抑えて対応できたのではないでしょうか。

 ところが、マリアは、主イエスを見るなり、泣き崩れました。怒りを露(あらわ)にぶつけました。その姿に、主イエスも、最初にマルタに会った時以上にラザロの死を実感し、悲しみを感じ、心が揺れ動いたのでしょう。そして、その悲しみが主イエスにおいても“憤り”という形になって現れたのではないでしょうか。

 その憤りは、何に対して向けられたものだったのでしょうか?ラザロに病を与え、死をもたらした父なる神に対する憤りだったかも知れません。あるいは、ラザロの死に間に合わず、何もできなかったご自分に対する怒りであったかも知れません。

 

 「どこに葬ったのか」(34節)。悲しみと憤りを辛うじて抑えて、主イエスはお尋ねになりました。けれども、「主よ、来て、ご覧ください」(34節)と言う人々の言葉と、その悲しみに触れ、主イエスもまた「涙を流され」(35節)ました。悲しみの感情が素直にあふれたのです。「御覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか」(36節)と人々が言うように、主イエスはラザロを深く愛しておられたでしょう。大切な、愛する人を失って、主イエスも悲しみ、涙を流しておられます。

 それと同様に、主イエスは、ラザロを愛しておられたように、マルタを、マリアを愛しておられました。主イエスの涙は、ご自分の悲しみであり、同時に、ラザロを失ったマルタ、マリアの悲しみに心を寄せ、共感して流す涙であると思います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12章15節)と聖書の中で言われている、その涙です。主イエスはマリアを愛しているがゆえに、マリアの悲しみに共感し、その心に寄せて涙を流されたのです。

 話は変わりますが、『現代社会の悲しみといやし』という本の中で、柴田千頭男さんという牧師であり、日本ルーテル神学大学の教授でもあった方が、〈牧会者 ~ 喜びと悲しみを共感する者〉というタイトルで、次のような文章を書いておられます。

 数年前、一人の教会員が夜10時半ごろ、電話をかけて来ました。「どうしたんですか」と聞きましたら、「先生、息子が死にました。交通事故で即死でした」。バイクで塀に激突いたしまして、首の骨を折って亡くなったんです。電話の向こうでお母さんが泣いているのがよく分かりました。私は、頭のなかが真っ白になって、いったいなにを言ったらいいのか分からなくなりました。‥‥しかし‥‥私が彼女と一緒に読んだ聖句は詩編の88編でした。

 詩編88編には、まったく救いようのない状況が書いてあります。本当に死者が起き上がるようなことがあるのですか。そんな言葉も出てくる詩編です。最後は、「いま私に親しいのは暗闇だけです」という言葉で終わっています。真暗闇の中に自分は座っている。なぜ親しい者が死んだのに神は恵みを注いでくださらなかったのか。これは神さまを訴えるような言葉です。「恵み」とか「喜び」という言葉はここにはまったくありません。でも私は、子どもを失ったお母さんといっしょにこれを何回も読みました。彼女は、これを泣きながら読んで、「先生、私のいまの気持ちはこのとおりです」とおっしゃいました。

 私はこの不慮の事故について、なぜとか、そういうことは一切説明しませんし、できませんでした。埼玉県のあるところで家庭集会をもっていて、必ずそのご婦人は出ていたのです。その集会に出るたびごとに、しばらく私はこの詩編をいっしょに読みました。しかしそのうち、なぜこういう詩編が聖書のなかにあるかということが、だんだんわかってきました。このような悩みをもっている人がこの世にいっぱいいるということです。そして、そのような悩みに神が耳を傾けてくださっている、神の存在がここにあるということです。‥‥神に向かって「なぜだ」と質問を投げかけている、その悩みのどん底、苦しみのどん底の、呪いのような言葉を受け止めて、悲しむだけ悲しみなさいと言っている神の存在を、そこにだんだん感じ始めました。

半年くらいたってから、はじめて婦人は私に、「先生、わかってまいりました」とおっしゃいました。神が来て、耳を傾けて聞いてくださっている、手を打ってくださろうとしているということがわかってきましたとおっしゃるのです。これは恵みでした。そして喜びに変わっていきました。‥‥(上掲書139~141頁)

 大切な、愛する息子さんを失ったこのご婦人は、聖書を通し、信仰によって、神さまがその悲しみに、耳を傾け、心を傾け、寄り添ってくださることを感じたのです。聖書を通して分かること、それは、主イエスが私たちと共に涙を流し、泣いてくださるということです。私たちの悲しみに共感し、寄り添ってくださるということです。そして、主イエスを通して、神が私たちの悲しみに耳を傾け、共にいてくださる存在であるということが分かって来るのです。聖書の御言葉によって、信仰生活を過ごす中で、理屈抜きに分かって来るのです。その信仰によって、私たちの悲しみは癒(いや)されて行き、悲しみの中にも恵みを感じ、喜びさえも感じるように変えられていくのです。

  私たちの人生の歩みの中には、少なからず悲しみがあります。苦しみ悩みがあります。けれども、そのどん底に神は来てくださり、耳を傾け、涙を流し、寄り添い、共にいてくださいます。そこに神の愛があります。そして、主イエスを信じ、神を信じる者の救いがあります。

 

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2019年2月17日 主日礼拝 「復活を信じるか」

聖書  ヨハネによる福音書11章17~27節
説教者 山岡 創牧師

11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 

          「復活を信じるか」 

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25~26節)。

 もしも主イエスが今、私たちの目の前にいて、あなたに、このように問いかけたとしたら、あなたは、「はい、主よ」(27節)とマルタのように答えることができるでしょうか。もし私自身が問いかけられたとしたら、一瞬答えに詰まってしまいそうです。イエス様のこの言葉は、いったいどんな意味だろう?今日の聖書箇所を黙想し、説教の準備をしながら、そのように考えている自分がいるからです。

 けれども、聖書の言葉、主イエスの御(み)言葉は、深く考えることも大切なのですが、同時に、何かを感じること、何かを感じて単純に信じ、受け入れることも大切だなぁ、と思うのです。この御言葉は、その一つかも知れません。

 この御言葉を読むと、私の印象に強く残っていて、いつも思い起こす方がいます。佐古純一郎という、中渋谷教会の牧師を務められた先生です。佐古先生は、1945年の太平洋戦争終了後、生きて対馬の戦地から帰還しました。けれども、放心状態のような心で毎日を過ごしておられたといいます。そんな中で、佐古先生は聖書と出会いました。そして、1948年に中渋谷教会で洗礼を受け、クリスチャンになるのですが、そのきっかけとなった御言葉が今日の25~26節だったということです。「死んでも生きる」「決して死ぬことはない」という主イエスの力強い語りかけに、佐古先生は、何かうまく言えないけれど、とても感じるものがあったようです。「このことを信じるか」という主イエスの問いかけに、佐古先生は、「はい、主よ」(27節)、信じます、と答えて、洗礼をお受けになったのでしょう。

 復活とか命ということに関わる聖書の御言葉は、理屈で考えるよりも、自分が置かれた人生の現実から何かを感じ取ることができた時、自分の心に強く響いて来るのです。

 

 マルタは、兄弟であるラザロが死んで、まだ4日目でした。愛する者を死によって失った現実、その悲しみと喪失感の中に置かれていました。いや、まだ、そうした悲しみや喪失感を感じる暇もないぐらい、お葬式で忙しくしていたかも知れません。

 そこに、主イエスの到着が告げられます。お葬式のために忙しく立ち働いていたであろうマルタに、立ち止まる時間が与えられます。マルタは数日前に、ラザロが病気です、と主イエスに伝えていました。けれども、主イエスはすぐに来てはくださらなかった。そのためにラザロは死んでしまった。悲しみと共に、主イエスに対する恨み、怒りのような気持が、主イエスを迎えに行くマルタの胸にふつふつと沸き上がって来たことでしょう。その思いが、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)という恨みがましい言葉となって現われています。

 話が少しズレますが、マルタの言葉に、イエス様に対して、神さまに対して、恨みや怒りの気持をぶつけても良いのだろうか?と思った方もおられるかも知れません。私たちは神さまに対して、賛美や感謝、悔い改めをおささげするべきで、自分の気持が言えるのは、せいぜい願いまで‥‥と考えてはいないでしょうか?

 いや、そんなことはないのです。私たちは、苦しみや悲しみの気持を、時には恨みや怒りさえも神さまにぶつけてよいのです。旧約聖書詩編を読めば、あるいはヨブ記を読めば、それがよく分かりました。その中に出て来る信仰者たちは、神さまに対して、賛美や感謝、悔い改め、願いはもちろんのこと、苦しみ、悲しみ、恨み、怒りを、神さまに告白し、ぶつけています。そのようにして、苦しみや悲しみ、恨みや怒りさえも、ただ神さまに聞いてもらい、受け止めてもらう。あるいは、それに対する神さまの慰めや励ましを期待する。要するに、最も親しい、最も甘えられる、自分をさらけ出せる相手とのコミュニケーションなのです。そういう神さまとのコミュニケーションが、私たちの祈りと、神さまからの御言葉によって成り立つのです。

 そして、そのコミュニケーションの中で、私たちは、大切なことを、人生の真理を知らされるのです。復活ということも、命のことも教えられて、何かを感じるようになっていくのです。

 

 マルタも、素直に、恨みや怒りから始まって、主イエスとコミュニケーションすることによって、「はい、主よ」と答え、信仰へと導かれています。けれども、その途中ではやはり、チグハグと言いましょうか、主イエスの言葉がマルタに伝わっていないと思います。それが、対話によって深められ、伝わるように、感じるようになっていくのですが、主イエスとマルタの間で、チグハグだ、ズレていると思ったのは、「復活」の理解と信仰です。

 マルタに対して、主イエスは、「あなたの兄弟は復活する」(23節)と言われました。それに対して、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)と答えました。

 当時のユダヤ人は、すべての宗派ではありませんが、かなりの人が「終わりの日の復活」を信じていたようです。この世が新たに、神の国に造り変えられる終わりの日が来る。その時、死んで眠りについていた人が復活し、新しい世界で生きる者となる。その信仰をキリスト教も受け継いでいます。「終わりの日の復活」を信じています。

 けれども、微妙に違うのは、「終わりの日」と新しい世界の理解です。新約聖書の中にも、ユダヤ教の信仰と入り混じった痕跡があるのですが、私たちは、新しい世界を、この世とは何か別の次元にある命の世界として信じています。それを“天国”と呼んでいます。そして、「終わりの日」を、人が死を迎える時と受け取って、この世界で死んだ者は天国に迎え入れられて、そこで永遠に生きるようになる。そのように「復活」を信じているのです。

 けれども、主イエスが「あなたの兄弟は復活する」と言われたのはどうも、マルタが言う「終わりの日の復活」とは違う、少しズレているようです。マルタが口にした「終わりの日の復活」という信仰に対して、主イエスは、単純に同意したのではなく、「‥わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われたわけです。だから、マルタが理解している復活とは、少し違うことを言おうとされたのだと思うのです。それは、終わりの日ではなく、“今”の復活でしょう。

 主イエスはこの後、死んだラザロを生き返らせます。けれども、「死んでも生きる」という言葉は、死んだ人が、主イエスを信じたら生き返る、ということだとは思えません。また、ラザロはその後、寿命を迎えて死んだでしょうから、「‥決して死なない」ということが、地上で死なずに永遠に生きることだとは考えられません。

 主イエスが言われているのは、そういった生物的な生命のことではないでしょう。生物的な生命とは別の命、命の本来の在り方と言いましょうか、そして本来的な命というのは永遠に変わることがない、そういう“命”のことを話しておられるのだと思うのです。

 

 そんな“命”を思い巡らしていて、昨年の『信徒の友』4月号の特集を改めて読んでみました。〈イースター〉という復活についての特集で、その中に、横内美子さんという方の〈神学校での学びに導かれて〉という証しがありました。

 横内さんは現在、町田市にある農村伝道神学校で、2年間の信徒コースを学んでおられます。牧師になるのではなく、信徒として教会を支え、伝道をしていくために学ぶコースです。そこに至るまでに、もちろん信仰生活の経過や家族との関わりがあるのですが、横内さんは2007年のクリスマスに長野県の松本教会で、夫と子ども二人、また夫の両親と一緒に、6人で洗礼を受け、クリスチャンになったということです。とても珍しいケースだと思いますが、洗礼に至る経過、事情を知ると、分かる気がします。

 横内さんは、息子が障がいを負っていて、教会に〈カンガルーの会〉という病気の親と子どもを支える会があったことから、家族で教会に通い、求道生活をしていました。夫は長らく肝臓を患っており、洗礼を受ける数ヶ月前に余命半年と宣告されました。そこで横内さんの肝臓の一部が移植されることになりました。その時の様子を、横内さんは次のように書いておられます。

 人間には限界があることを数々の出来事で思い知った私ですが、それは夫も同じでした。求道する中で、理屈ではなく、み言葉により命と向き合うことを教えられました。それはキリストが蒔かれた種だったのだと思います。

 移植手術を前に、高校生だった娘は、両親が帰らぬ人になるかも知れないと、息子と話し合ったそうです。姉としては弟に障害があるのでたいそう心配して、こんなに深く祈ったことはないくらい祈ったそうです。そのため、移植手術を無事終えた後、夫婦で受洗する意思を子どもたちに伝え、「あなたたちはどうする?」と尋ねると、おのおのすぐに同意しました。そして、驚いたことに義理の両親、とりわけ頑固一徹だった義父も「子どもたちの信じるイエス・キリストを私も信じる」と言うのです。私たちの住まいは農村で、一家そろって改宗など珍しいことでしたから、信じられませんでした。神の御業(みわざ)に驚くばかりでした。

 当初、私たち夫婦だけの受洗と考えていたので神さまを信じて生きていくのだという覚悟のような思いでしたが、家族での受洗となったので、洗礼式の日は皆でただただ感謝して家路につきました。

 横内さんの夫は、その5年後に59歳で天に召されたそうです。けれども、子どもの障がい、夫の病を通して教会に導かれ、聖書のみ言葉によって命と向き合うことを教えられた。きっと人間の限界を知り、命が自分の手の中にはなく、神さまの手の中にあることを理屈抜きに感じられたのだと想像します。そして神さまを信じて生きて行こうと決心した。その姿を見ていた子供たちも、両親も、たぶん聖書の教えなど、まだほとんど分かっていなかったでしょうが、素直に信じて行こうと決心された。その生きざまには確かに、生物的な生命とは違う命があります。神さまを信じ、神さまと共に、神さまの愛の中に生かされて、“よろしくお願いします”と神さまにお任せして生きる、命の本来があると思うのです。

 

 生物的な生命とは違う、もう一つの命を持って、その命を生きる。私は、25~26節の御言葉から、自分自身のこととして、ふと、子どもが不登校になった時のことを思い出しました。子どもが不登校になると、大抵の親は焦って、何とか子どもを学校に行かせなければと考えます。私もそうでした。けれども、無理に子どもを登校させれば、かえって子どもの心は傷つき、安心して居られる場所を失ってしまいます。私はその時、この子には、もう一つのワールドがあるから、無理に学校に行かせないでいい、待つことにしようと考えることにしました。子どもが、学校というワールドしか持っていなかったら、不登校になったら、ひきこもりになってしまう恐れがあります。けれども、この子には教会という、もう一つのワールドがある。日曜日ごとに出て来て、そこで教会の友だちと交わりを持つことができる。だから、それでいいだろうと考えたのです。

 それが、言わば、神さまの愛の下にあって、もう一つの命を生きていると考えてもよいのではないか、と思いました。主イエスを信じ、主イエスを通して神さまと共に生き、神さまの愛の中で生きる時、私たちは今、「決して死なない」命という恵みを生きることができるのです。「このこと(恵み)を信じるか」と主イエスから問われた時、「はい、主よ」とお答えして、信じたいという願い、信じようとする思いを持って生きていきましょう。

 

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2019年2月10日 主日礼拝

聖書  ヨハネによる福音書11章1~17節
説教者 山岡 創牧

11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
11:2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
11:4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
11:10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
◆イエスは復活と命
11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。

          「自分の内に光を持つ」
 

 

マルタ、マリア、ラザロという3人の兄弟がいました。エルサレムの近くにあるベタニアという村に住んでいました。その名前、聞いたことがあると思い出される人もおられるでしょう。ルカによる福音書10章の終りに、〈マルタとマリア〉という話があります。主イエスと弟子たちの一行が、宣教の旅の途中で二人の家に立ち寄ります。マルタはもてなしのためにせわしく立ち働き、マリアは主イエスの足もとに座って話に聞き入っていた、不満を口にしたマルタを主イエスが諭(さと)された、という話です。

 二人は、主イエスの支援者だったようです。主イエスの弟子と言えば、宣教の旅を共にする弟子を思い浮かべます。けれども、主イエスが旅の途中で立ち寄った際に、家で主イエスをもてなし、宿を提供するような在宅の弟子もいたようです。

 さて、この二人にはラザロという兄弟がいました。「病人」(1節)だったと記されています。しかも、この後の話からすれば、かなり重い、緊急性のある病だったようです。ラザロが死んでしまうかも知れない。不安を感じた二人の姉妹は、主イエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(3節)と伝えさせました。おいでになってラザロの病気を癒してください、と暗に願ったのです。

 けれども、弟子たちは違う意味で不安でした。と言うのは、直前の10章の終わりの話で、祭りの際に主イエスエルサレム神殿に詣(もう)でた時、ユダヤ人と衝突して殺されそうになったからです。だから、主イエスが「もう一度、ユダヤに行こう」(7節)と、ベタニアの3兄弟のもとに赴(おもむ)くと言われた時、弟子たちはその不安を口にしました。主イエスはもちろんのこと、自分たちも殺されるかも知れない危険を感じていたからです。けれども、病のために死んでしまったラザロを、その眠りから「起こしに行く」(11節)、「さあ、彼のところへ行こう」(15節)と言われる主イエスの強い決意に、弟子たちも腹をくくることになりました。その覚悟が、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(16節)というトマスの言葉に表されているのです。

 

 ところで、今日の聖書箇所を繰り返し読みながら、私が心に留めたのは、「愛しておられる」という言葉でした。主イエスが、マルタ、マリア、ラザロの3人兄弟を「愛しておられる」、「愛しておられた」ということが3節と5節に、2度繰り返して記されています。1度読んだだけでは読み飛ばしてしまいそうな、さりげない言葉ですが、私はこの言葉に、何か“温かさ”のようなもの、安心のようなものを感じました。

 けれども、それと同時に疑問も感じました。と言うのは、「愛しておられた」という言葉の直後に、主イエスが「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じところに滞在された」(6節)と書かれているからです。愛している、と言うなら、すぐに飛んで行って、ラザロの病気を癒(いや)してあげればよいではないか、マルタとマリアの不安を取り除いてあげればよいではないか。それなのに、どうして主イエスは、もたもたしていたのだろう?と思ったのです。

 主イエスが二日間もたもたしていたせいで、ラザロは死んでしまいました。結果的には、この後、主イエスはラザロを眠りから起こし、生き返らせるのですが、私は、自分が感じた疑問から、主イエスが「愛しておられる」ということはどういうことか、私たちが主イエスから、神さまから“愛されている”とはどういうことか、改めて考えてみました。

 私たちは、自分が神さまに愛されているというのは、神さまが自分に良いことをしてくださることだと考えるのではないでしょうか。信じて祈っていたら、神さまが良い出来事を起こし、良い結果を与えてくださる。願いを叶えてくださる。幸せをもたらしてくださる。そう考えがちではないでしょうか。今日の聖書の話で言えば、主イエスが3人のもとに、すぐに飛んで来てくださる。そして、ラザロの病気を癒してくださる。それが、神さまに愛されているということだと考えるのです。

 けれども、神に愛されているとは、そういうことではないのです。必ずしも主イエスがすぐに飛んで来て、病を癒してくださる、ということではないのです。この後、ラザロを生き返らせたのだから、病を癒すこと以上に良い結果を与えてくださったではないか、ということは、ひとまず脇に置きます。と言うのは、そういうことが信じるすべての人に起こるわけではないし、現代において、私たちが信じているからと言って、死んだ者が生き返るはずもないからです。ラザロが生き返ったということには、文字どおりではなく、別の意味を探さなければなりません。だから、この後、ラザロを生き返らせたということは、脇に置いて考えてください。

 つまり、主イエスは、私たちの都合ですぐには飛んで来ず、私たちの期待に応えて病を癒しはしないのです。それでも、です。それでも主イエスは愛しておられると、神さまは私たちを愛しておられると、聖書は私たちに語りかけているのです。

 

 そこで思い起こしたのが、オルポートというクリスチャンであり、心理学者である人の考えです。オルポートは、信仰には外発的な志向を持つ信仰と、内発的な志向を持つ信仰の二通りがあると言います。外発的な信仰というのは、

  この宗教を信じるといいことがある、神さまを信じると自分の社会的地位が守られるとか、立派になれるとか、喜びが与えられるとか、お金が儲かるとか、友だちが増えるとか、自分の世界が豊かになるとか、とにかく自分の安全、自分の地位、自分というものが高められていく、そうした欲求を満足させるような信仰形態が、外発的な宗教志向です。‥‥

ということです。しかし、この信仰では、自分に不幸が起こった時、祈っても問題が解決しない時、神さまに不満を漏らし、信じることができなくなります。

 これに対して、内発的な信仰というのは、

  ‥「私」が中心にならない。「神さま」が「私」を愛してくださるとか、「神さま」が「私」を信じてくださるとか、「神さま」が「私」を信頼してくださるというように、「神さま」の方が主人公となる信仰です。「私」のほうには、なんの資格もない、条件もない。あるいは非常につらいかもしれない、苦しいかもしれない、答えのない不条理の世界を生きている自分自身がいるけれども、そういう私を、神さまのほうが愛してくださる、神さまが信じてくださる。主役は「私」ではなくて、「神さま」のほうにある、そういう信仰です。それは究極的にどうなるかというと、神さまにすっかり「私」を明け渡す、お任せすることになります。

(以上、『現代社会の悲しみと癒し』AVACO、100~101頁)

 主イエスはすぐに飛んでは来ず、病は癒されないかも知れない。問題はすぐに解決しないかも知れない。非常につらく、苦しいかも知れない。答えのない、不条理な人生を生きるかも知れない。それでも“神さま”が“私”を愛してくださっている。目に見える好結果や幸せ、喜びはないかも知れないけれど、どんな時でも、幸せな時も災いに会う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、どのような場合でも、神さまは私を愛しておられる。

私たちの人生の根底にある、この真実を、この恵みを信じて神さまにお任せし、安心を得る時、それがまさに、自分の内に光を持つ、ということなのです。

 主イエスは、「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」(9~10節)と言われました。主イエスは、私たちの人生を、昼と夜にたとえています。主イエスはすぐに動いてはくださらず、病は癒されない。問題は解決しない。苦しく、つらい。“どうして私にこんなことが?‥”と嘆き、悲しみ、迷っている。それは、人生の夜を、なかなか晴れ間の見えない暗闇の中を、出口の見えないトンネルの中を歩いているようなものです。解決や答えが見つからず、苦しみや悲しみの出来事を受け入れることができない。そして、神さまを信じることができず、信仰につまずいている状態です。

 けれども、その夜の闇の中で、懐中電灯を持っていれば、「光」を持っていれば、私たちはつまずかずに歩くことができます。苦しみや悲しみが私たちの人生にはあります。けれども、それがあっても、私たちはつまずかずに歩くことができる。“神さまが私を愛してくださっている”と信じる信仰、信仰という光を持っていれば、私たちは神さまにつまずかず、また“愛されているから、だいじょうぶ。これでよい”と苦しみや悲しみを受け入れて生きていくことができます。それが「昼」です。「夜」だけど「昼」の中を歩くということです。

 

 私は、今日の御(み)言葉を黙想しながら、Aさんのことを思いました。昨年の7月に自宅で、熱中症で倒れ、今も入院生活が続いています。寝たきりの状態です。倒れた時に、若干の脳梗塞もあったのかも知れません。言葉がしゃべれなくなりました。表情が動かなくなりました。元々、突発性難聴で耳が聞こえず、こちらがホワイトボードに書いた内容を認識しているのかどうか、はっきりとは分かりません。

 Aさんは、この教会が1992年に創設された時からの教会員でした。小さかった伝道所がこの地に移転して会堂建築をし、今日の教会となるまで、熱心に礼拝に出席し、祈祷会で祈り、奉仕し、献金し、キリストに仕え、教会に尽して来られた方です。人間的に考えれば、そのような方が人生の晩年に至って、どうしてこのような病気を得て、苦しまなければならないのか?という思いになります。Aさんの現状、病状のどこに「神の栄光」(4節)があるのだろうと考えてしまいます。

 けれども、Aさんは、4、5年程前に突発性難聴で耳が聞こえなくなってからも、礼拝に、祈り会に休まず通い続け、祈り会でよく、讃美歌21・463番を挙げて証しされました。

   わが行く道、いついかに  なるべきかは、つゆ知らねど

   主はみこころ、なしたまわん

   そなえたもう 主の道を  ふみて行かん、ひとすじに

 突発性難聴で耳が聞こえなくなって、この先、自分がどのようになるのか分からない。けれども、神さまが御心によって道を備え、良いようにしてくださると信じています、と暗さを見せず、いつもニコニコしながら話しておられました。その姿、その証しに、Aさんにそのように信じさせる神さまの栄光を思いました。それはまさに、どんな時でも“神さま”が“私”を愛してくださっている、という信仰です。その信仰が、今も、病床に伏していても、Aさんの心の中に生きて働き、「光」となっていると私は信じたい。

 「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(5節)。主イエスは“私”を愛しておられた。その信仰こそ、私たちの内で、私たちの人生を照らす「光」となります。支えとなります。安心となります。そして、私たちの内にある信仰という光が、たとえ小さな光であっても、神さまを輝かせる「栄光」となるのです。

 

2019年2月3日  主日礼拝説教

聖書  ヨハネによる福音書10章22~42節
説教者 山岡 創牧

10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。
10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。
10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。
10:30 わたしと父とは一つである。」
10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。
10:32 すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」
10:33 ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
10:34 そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。
10:35 神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。
10:36 それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。
10:37 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。
10:38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」
10:39 そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
10:40 イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。
10:41 多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」
10:42 そこでは、多くの人がイエスを信じた。

 

          「生きる姿を信じなさい」
 

 エルサレム神殿では、1年を通して様々な祭りが行われました。神殿奉献記念祭もその一つでした。「冬であった」(22節)とありますが、今でも12月末にこの祭りは行われているとのことです。
 主イエスも、父なる神を礼拝するために、この祭りに参加しておられました。すると神殿の境内(けいだい)を歩いていた主イエスユダヤ人たちが取り囲んで、詰問(きつもん)しました。
「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(24節)
それに対して主イエスは、
「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証ししている」(25節)
とお答えになりました。今日は、この“行う業が神を証しする”ということを、ご一緒に考えていきたいと思います。

 さて、当時ユダヤ人の間には、「メシア」と呼ばれる、神さまに遣(つか)わされてやって来る救世主を待望する風潮がありました。ローマ帝国に戦争で敗れ、支配されていたユダヤ人は、独立を勝ち取り、自分たちを屈辱と苦しみから解放する英雄としてのメシアを待ち望んでいたのです。そういう風潮の中で、多くの“自称メシア”が起こりました。彼らはローマ帝国に対して反乱を起こし、そして滅んでいきました。
主イエスは自称メシアではありません。主イエスが公に現れ、病人や障がいを負った人を癒(いや)し、奇跡の業(わざ)を行い、神殿で神を説かれた時、周りの人々が“この人はメシアではないか”と、その力に期待したのです。
けれども、主イエスは、自分に従う人々を率いて反乱を起こそうとはしない。そのような政治的活動ではなく、純粋に宗教的活動、宣教をされる。そして、その活動においてユダヤ人が奉じる律法の掟に違反するような行動をしばしば取る。ユダヤ人が期待するようなメシア的な力やカリスマ性はあるが、同時に律法の違反者でもある。それで、ユダヤ人たちが気を揉んで、取り囲んで詰問するという行動に出たのです。
主イエスは、「わたしは言ったが‥」と答えていますが、10章より前には、主イエスが“私はメシアである”とユダヤ人に告げている箇所はありません。唯一あるのは、ユダヤ人ではなく、サマリア人の女性に対してだけです。4章で、主イエスサマリア人の町シカルに立ち寄られ、その井戸端でサマリア人の女性と対話した時だけです。メシアがやって来ることを知っていると話す女性に対して、主イエスが、「それは、あなたと話しているこのわたしである」(4章26節)とお答えになった。主イエスが、ご自分のことをメシアであると言われたのは唯一その時だけで、あとはすべて周りの人々の期待です。だから、「わたしは言ったが‥」と主イエスが言われるのは、言葉で言ったという意味ではなく、あくまで「父の名によって行う業」によって言った、示したという意味です。その業を見て、主イエスを信じるかどうかは、わたしの問題ではなく、あなたがたの問題だ、と主イエスは言われるのです。

 ヨハネによる福音書9章に一つの例があります。主イエスが、生まれつき目の見えない人を癒し、見えるようにする話です。その主イエスの行った業をめぐって一種の裁判が起こります。目を癒された本人は、その業を体験して答えます。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(9章32~33節)。そしてこの後、主イエスに再会して、「主よ、信じます」(38節)と、あなたを救い主メシアと信じます、と言い表します。
 けれども、彼の目が癒されているという事実を見ても、彼の証言をどんなに聞いても、ユダヤ人たち、特に律法の掟を厳格に守るファリサイ派の人々は、主イエスの業を信じ、彼をメシアと信じようとはしませんでした。
このエピソードは、今日の聖書の言葉で言えば、まさに「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」(26節)という実例でしょう。
 ユダヤ人にしてみれば、主イエスが、安息日には働いてはならないという掟を破って病気や障がいの人を癒したり、神殿で大暴れして祭りをぶち壊したといった“業”の方が目について、主イエスのことを救い主メシアだとは信じられなかったのです。
 同じ行い、同じ業、同じ出来事を見聞きしたとしても、その見方によって、その人の価値観によって、出て来る答えは全く違って来る。それが“信仰”というものなのです。

 先日、他宗教の信仰をお持ちの方が教会を訪ねて来ました。しばらくお話のお相手をしました。その話の中で、イエス・キリストの十字架の話題があがりました。主イエスが行った業の中で最大のものは、十字架にお架(か)かりになった業だと言うことができます。主イエスユダヤ人に裁かれ、ローマ人に十字架に架けられ、処刑された出来事です。
あれは主イエスの敗北であり、その活動の失敗であって、信じるに足る何の利益(りやく)も見出すことができない。それでもキリスト教は本当の宗教、正しい教えだと言うのですか?といったことを問われました。
 確かに、普通に考えれば、イエス・キリストの十字架刑は、主イエスの敗北であり、主イエスの活動の失敗、挫折(ざせつ)だと見られても不思議ではありません。けれども、私たちは聖書を通して、主イエスが十字架にお架かりになったのは、私たち人間の罪のためだ。その責任を取って、私たちの罪を神さまに赦していただくための犠牲だったと受け取ります。十字架の出来事には、イエス・キリストのご自分の命を捨てた愛が、つまり“神の愛”が表されていると信じます。これは受け取り方、見方の違いです。そのように私はお答えしました。

 けれども、どうして私たちは、そのように信じることができるのでしょうか?その理由の一つは、主イエスの弟子たちが「行う業」を知っているからではないでしょうか。主イエスの弟子たちは、主イエスが捕らえられ、十字架に架けられた時、みな逃げ去りました。とある家の部屋に隠れました。ある者は尋問され、主イエスとの関係を否定しました。もし弟子たちのそのような逃げ腰の、保身の「業」だけを見たら、だれも主イエスを信じようとはしなかったでしょう。
 けれども、そんな弟子たちが、ある時を境にして、イエスは救い主メシアである、戦いに勝利する英雄ではないが、私たちの罪を赦(ゆる)し、神の愛によって私たちの魂を救うメシアである、と宣べ伝え始めたのです。いったいどうして、このような180度の転換が弟子たちの中に起こったのでしょう?
それは、主イエスが復活したからです。弟子たちが、復活した主エスにお会いし、もう一度宣べ伝えよ、と遣わされたからです。つまり、弟子たちは主イエスの復活という“神の業”を体験し、信じたのです。復活とは、死者が生き返ることとは違う、しかし体験した者を立ち上がらせるリアリティなのです。
主イエスを十字架の死から復活させる神の力。それを信じた弟子たちに、怖いものはなくなりました。彼らは何ものも恐れず、命を懸けて主イエス・キリストを信じよ、と宣(の)べ伝えました。そのために殉教者が出ました。処刑される者も少なくありませんでした。けれども、彼らは、これこそ神の御(み)心と信じて、伝道を続けました。教会は広がって行きました。やがてローマ帝国の大迫害を受けるようになりました。それでも教会はなくならず、ついにはローマ帝国が国教と認めざるを得ない宗教となりました。その流れ、その力が受け継がれ、今日のキリスト教2千年の歴史となっています。日本にもキリスト教が伝えられ、私たちの教会、私たちの信仰となっているのです。
 命をかけられるものなど、そうそうありません。弟子たちは、主イエスが命を懸けて行う業(十字架刑)を見ました。そして、自分たちの命を懸けて主イエス・キリストを宣べ伝えました。そのように弟子たちが懸けた業を知っているからこそ、私たちは、証拠だの理屈だのといったことを越えて、信じようという気持になるのではないかと思うのです。

 そして今日、主イエスが「父の名によって行う業」を見て、弟子たちがイエスは救い主メシアだと証しする業を受け継ぐのは、ここにいる“私たち”です。2千年のキリスト教の歴史の中で、神の愛を証しして来た数え切れない、有名無名のクリスチャンたちの行う業を受け継ぐのは、ここにいる“私たち”にほかなりません。
 教会の中で時々、こういう話題があがります。自分はイエス・キリストを信じている。聖書の教えに感動する。でも、その信仰を人に、言葉にしてうまく伝えられない、と。確かに、自分が信じていること、感銘を受け、感謝していることを、うまく説明できないのはもどかしいことでしょう。
 けれども、言葉によってうまく話すことがすべてではありません。もちろん、言葉で語ることができれば何よりです。けれども、主イエスが、言葉以上に、父なる神の名によって「行う業」を、「その業を信じなさい」(38節)と言われているように、私たちも、イエス・キリストを信じて「行う業」によって、つまり自分自身が生きる姿によって、キリストを語り、神の愛を証しするのです。
 そんなこと、私にはできないよ、と思われるかも知れません。確かに、私たちは、命をかけるなんて、できないかも知れない。大きなことなんて、できないかも知れない。けれども、誤解しないでいただきたいのは、善い行いが、立派な生き方が求められているのではない、ということです。善い行いや立派な生き方ができなくていい。そうではなくて、私たちがすべきことは“クリスチャンとして生きる”ということです。
 天に召された教会員のIさんが、よく“デモクリ”ということを証しされました。“あなた、それでもクリスチャンなの?”と周りから言われる。言い返せない。恥ずかしくなることもある。落ち込むこともある。でも、そんなダメな自分を思い、神さまに祈る時、神さまは、自分を愛していれることを知らせてくださる。ありがたい。その愛を信じ、愛によって生かされている。だから、私は“これでもクリスチャンです”と自分を認めることができるのです、とIさんは証しされました。
 善い行いや立派な生き方ができなくても、失敗しても、間違えても、たとえ何もできない人間だとしても、そういう自分のことを神さまは認め、愛してくださっている恵みを信じて生きる。信じて、安心して、感謝して、“だいじょうぶ”“これでよい”と自分を肯定して生きる。そういう信仰を土台として、自分のままに、自分らしく生きること。“自分”を生きること、“自分”になること。それが、地上を生きる私たちが救われた姿であり、クリスチャンの生き様だと思うのです。
 そして、そのように生き続けること。信仰を持って生きることを貫くこと。ぐらついたり、立ち止まったり、逸(そ)れたりすることがあっても、また信仰の道に立ち帰り、この信仰を喜んで生き続けること。それが、私たちにできる“神の業”です。
 そして、私たちが、心から信仰を生きているならば、自然体で信仰を生きているならば、その業、その姿から、きっと周りの人々に、自(おの)ずと“何か”が伝わります。その何かがキリストを証しします。“キリストの香り”(Ⅱコリント2章14節~)が、私たちから自然に漂(ただよ)います。

 

    日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.URL
        http://sakadoizumi.holy.jp/

 

2019年1月27日  主日礼拝(大人と子ども)説教

聖書  マタイによる福音書7章24~27節
説教者 山岡 創牧
7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

          「家を建てるなら」
 

先日、三女の友だちから相談を受けました。その子は、高校で合唱部に所属していて、今度、大会でスペインのクリスマス歌曲を歌うことになったということです。けれども、その歌詞の意味がよく分からないところがあって教えてほしい、という相談でした。そこで、とりあえずメールで歌詞を送ってもらいました。占星術の学者たちが、東の方からやって来て、お生まれになったイエス・キリストを探し当てるシーンです。スペイン語バスク語と英語の歌詞が並んでいました。その3番の歌詞の英語版を訳すと、こんなふうに訳せます。
  白い、きれいな靴  でも、紙で作ったら、雨が降ると溶けてしまうでしょう
  主よ、教えてください  出発するかどうか、を
  学者たちは ベツレヘムに急ぎます
  救いのために 私たちも行って キリストを探します
  家畜小屋にやって来た  さあ、中へ入ろう
  この小屋の中で 最高の贈り物を見つけよう
  学者たちは ベツレヘムを訪ねます。
  救いのために 私たちも行って キリストを探します
 私が解釈して訳したものなので、どこか間違っているかも知れませんが、それはさて置き、聞かれたのは、最初の歌詞の意味でした。
  白い、きれいな靴 でも、紙で作ったら、雨が降ると溶けてしまうでしょう
これはどういう意味ですか?と聞かれて、はてどういうことだろう?と考え込みました。聖書のクリスマス物語には、白い靴という言葉はもちろん出て来ませんし、私の知る限り、白い靴にまつわるキリスト教の伝説は聞いたことがありません。これは、スペインの格言か何かかな?と思いながら、長女にも話して一緒に考えてもらいました。そこで、長女が、英会話を習っているイギリス人の方に聞いたら何か分かるかも知れない、と言って、翌日、英会話教室の際に、この歌詞のことを尋ねてくれました。すると、その先生は、“聖書の中に、岩の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人の話があるでしょう。あの話の、砂の上に家を建てた人と同じことではないだろうか”とヒントをくださいました。それを聞いて、なるほど!と思いました。
 砂の上に家を建てれば、雨が降り、嵐に襲われたら、その家は壊れてしまう。それと同じように、白い靴も紙で作ったら、雨が降ったら溶けてしまう。だから、確かな土台の上に家を建てよう。しっかりした材料で靴を作ろう。そのように、私たちの人生も、イエス・キリストとその教えという確かな土台の上に建て、しっかりした材料でつくっていこう。そういう意味だと納得しました。

 マタイによる福音書(ふくいんしょ)では、5章のはじめから〈山上の説教〉と言われる主イエス・キリストの教え、言葉が続いています。今日読んだところは、その説教シリーズの最後、閉めの言葉です。主イエスの言葉を聞いて「行う者」と「行わない者」とが、それぞれ「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と「砂の上に家を建てた愚かな人」にたとえられています。
 軟弱な砂の上に家を建てたらどうなるか、私たちも想像ができます。例えば、大きな地震が起きた時、軟弱な場所は液状化現象と言って、個体だった砂地が液体のようになって流れてしまい、その上に立っていた家が傾いてしまう様子を、ニュース等で見聞きすることがあります。だから、砂の上に家を建てるのではなく、岩のようなしっかりした地盤に家を建てよ、と言われる主イエスの教えはよく分かるでしょう。そして、人生という名の家を、人生の雨風や洪水、つまり悩み苦しみや悲しみが起こっても、あきらめず、投げやりにならず、絶望せずに生きていける人生を造り上げていくために、ご自分が語る言葉を聞き、神を信じて、その教えを行うことだと主イエスは言うのです。
 人生、あきらめず、絶望せずに、生き生きとポジティブに生きていくためには、何か頼れるものが必要だということは、ほとんどの人が納得するところでしょう。その頼るものを何にするかが問題なのですが、主イエスは、それは神の言葉だと言うのです。神の言葉を土台とし、それを聞いて行うことによって確かな人生を造り上げていきなさい、と言うのです。

 けれども、「行う」という言葉には注意が必要です。「行う」というのは、誤解を招きやすい言葉です。「行う」ということは、単純に考えれば、主イエスの教えを、自分の生活の中で実行するということです。それは、いわゆる“善い行い”をすることだ、と私たちは考えがちです。人生、善い行いをすることは確かに良いことです。
けれども、善い行いをすることが確かな人生を造り上げる“条件”だとしたら、それはきついのではないでしょうか。“行う”ことが、確かな人生の条件、言わば“救い”の条件なのだとしたら、私たちは必ず、その行いというものに行き詰まるに違いありません。マタイによる福音書5〜7章の山上の説教で言われている行ないだけでも、きっと行き詰まります。私たちは、主イエスの教えを本気で行おうとすればするほど、それができない自分に打ちのめされることになります。その結果、ともすれば“こんな自分は神さまに愛されないんだ、救われないんだ”“確かな人生なんて私にはつくれないんだ”と信仰的にも絶望することになりかねません。
 けれども、主イエスが「行う」と言っていることは、そういう意味ではないのです。主イエスの当時、ファリサイ派と呼ばれるユダヤ教徒がいました。主流派でした。彼らは、律法という掟に定められている神の教えを熱心に行いました。それを行うことによって、神に認められ、愛され、神の国に入ることができると考えたからです。
 けれども、ユダヤ人の中にも、神の教えを行うことのできない人が少なからずいました。そういう人を神に愛されない、神の国に入ることができないとファリサイ派は軽蔑し、差別しました。そのように見なされ、扱われた人は、ユダヤ人社会の中で、肩身の狭い思いで、絶望し、投げやりになり、それでも一筋の光を求め、一縷(いちる)の望みを求めて生きていたのです。そういう人々のところへ、主イエスは行かれました。交流されました。慰めと励ましの言葉をおかけになりました。あなたも神に愛されている神の子なのだ、と。そう言って主イエスは癒(いや)しました。赦(ゆる)しました。認めました。愛しました。
 そのような主イエスが言われた「行う」という言葉です。単純に、神の教えを行うことだ、善いことを行うことだ、とは思えません。
 マタイによる福音書の山上の説教、特に6章後半の〈思い悩むな〉との教えや福音書全体からも読み取れることですが、主イエスは、行いを神の救いの条件とは考えていないのです。こちらが行うか、行わないかにかかわらず、神さまは私たち一人ひとりを愛しておられる、と言うのです。私たちは、たとえ神の教えを行うことができなくても、何かができなくても、結果が出せなくても、失敗しても、神さまに愛されている人間なのです。何かができなければダメだ、自分には価値がない、なんて思わなくていいのです。いつでも、どこでも、どのようであっても、自分は神さまに認められ、愛されている人間だと信じてよいのです。信じて、安心して良いのです。“自分はだいじょうぶだ”と、“自分はこれでよい”と思っていてよいのです。
 イエス様が言う“行う”というのは、このことです。信じて、安心することです。自分は、いつでも、どこでも、どのようであっても、できなくても、神さまに愛されている人間だと信じることです。信じて“だいじょうぶ”“これでよい”と今の自分を肯定し、受け入れることです。この信仰を身につけること、それが主イエスの言う“行う”ということです。この信仰こそが、あきらめず、投げやりにならず、絶望せず、安心して生きていける人生の土台となるのです。
 “行い”という言葉で考えるならば、この“信仰”こそ、まず最初にすべき行いだと言えるでしょう。そして、信仰から生まれるその後の行いは、もはや“それをしなければ救われない”という条件にはならず、もう既に愛され、救われた人が、神さまに感謝して行う“応答行為”となるのです。

 人生の土台を、神の愛を信じる信仰と定めて生きていく。昨日、大宮教会で、埼玉県にある諸教会の子どもの礼拝や活動(教会学校)に携わっている人たちのためのCS教師研修会が開かれました。『こころの友』という教団が毎月発行している伝道冊子に、新居浜教会の子ども食堂のことが連載されています。その記事を書いている広瀬香織牧師を新居浜教会からお迎えして、〈教会を子どもの居場所に〉というテーマでお話を伺い、質疑応答と分かち合いの時間を持ちました。私たちの教会からも3名が参加し、お話を聞きました。
新居浜教会に、一人の中学生の男の子が“いじめられている。かくまってくれ”と飛び込んで来たことをきっかけにして、その子と関わっているうちに、その子の兄弟が来るようになり、友だちが来るようになり、彼らが安心して居られる居場所を作ろうと、子ども食堂が始まりました。今では、高齢の方や色んな人が集まって、地域の人たちの交流の場にもなっているようです。
子供の中には、親から食事を満足に与えられていない、虐待(ぎゃくたい)を受けている、といった子たちも少なくなかったようです。そういう子たちの話を聞き、勉強を教え、食事を一緒に作り、一緒に食べ、家や学校を訪ね、そういう働きを通して先生が、新居浜子ども食堂が子どもたちに提供していたものは、愛だと思います。神の愛だと思います。人が、いつでも、どこでも、どのようであっても、何もできなくても、その人のままで愛されている、という恵みです。その神の愛に、子どもたちの居場所をつくろうとしている。この愛を土台として、みんなの居場所をつくろうとしているのだと思います。そして、その場所、先生にとっても大切な居場所になっているのです。神の愛の下に、互いに愛し合う場所、互いに愛し合う関係の中に、私たちは自分の“居場所”を持てるのです。

 人生は、何の上に建てるかが、本当に大事です。言い方を変えれば、どこに自分が安心して居られる居場所を定めるか、ということです。神の愛を居場所とせよ。神の愛の上に自分の家を建てよ。主イエスが私たちに語りかけているのは、このことです。

 

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.URL
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2019年1月20日 主日礼拝(講壇交換礼拝)説教  

聖書     創世記1章26~31節
説教者 山岡 創牧

1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

 


                      「神の形、神の愛」
 

 新しい年、2019年を迎えました。今年は特に、天皇陛下生前退位によって元号が変わる年です。そういう意味では、私たち日本人にとって印象深い年になることでしょう。大正、昭和、平成と来て、今度はどんな元号になるのでしょうか?西暦の方が、通算年数が分かりやすいなぁ、と思うのですが、元号には、日本の歴史、文化、民族といったものの独自性が現れていると言うことができるでしょう。つまり、意識する、しないに関わらず、日本の多くの人の精神は天皇制と結びついている、ということです。

 1月2日の天皇陛下の新年の挨拶(あいさつ)には、約16万人の人が訪れました。当初、挨拶は午前中3回、午後2回の予定だったそうですが、あまりの人の多さに、急きょ2回増やして、対応したということです。それが、日本人の心と天皇制が結びついていることを象徴しているように感じます。

もちろん私たちも日本人の一人です。私も日本の文化や生活の良さを思い、時々、“日本人で良かった”と感謝することがあります。

 けれども、私は、自分の精神が天皇制と深く結び付いているとは考えていません。“自分は何者なのか?”という自己規定、そのことをちょっと難しい言葉で、アイデンティティー(自己同一性)と言います。それは、自分がどんなものと結びつき、何を人生の土台として生きているか、それによって変わって来ます。

 私たちは、どんなものと結びつき、何を土台として生きているのでしょうか?それは、イエス・キリストです。イエス・キリストの父なる神です。クリスチャンであるということは、そういうことです。私たちは、神によって造られ、イエス・キリストを通して愛されている存在、それが私たちのアイデンティティーです。

私たちのアイデンティティーとは何か?元号が変わる2019年という年は、そのことを改めて考えてよい年、考えるべき年だと思うのです。

 

そういう思いから、創世記1章の天地創造物語、特に人間の創造の部分を取り上げてみました。

余談ですが、天地創造は、神さまによって6日間でなされたと記されています。人によっては、この内容を全くナンセンスな“おとぎ話”と見なし、信じる価値もないと考える人がいます。科学的に考えれば、そうでしょう。ビッグ・バンや進化論といった学説の方が、科学的にははるかに説得力があります。

けれども、創世記の創造物語は、天地創造の現象を、つまり“どのようにして天地ができたか?”を説明しようとしているのではありません。それは、科学の仕事でしょう。聖書は、天地がどのようにしてできたかという現象ではなく、“なぜできたか?”という理由を語っているのです。そして、創世記は、神の意思(御心)によってできたのだ、と語っているのです。それを信じるか、それとも、この世界は、そして私たち自身は、何かの“偶然”によってできたのだと考えるか、それはその人の考え方次第です。つまり、信仰の問題です。

 だから、天地創造物語を事実と考えて、科学と同じ土俵で、どちらが正しくどちらが間違っているかと勝負する必要は全くありません。これは覚えておいてください。

 

 さて、創世記において、人が創造されたのは第六日でした。そして、人の創造において注目すべきことは、人が「神にかたどって」造られた、ということです。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(26節)、「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」(27節)と、「かたどって」ということが3度繰り返され、強調されています。

 かたどる、というのは、例えばクッキーをつくる時に、生地を伸ばしておいて、鳩の形やクリスマスツリーや星の形の道具を生地に押し当てて、それと同じ形のクッキーをつくることを、かたどると言います。

 では、人が神の形(イマゴ・デイと言います)にかたどって造られたとはどういうことでしょうか?人が、手が2本、足が2本あって、体のトップには頭があって、頭には目と鼻と耳と口がこういうふうに付いている‥‥それが神さまにかたどって造られた、ということでしょうか?そうではないと思います。神にかたどって、というのは、そういう外側の形ではなく、目には見えない内側の形だと思うのです。さあ、それは何でしょうか?

 

 皆さんの中で何かをつくることが趣味の人はいますか?私は作ることが大好きです。11月頃から、家の中をすっきりさせようと思って、リビングと玄関のスペースに合わせて、手作り家具を3つ作りました。きっかけは、テレビのボードを13年ぶりに替えたことでした。部屋の角にあったテレビ・ボードに替えて、これは既製品ですが平面のボードにしました。それを機に何とかゴチャゴチャした部屋をすっきりさせたいと思い、靴箱を作り、コートかけを作り、元々作ってあったテーブルをリフォームしました。その他、新聞ラックや赤い灯油のタンクやパジャマ等を入れてキャスター付きのラックを作りました。部屋がすっきりして、スペースと動線に余裕ができました。

 子どもの頃は工作少年でした。ボール紙とハサミとセロハンテープで、自分の頭に思い浮かぶロボットや戦闘機、ロケットなどを、学校から帰って来て、夕方から夜までご飯も食べずに作りました。何日も、何カ月もかけて、1メートルある宇宙戦艦ヤマトをつくったこともありました。けっこうディテールにこだわりました。

 昨年、実家からその当時作ったロボットと花札が出て来て、引き取って来ました。なんで花札なんか?と思う方もおられるでしょう。実は、小学校5、6年の時の担任が花札好きの先生で、子どもたちに花合わせのゲームを教えてくれて(もちろん賭け事はしません!)、放課後によく相手をして遊んでくれました。その影響で、自分で花札を作ってみようと思ったわけです。笑えるのは、その花札の1枚に“任天堂”とメーカー名を書いてあったことです。子どもだったので意味が分からなかったのでしょう。

改めて自分が作った花札やロボットを見て、我ながらよくここまで‥‥と思いました。それらの作品には、子どもなりに、自分の“魂”が込められている、と感じました。

 モノ作りをする人は、自分の作品に、自分の魂を込めて作ります。別の言葉で言えば、“愛”を込めて作ります。神さまもそうだと思うのです。いや、私たち以上、比べものにならないほど愛を込めて、私たち一人ひとりをお造りになったのだと思うのです。だから、私たちの内には、神さまの愛情がたっぷり詰まっています。

 31節に、神さまが自分のお造りになったすべてのものをご覧になって、「見よ、それは極めて良かった」と評している言葉があります。つまり、神さまは、自画自賛して“最高傑作だ!”と言っているのです。私たち一人ひとりは、画一的な大量生産ではなく、神さまが膨大な愛を込めて、個別にお造りになった最高傑作なのです。同じものは一つもない、失敗作なんて一つもないのです。

 それなのに、私たちは劣等感を感じ、自分のことを失敗作だ、ダメ人間だと思うことがあります。そういう気持は、だれしも経験したことがあるのではないでしょうか。それが、人と比べ、また見える結果を気にして生きている私たちの心情です。

けれども、私たちのそんな気持を知ったら、神さまは悲しく、悔しい気持になるのではないでしょうか。そして、私たちに向かって、きっとこう叫ぶでしょう。“きみは失敗作なんかじゃない。ぼくの最高傑作なんだ!”と。

 小学校3年の時でしたか、自分が作った作品を友だちからバカにされたことがありました。悔しくて、気がついたらその友だちの上に馬乗りになって殴っていました。

 神さまもきっと悔しかったに違いありません。この後、創世記3章には〈エデンの園〉の物語があります。人が蛇にだまされて、神さまとの約束を破り、罪に陥る物語です。自分が最高傑作だと喜んでいるものを、エデンの園で蛇にバカにされ、汚され、造り変えられてしまって、神さまも悔しくて、それこそ蛇に殴りかかりたいようなお気持だったかも知れません。“私の最高傑作に何てことをするんだ!”と。

 他人から言われても、神さまは悔しく、悲しい気持になるとすれば、まして本人である私たちが、自分のことを、失敗作だ、ダメ人間だなんて思ったら、きっと神さまはとても悲しむに違いありません。“違うよ、きみは僕の最高傑作なんだよ。僕がきみの中に、ぼくの愛を、これでもかってほど込めて造ったのだよ”と。

 

 人が神にかたどって造られたとは、私はそういうことだと感じています。神の愛が、これ以上ないぐらい込められているのです。そして、この神の愛が見えなくなっている私たちに、神さまは、主イエス・キリストを通して、ご自分の愛を思い出させてくださいました。この世にご自分の独り子を人間にして遣(つか)わし、ご自分の愛を知らせるために、十字架の上で神の独り子イエス・キリストの命をお架けになったのです。私たちの内に込められた神の愛は、神さまが独り子イエス・キリストの命を捨ててでも優先しようとするほどのものなのです。この神の愛こそが、私たちの内にある見えない神の形であり、私たちが何者か(アイデンティティー)を定めるものです。

 

 この神の愛を込められているからこそ、私たちは、神さまが造られた世界を「従わせよ」「支配せよ」(28節)と治めることを託され、任されています。愛がなければ、それは“力と欲望”による支配になってしまいます。神の形に基づいて、愛によって治め、愛によって世界に、人に仕えることが求められています。

 インドのスラム街で人々に尽したマザー・テレサは、ノーベル平和賞を受賞しました。その授賞式でのスピーチの後で、記者団の一人から“自分たちが世界平和に貢献するためには何をしたらよいでしょうか?”と質問された時、マザー・テレサは次のように答えたそうです。

  世界平和に貢献するためには、今日、家に帰って家族を愛してください。

 私たちは、大きなことはできないかも知れません。でも、身近なところで、家族や友人、同僚といった人々を愛していく。それが世界を治めること、すなわち世界の平和に貢献することになります。

 新年2019年、改めて私たちのアイデンティティーが神の形に、神の愛にあることを信じ、確認しながら、神さまを愛し、自分を愛し、人を愛し、世界を愛することを心がけて歩みましょう。

 


           日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.URL
                     http://sakadoizumi.holy.jp/


                                                     

 

 

 

                                                     

 


                                                     

 

 

 

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2019年1月13日 主日礼拝説教        

***聖書  ヨハネによる福音書10章16〜21節
説教者 山岡 創牧師 


10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
10:19 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。
10:20 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」
10:21 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」


          「人が一つになる」
 教会の事務室に、小さなパネルの絵が飾られています。事務室にほとんど入ったことがない方もおられるでしょうから、見たことがない人もいると思いますが、主イエス・キリストが羊の群れの先頭に立って導いておられる絵です。10章4節の御(み)言葉「(羊飼いは)自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」を、そのまま描き表したような絵です。
 主イエスが生きていたユダヤ人社会では、羊の放牧が身近な光景でした。だから、旧約聖書においてもしばしば、神と民の関係が、羊飼いと羊(の群れ)の関係にたとえられています。10章において、主イエスはご自分を「良い羊飼い」にたとえました。そして、主イエスを救い主と信じたクリスチャンたちを羊とその群れにたとえています。
 さて、今日の聖書箇所に「この囲い」という言葉が出て来ました。羊の群れを放牧から連れ帰って来て、入れておく囲いのことです。狼や強盗から羊を守る囲いです。そして、この「囲い」とは、ヨハネの教会を指しています。主イエスという「羊の門」、救いの門を通って入るヨハネの教会です。
 けれども、主イエスは今日の聖書箇所で、こう言われました。
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」(16節)。
ヨハネの教会という「囲いの中に入っていないほかの羊」とは、他の教会に属しているクリスチャンたちのことです。そういう教会とクリスチャンの存在を、主イエスは、いやヨハネの教会が意識していました。そして、「その羊をも導かなければならない」ということは、それらの教会とクリスチャンたちを否定せず、認めているということです。共にキリストを信じ、キリストを宣べ伝える教会として認めていたということです。

当時の教会の中にも、様々な流れがありました。新約聖書の中に使徒言行録という書があります。キリストが復活し、天に昇られた後、遣(つか)わされた弟子たち(使徒と呼ばれた)がキリストを宣べ伝え、信じる人々が起こり、教会が生み出されていった記録です。
この使徒言行録を読んでみると、様々な人々がキリストを宣(の)べ伝え、教会が生み出されていったことが分かります。ペトロが宣べ伝え、フィリポが宣べ伝え、バルナバが宣べ伝え、パウロが宣べ伝え、アポロが宣べ伝えています。この他にも様々な人がキリストを宣べ伝えています。最初はユダヤ人に、その後、ローマ帝国内の異邦人にキリストが宣べ伝えられ、各地に教会が生み出されていきました。使徒言行録には記されていませんが、ヨハネの教会も、ヨハネの教えを引き継いだ、そういった教会の一つだったと思われます。
当時の教会にはまだ、主イエス・キリストを信じる信仰についてまとまった教えはありませんでした。教会の間で正典としての聖書が生み出され、使徒信条のような統一された信条、信仰告白がつくられたのは、だいぶ後になってからです。そのため、当時の教会では、信仰について信じ方にズレや違いがありました。特に、神の掟である律法を守って来たユダヤ人クリスチャンと、そうでない異邦人クリスチャンの間には、律法を“行う”ことが救いの条件になるかどうかという点で、信仰に大きな開きがありました。
キリストを信じる信仰に違いがあるというのは、教会同士が協力していくには、なかなか難しい問題です。明らかに間違った教え、違う教えは論外としても、違いやズレについて、“ここまでは正しい信仰”“ここからは間違った信仰”と、どこで線引きをして、どこまでを許容範囲とするか、これは教会によっても、クリスチャン個人によっても考え方が違うのです。
だから、じっくりと話し合って、人の思いではなく、神の御心(みこころ)を祈り求めて、信仰の教えを定めていかなければなりません。先ほどお話したユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間の信仰の違いについても、異邦人教会の代表としてバルナバパウロ、その他の人々が“本山”とも言うべきエルサレム教会に上り、ペトロをはじめ、エルサレム教会の代表者たちと信仰について協議をしました。そして、異邦人クリスチャンにおいては律法を守り行うことを救いの条件とはしないことが確認されたのです(使徒言行録15章)。その後も、教会は信仰について協議を続けました。そのようにしてできたのが、信条であり、正典としての聖書です。特に、私たちも礼拝において告白する使徒信条は、教会の歴史において最古の信条と言われています。そのように、教会は、信条と聖書という、信仰の教えについて“最大公約数”とも言える基準を生みだして、一つになろうとしていったのです。
 もちろん、ヨハネによる福音書が書かれた当時、そのような信条や聖書は、まだありませんでした。ヨハネの教会は、キリストの“愛”の教えを大切にした教会ですが、キリストを信じる信仰について強調点が違ったり、律法の問題が絡(から)んだり、様々な信仰のタイプの教会がありました。そういった違いを、一つにはなれない“違い”と見るか、それとも一つである中の“多様性”と捉えるか、そこに、その教会の信仰のセンスが、その人の信仰のセンスが現れると私は思うのです。
 ヨハネは、「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)と語っています。私は、この言葉から、ヨハネの教会は「一つ(の群れ)になる」ということについて、センスを持った教会だと感じます。
 “一つ”ということは、“同じ”ということではありません。私たちはともすれば、一つということを“同じ”という意味に取ってしまうことがありますが、それは間違いだと思います。同じにならなければならないと考えると、画一性を生み、自分と同じでないものは否定し、取り除こうとする排他性を生みます。その考え方で進むと、許容範囲はどんどん狭くなり、グループをどんどん小さく分割していくことになり、一つにはなれません。
 一つというのは、多様性の中の“一致”です。一人ひとりに違いがあり、グループや集団の間にも違いがある。それを多様性として認め、お互いに受け入れ合い、グループを豊かにする要素として、キャパシティを広げる要素として喜ぶ。それが、一つになるということです。
 別の言葉で言えば、それが“平和”の本質です。同じを求めようとするところには、平和は生まれない。多様性を認め、お互いに受け入れ合うところに平和は生まれます。

 そのように一つとなることを実現するためには、何が必要なのでしょうか?それは、「命を捨てる」(18節)ということです。
 10章11節以降、今日の聖書箇所にも、命を捨てるという主イエス・キリストのみ言葉が何度も出て来ました。これは、キリストが、人の罪、私たちの罪、全世界の罪を贖(あがな)うために、十字架に掛かり、ご自分の命を犠牲にされたということです。人が神を見失い、自分勝手に生きたために、神との間に、また隣人との間にできてしまった裂け目を繕(つくろ)うために、キリストがご自分の命をお献げになったということです。
 それは、角度を変えて言えば、キリストが、罪人(つみびと)である私たちを受け入れるために、ご自分を捨てたということではないでしょうか。もしキリストが私たちに、ご自分と“同じ”を求めたとしたら、ご自分と同じように神の御心に適うことをお求めになったとしたら、私たちは同じになれず、否定され、排除されるほかなかったでしょう。
けれども、キリストは、ご自分と同じに、という考えを捨ててくださったのです。ご自分と違い、神の御心に適わない罪人、意志の弱い私たちを、ご自分の考えを捨てて、そのままで受け入れてくださったのです。それは、別の言葉で言えば、“愛”です。罪人を赦(ゆる)して、受け入れる神の愛です。
この神の愛を、私たちは信じています。キリストが命を捨てることによって表わしてくださった神の愛を、私たちは信じて、クリスチャンとして生き、教会という交わりを営んでいるのです。一つになることを、平和に生きることを目指す交わりを営んでいるのです。そのためには、キリストが命を捨てるまでにご自分を捨てたように、私たちも“自分と同じに”という考えを捨てなければなりません。自分を捨てて、違いを認め、多様性を認め、人を受け入れることが必要です。自分を捨てること、すなわち“愛”が必要です。愛のあるところ、私たちは一つとなり、平和が生み出されるのです。

 愛をもって、この囲いに入っていない羊を導き、受け入れ、一つとなる。それが、キリストを通して示された神の御心です。私たちは、“自分の囲い”という守備範囲を、自分の考えで狭めがちですが、愛によって囲いを少しでも広げていければと思います。
 「囲い」というものを教会という視点で考えれば、私たちはどうしても自分の教会のことだけを考えがちです。自分の教会のことを考えるのは当然ですが、けれども坂戸いずみ教会以外にも多くの教会があります。それらの教会にも目を向け、つながり、協力できればと思います。
 坂戸いずみ教会は毎年、夏に、埼玉2区にある近隣7〜8つの教会と小学生の合同キャンプを行います。他の教会の方々と協力し、一つの働きを共にする、とても良い機会となっています。そこに参加する子供たちのことも、他の教会の子どもたちと言うよりも、一つの囲いの中に、一緒にいる子供たちとして見ることができる恵みがあります。
 明日は、埼玉地区新年合同礼拝があります。今年は埼玉1区、2区、3区と3つに分かれて、私たちは2区19教会・伝道所の方々と埼玉和光教会で、共に礼拝をします。私たちの教会はCCスタッフを中心に、礼拝の中で聖書劇を演じる役割を担っています。坂戸いずみ教会という「囲い」の外の方々と礼拝を共にし、一つになる良い機会、自分の教会という「囲い」の意識を広げる良い機会です。
 また、「囲い」というものをもっと広い見方で考えれば、キリストの教会とそこに属するクリスチャンだけが、私たちにとってキリストの囲いなのではなく、キリスト教を信じていない多くの人々も、教会という囲いの外にいる羊として、すなわち神さまによって造られた“人間”として、神さまの愛の対象なのだと言うことができるでしょう。神さまは、私たちのようにケチな分け隔てはせず、クリスチャンであろうとなかろうと、人を救うために、この世界において自由に働かれるのです。神さまにとっての「囲い」とは、この世界そのものだと言うことができます。その意味で、私たちは、どんな人をも愛すべき隣人と見て、愛する道を模索していくことが求められていると思います。
 神さまの囲いは広い!その愛の中で、人と共に生きることを目指して進みましょう。


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2019年1月6日 主日礼拝説教        

聖書  ヨハネによる福音書10章1〜6節

説教者 山岡 創牧師 

10:1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
10:2 門から入る者が羊飼いである。
10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
10:6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。


          「声を聴く」  
  スイスの作家ヨハンナ・スピリの名作『アルプスの少女ハイジ』は、皆さんご存じでしょう。日本では1974年にアニメ化されました。私も文学作品としてよりも、子どもの頃に見たアニメの方が、印象が強いです。
余談ですが、そのアニメがトライという学習塾のコマーシャルに使われています。現代の日本の子どもたちは、あのアニメ映像を見たら、アルプスの少女ハイジとしてよりも、トライのコマーシャル・キャラクターとして見るのだろうと思うと、ちょっと残念です。
 それはさて置き、この物語(アニメ)の中に、ペーターという少年が出て来ます。村の少年で、毎日、ハイジのおじいさんであるアルムの山羊(やぎ)の群れを預かって、山に連れて行き、草を食べさせ、一日世話をします。
 今日の聖書箇所を黙想しながら、私はふと、そのシーンを思い出しました。ヤギと羊では、ちょっと性質が違うかも知れませんが、聖書の世界でも、羊の所有者がいて、その羊の群れを、請負の羊飼いが牧草地に連れて行き、世話をするようです。だから、「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである」(1〜2節)という、ある意味、当たり前の言葉が出て来るのです。

 このたとえ話において、羊飼いにたとえられているのは語っている主イエスご自身であり、盗人、強盗にたとえられているのは「ファリサイ派の人々」(6節)でした。
 ファリサイ派ユダヤ教の主流派であり、神の掟である律法を熱心に、厳格に守ろうとするのが特徴でした。特に彼らは、安息日の掟を重んじました。神さまが天地を創造された時、6日間でその業を終え、7日目に休まれたことにちなんで、人も1週間の内、7日目には休む。一切、仕事はしない、という掟でした。その掟のことで、ファリサイ派の人々は主イエスとしばしば対立しました。
 直前の9章に、その対立のワン・シーンが描かれています。主イエスが、生まれつき目の見えない人を癒(いや)した話です。主イエスは通りすがりに出会った、生まれつき目の見えない人の目を癒し、見えるようにしました。その日は安息日でしたが、主イエスのポリシーは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(5章17節)ということですから、主イエスは、その人との一期一会(いちごいちえ)とも言える出会いを大切に思って、その目を癒されたのでしょう。
 ところが、ファリサイ派からすれば、その行為は当然、安息日違反でした。その違反行為を裁くために、まず目を癒された人・本人が、ファリサイ派の裁判の席に証人喚問されました。続いて、彼の両親が喚問されましたが埒(らち)が開(あ)かず、目を癒された人が再度喚問されます。しかし、その人は、主イエス安息日の掟を破った罪人だとは証言せず、主イエスこそ神のもとから来られた救い主(メシア)だと証言しました。そのためにファリサイ派の人々は怒り、彼をユダヤ人の会堂と社会から追放するという仕打ちに出ました。そこに再び主イエスが現れて、目を癒された人は、「主よ、信じます」(9章38節)と告白するというのが9章の内容です。そう、彼は、今日の聖書の言葉を借りて言えば、一匹の羊として主イエスの声を聞き分け、主イエスについて行った、と言えるでしょう。
 主イエスとて、安息日の掟を軽んじているわけではないのです。ただ、主イエスは、律法の真髄は何か、律法に込められた神の御(み)心は何か?ということを問い直して、最も大切な律法の心は“愛”にある、と汲み取っておられるのです。
 マタイによる福音書22章34節以下で、ファリサイ派の律法学者から、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねられた時、主イエスは、心を尽して神を愛することと、隣人を自分のように愛することだとお答えになりました。神を愛するとは、神の声を聴くということだと言ってよいでしょう。それは言い換えれば、律法に、すなわち聖書に込められた神の御心を探り当てて、それに従うということでしょう。そして、神の御心を具体的に自分の生活に反映させると、隣人を自分のように愛する、ということになるのです。
 だから、主イエスは、ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)13章(34節)と15章(12節)で、弟子たちにこう言われるのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。
 この言葉の土台には、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われる主イエスの愛があります。主イエスを通して掘り起こされた神の愛があります。神に愛されているからこそ、愛する。それが、律法の中に、聖書の中に、主イエスが探り当てた神の御心なのです。それに基づいて、主イエスご自身が行動しているのです。
 その意味で、羊飼いか、それとも盗人・強盗かを分ける「門」という基準は、“愛”であると言ってよいでしょう。愛という「門」を通って、愛に基づいて生きているかどうか、ということです。
 ファリサイ派の人々は、律法の掟を厳格に、言葉を変えて言えば杓子定規(しゃくしじょうぎ)に守ろうとするがゆえに、神の羊の群れであるユダヤ人、イスラエルの人々を裁きました。特に、徴税人(ちょうぜいにん)や遊女(ゆうじょ)、罪人(ざいにん)や障がいを負った人を罪人(つみびと)と断じ、律法を守れないから神に愛されない者として社会から追放しました。自分たちの信仰、自分たちの考え、価値観に合わない者を、“神の民”という羊の囲いから排除したのです。そこには“愛”がありませんでした。そして、その有様に異を唱えたのが主イエスだったのです。

 主イエスは、神の御心は“愛”であると受け止め、この神の愛を、人々に届けるためにやって来たお方でした。愛のない、愛されていない辛(つら)さを感じていた人々は、この主イエスの声を、主イエスの心を、敏感に聞き分けたのです。ファリサイ派の人々や、その律法学者たちとは違う、と聞き分けたのです。
 今日の聖書の中に、「羊はその声を聞き分ける」(3節)、「羊はその声を知っている」(4節)という言葉がありました。羊は本当に羊飼いの声を聞き分けることができるのかなぁ?と思って、調べてみました。すると、ミカエル小栗という人のブログに、こんなことが書かれていました。彼がアルジェリアで駐在員をしていた時、日常の風景の中に羊がおり、羊飼いの知り合いができたといいます。ある時、小栗さんが羊の群れの先頭に立つと、先頭の羊が立ち止まり、“どうすれば良いのか?”と羊飼いの声を聞こうとしたそうです。“ムッシュー、先頭に立たないでくれ!”と羊飼いから言われて、道を開けると、羊たちは牧草地に進んで行ったと言います。中には、道を逸(そ)れて逃げ出した若い羊がいて、羊飼いがその羊に、戻るように声をかけると、帰って来たということです。
 また、別のブログでは、子どもの羊が自分の親を見失って鳴き声を上げると、親はその声を聞き分けて、鳴いて呼び寄せると書かれていました。羊は声を聞き分けるのです。
 けれども、ミカエル小栗のブログには、こんなことも書かれていました。
声を聞き分けられない時は、己の思いが強い時。羊は、前に障害物があると羊飼いの声を待つ。待たない羊は、勝手にあらぬ方向に走り出した結果、迷ってしまう。
 それで思い出したのが、NHKの連続テレビ小説まんぷく〉のワン・シーンでした。日清食品の創業者をモデルにした主人公・橘萬平に、大阪の信用組合から理事長を引き受けてほしいとの依頼が舞い込みます。萬平は、自分はその器ではないのではないかと迷い、家族に相談します。すると、義理の母である今井すず(松坂慶子)は、絶対に引き受けてほしい、子どもたちのためにも早く堅気(かたぎ)の人間になってくれ、と涙ながらに頼みます。一方、妻の福子は、萬平さんが自分で決めてください、と言い、家族の意見が割れます。その夜、福子は夢を見ます。夢の中に、亡くなった姉が出て来て、対話の末に、理事長の依頼は引き受けなくていいと姉が言います。翌朝、その話をすると、母親(すず)は、そんなはずがないと言います。自分の夢にもよく娘が出てくる。あの子が、そんなことを言うはずがない、それは間違いだ、萬平さんに理事長に就けと言うに決まっていると、すずは主張します。
 いつものすずさんのキャラクターだなぁと思って見ていたのですが、“声が聞き分けられない時は、己の思いが強い時”という言葉に、ふと、このシーンを思い起こしました。萬平に理事長に就いてほしいという己の思いを、亡くなった娘の意思だ、声だと言い張るのです。
 私たちは、聖書を通して、神さまが私たちに何を語りかけておられるか、主イエスが何を求めておられるか、その声を聞きます。肉声ではなく、心の耳で、声にならない声を、神の言葉を聴きます。それは、信仰による一種のインスピレーションです。聖書的な表現で言えば、聖霊が私たちに働いて、神の声が聞こえるということになります。
 けれども、己の思いが強いと、その声が聞こえなくなります。いや、己の思いを神の声だと勘違いすることがあります。その勘違いは、自分は神の声を聞き、神の御心が分かっているから、自分は正しく、相手が間違っているという独善、自己絶対化を生みます。そして、ともすれば殺人やテロさえも神の声として肯定するようになります。それを狂信と言います。
 私たちは、聖書を通して自分が感じている声が、神の声かどうかを聞き分ける必要があります。その基準となるものが“愛”です。その声に神の愛を感じるか?“あなたはあなたらしく、あなたのままに生きていいよ”と、裁きではなく、自分が自分のままに受け入れられている平安を感じるか?その愛に基づいて、あなたも隣人を愛しなさい、との声が聞こえてくるか?自分が好きな、仲の良い相手ばかりでなく、自分が嫌いな、苦手な相手にも、心を用いるように、との声が聞こえるか?それが、神の声を聞き分ける基準になります。
 ただし、自分の信仰(のインスピレーション)だけでは、聞き分けられないこともあるでしょう。神の声だと思い込んで、間違うこともあるかも知れません。だから、私たちは聖書の御(み)言葉を聞き続けます。学び続けます。そして、自分を吟味し、自分に愛があるかを真摯(しんし)に問い続けるのです。信仰生活は、それ以外にありません。
 新しい一年も、神の声を聞き分けて、その声に従って人生の道を進んでいきましょう    。


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2018年12月23日 待降節アドヴェント第4主日・クリスマス礼拝説教

聖書  マタイによる福音書2章1〜12節
説教者 山岡 創牧師 

2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5 彼らは言った。「ユダヤベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。



          「幼子が共にいる喜び」  
 12月2日から、イエス・キリストの誕生祭・クリスマスを待ち望むアドヴェントという期間を過ごして来ましたが、今日はアドヴェントの第4の日曜日、クリスマス礼拝の日を迎えました。イエス・キリストのお生まれを祝い、礼拝するために、今日、私たちはこの教会にやって来ました。言わば、私たちは、現代における“占星術の学者たち”だと言ってよいでしょう。

 イエス・キリストを最初に礼拝した人物として、マタイは、「占星術の学者たち」(1節)を登場させています。ちなみに、ルカによる福音書のクリスマス物語で、最初にキリストを礼拝したのは羊飼いたちでした。
 占星術の学者たち、おそらくペルシアの国でマギと呼ばれた学者たちです。占星術と言えば、現代でも、雑誌や民間の報道番組等で、私たちは星占いとしてお目にかかります。自分の星座で、その日の運が良いと、ちょっと良い気分になったりします。私たちにとって占星術との関わりはその程度のものでしょうが、当時の占星術天文学として最先端の科学と考えられていました。人々は、その判断によって農作物の植え付けや収穫の時期を定めたようです。彼らは、科学者であり、また宗教家であり、医者であり、社会の指導者でした。そういう人物が、イエス・キリストを礼拝するためにやって来たのです。
 きっかけは、彼らの専門分野である「星」でした。彼らはユダヤの都エルサレムにやって来て、呼びかけます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)。彼らは、星を調べて、ユダヤ人の新しい王のお生まれを知りました。当時、ユダヤ人の間にあった救世主を待ち望む風潮が、お隣りのペルシアにも伝わっており、学者たちは、待望の救世主、神の子が生まれたと星で占ったのです。
 私たちもイエス・キリストを礼拝するために教会に集まります。今日生まれて初めて教会に来た、という人もいらっしゃるかも知れません。一人ひとり、きっかけの“星”があったと思います。
 家族や友人のお誘いがきっかけになった人もいるでしょう。キリスト教関連の本を読んで、という人もいるでしょう。教会のホームページを見て、という人もいるでしょう。この道を通りかかって、ここに教会を見つけて来た、という人もいるでしょう。教会で結婚式や葬儀をしたことがきっかけで、という人もいるでしょう。デパートやスーパーで流れている讃美歌を聞いて、教会に行ってみたくなったという人もいるかも知れません。何がきっかけになるかはそれぞれですが、私たちは皆、ここに導かれたきっかけの“星”があったはずです。

 占星術の学者たちは、星をきっかけに、イエス・キリストを礼拝するためにエルサレムにやって来ました。けれども、彼らはまだ、イエス・キリストを見つけていません。イエス・キリストと出会っていません。
 彼らはエルサレムで、「どこにおられますか」と叫んでいます。これは、文字どおりに考えれば、ユダヤ人の王、救い主がお生まれになった“場所”を尋ねる問いかけです。けれども、その裏側には、“救い主はどなたですか?”“救いとは何ですか?”という本質的な問いが込められているのです。
 私たちも教会に来ました。けれども、それだけではキリスト教が説く救いがどんなものかは分かりませんし、イエスが救い主だとも信じられません。この中には、礼拝を守りながら、占星術の学者たちのように、救い主は「どこにおられますか」と問いかけ、求めている方がおられるに違いありません。あるいは信仰を告白し、洗礼を受け、クリスチャンとなった人も、イエス・キリストによる救いを確認し続けていると言うことができます。そういう意味で私たちは皆、「どこにおられますか」と救い主を、救いを求める者なのです。

 占星術の学者たちは、「どこにおられますか」と新しい王、救い主を探し求めました。その彼らに、救い主の生まれた場所を、つまり救い主とはだれか、救いとは何かを示したものは、聖書の御(み)言葉でした。
 彼らの問いかけに、別の動機で過敏に反応したヘロデ王が、祭司長、律法学者たちを集めて問いただしたところ、6節に引用されている預言者の言葉が提示されました。これは、旧約聖書・ミカ書5章1節の御言葉です。この御言葉によって、救い主はベツレヘムに生まれることが示されました。言い換えれば、キリスト教による救いは、聖書の御言葉によって私たちに示される、ということです。
 余談ですが、聖書の御言葉からイエス・キリストの場所を学者たちに伝えたのは、ヘロデ王でした。王は、新しい王の誕生という噂に、自分の地位が脅かされるのではと不安を感じ、その不安の芽を摘むために、学者たちを利用して新しい王、救い主の生まれた場所を突き止めさせ、抹殺しようと企てたのです。その意味では、ヘロデ王からの情報は、単純に喜べるものではありません。けれども、それによって学者たちはイエス・キリストを捜し当てることができました。だから、そのようなマイナスなものによってさえも、救い主が、救いが示されるきっかけや動機になることがあるということです。私たちにとって、不都合な出来事であったり、なかなか解決しない問題であったり、失敗や挫折(ざせつ)、苦しみや悲しみ、そういった人生のマイナスと思われるようなものが、教会に足を運び、聖書の御言葉を真剣に聴かせる動機になることがあり得るのです。私たちの人生は、何が自分を救いへと導くか分からない、もしかしたらすべては救いへとつながっている、そういう希望に満ちているかも知れないのです。
 話を戻しますが、ヘロデ王を通して聖書の御言葉を聞いて出かけた学者たちは、再びきっかけの「星」を見出しました。星は「幼子のいる場所の上に止まり」(9節)、学者たちは「その星を見て喜びにあふれた」(10節)といいます。きっかけの星が“喜びの星”に変わるのは、つまり、“あのきっかけがあってよかった。私は救いへと導かれた”と喜べるのは、聖書を通して、救い主イエス・キリストと、キリスト教の救いの内容と出会った時です。

 では、その救いの内容とはどんなことでしょうか。11節に「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」と書かれています。今までこの聖書の箇所を何度も読んで来て、ほとんど注目していなかった、読み飛ばしてきた節でした。けれども、今回はなぜか、この御言葉に最も注意を引かれました。
 そのきっかけは、どうして「母マリアと共に」なのだろう?どうして父ヨセフは出て来ないのだろう?という疑問でした。そして、思い巡らしているうちに、これは1章18節以下と対になっている言葉ではないかと思ったのです。
 先週の礼拝でお話しましたが、1章18節以下で、ヨセフは、自分に覚えがないのにマリアが身ごもっていることを知り、苦悩します。一度は離縁を決心しますが、夢の中で、マリアの子は神の聖霊によって宿ったのだ。恐れずマリアを妻としなさいとの神のお告げを受け取ります。そして、聖書を通して「神は我々と共におられる」(1章23節)という御言葉が示されました。それは、訳が分からず、どうして良いかも分からず、人に知られたら何を言われるかと不安を感じるような現実とその問題の中で、神はあなたと共にいる。あなたを孤独の苦悩の中には置かない。わたし(神)が、あなたの“味方”として、目には見えないけれどそばにいる。あなたを受け入れ、励まし、支える、という意味であり、苦しみを背負って生きていく慰めとなり、希望となる神の約束でした。
 その約束が、2章においては、マリアにも与えられている、ということだと気づかされたのです。ヨセフが苦悩したように、マリアはマリアで、深く苦しみ悩んだに違いありません。もしかしたら、死んでしまおうとさえ思うほどに、苦しみ悩んだかも知れません。その苦悩は、もし自分は独りぼっちだ、だれも私の悩みを聞いてくれる人はいない、苦しみを分かち合い、支えてくれる人はいない、共にいてくれる人はいない、と感じたら、実行に移されていたかも知れません。
 けれども、マリアにもきっと、神のお告げがあったに違いないのです。わたしがあなたと共にいる。わたしがあなたの味方となり、話を聞き、苦悩を分かち合い、支える。この神のメッセージを聞いたに違いないのです。
 ルカによる福音書1章によれば、マリアのもとにも天使が現れて、聖霊によって身ごもることを告げています。その際、天使は、マリアに親族のエリサベトのことを紹介しています。それを聞いてマリアは、急いでエリサベトのもとに向かい、3カ月の間、その家に滞在したと記されています。マリアはきっと、エリサベトに、自分の胸の苦しみを打ち明け、聞いてもらい、癒(いや)されたに違いありません。
 あなたと共にいる、と言われる神は、共にいてくれる人を備えてくださいました。共にいる人を通して、神が共におられることを味わわせてくださいました。エリサベトと共に過ごす日々の中で、マリアは、人生とは、神が共にいてくださるもの、言い換えれば、愛によって支えられているものと示され、それを信じたのです。
 ヨセフだけでなく、マリアもまた、自分と共に神がいてくださることを信じました。だからこそ、ヨセフとマリアは離縁するのではなく、神が共にいてくださるから、自分たち二人も、苦しみを分かち合い、共に生きていく道を選びました。クリスマスに私たちに告げられる喜びとは、苦しみ悩みのない、単純な喜びではなく、苦悩の中に輝く喜び、苦悩の中で捜し当てる喜びなのです。

 占星術の学者たちは、マリアと共におられる幼子イエス・キリストを捜し当てました。言わばそれは、神が人と共にいてくださる人生の真理を捜し当てた、と言ってよいでしょう。人生の慰めを、励ましを、喜びを捜し当てた、それがまさに私たちにとっても“救い”なのです。
 けれども、彼らはまだ見つけたに過ぎません。その救いを、人生の実感として、まだ身に付けたわけではないのです。学者たちは、ここから信仰の人生、救いの旅を始めると言ってよいでしょう。
 彼らは、「宝の箱を開けて、黄金、入香(にゅうこう)、没薬(もつやく)を贈り物として献げた」(11節)とあります。それは礼拝なのですが、言い換えれば、自分の宝(価値あるもの)を、もっと言えば自分の人生を、神の救いを獲得するために懸けた、と言うことができます。
 先週の礼拝でも、信じるとはどういうことかという信じ方の話をしました。今日の御言葉から言えば、信じるとは、神が共にいてくださるという救いを身に付け、実感するために、自分の大切なものを懸け、自分の人生をかけて信仰生活を送るということです。
 占星術の学者たちは、イエス・キリストを礼拝して、「別の道を通って‥‥帰って行き」(12節)ました。別の道とは、神が共におられるという救いを捜し当て、その救いを自分のものとするために、自分の人生をかけて信仰生活を始めたということにほかなりません。
 私たちも、聖書を通して、イエス・キリストによってもたらされる救いを見つけ、自分のものとするために、「別の道」を、信仰の人生を歩みましょう(始めましょう)。



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