坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年1月18日 主日礼拝「愛の食卓を囲んで」

聖書 マルコによる福音書14章22〜26節
説教者 山岡創牧師

◆主の晩餐
14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
14:26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。


          「愛の食卓を囲んで」
止揚学園という、知能に重い障害を持つ子供たちの施設があります。その学園の一人の子供が、“平和って何だろう”と皆で話し合っていた時、こう言ったそうです。
  平和ってな、みんなで一緒にごはん食べることやもん。
 これにまさる平和についての定義を言うことは難しいと、ある人が言っていますが、私も、まさにそのとおりと感じます。一緒に食卓を囲んで、ごはんを食べる。それは当り前のようですが、何にもまさる平和な風景ではないでしょうか。
 けれども、主イエスと弟子たちの食卓は、平和どころではなかったでしょう。不安と動揺のために、暗く沈んだ食卓だったに違いありません。なぜなら、直前に、弟子たちの一人が裏切ると主イエスから告げられたからです。


 時は、ユダヤ人の大切な民族祭である過越の祭りの最中でした。千年以上昔、彼らの遠い祖先は、エジプトで奴隷として酷使されていました。そのような奴隷の国エジプトから、神さまは彼らを脱出させ、苦しみから救い出してくださいました。この救いの出来事を記念し、喜び祝うのが過越の祭りであり、その中心が過越の食事でした。
 けれども、喜びと祝いであるはずの席は、重苦しい空気に変わりました。それは、主イエスが弟子の一人の裏切りを指摘されたからです。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)。その一言に、弟子たちすべてが動揺しました。皆、自分が疑われているのではないかと不安に思い、「まさかわたしのことでは」(19節)と代わる代わる言い始めたとあります。裏を返せば、皆、自信がないのです。皆、心のどこかに裏切りの思いを潜ませていたのだと思います。
 そのような重苦しい空気の下で、落ち着いて、喜んで、お祝い気分で、食事などできるわけがありません。イエス様ってKYじゃないか、ちょっとは場を考えて物を言ってよ、と思われた方もいらっしゃるかも知れません。
 けれども、過越の食事という大切な機会だからこそ、主イエスは敢えて、裏切りを告げられたのではないでしょうか。なぜなら、偽ったまま、心に嘘を抱えたまま、表面だけ取り繕って、この救いを記念する食事を守ることはできなかったから、したくなかったからだと思います。だからこそ、救いの食卓だからこそ、嘘をえぐり出し、罪を悔い改め、赦し合って、もう一度、真実な関係を、喜びと救いの食卓、平和の食卓を取り戻そうとされたのではないでしょうか。


 だから、このような空気になっても尚、食事を続けられたのです。普通だったら、もはや食事どころではありません。即座に解散になるか、あるいはその場で裏切り者の吊るし上げが始まるところでしょう。
 けれども、主イエスはそのような席にはなさらなかった。もう一度、弟子たちとの真実な関係を、喜びと救いと平和の食卓を取り戻そうとなさったのです。
 「取りなさい。これはわたしの体である」(22節)。重苦しい空気の中で、そう言って主イエスはおもむろに、パンを裂いて弟子たちに与えました。弟子たちには何の意味だか分らなかったでしょう。
 過越の食事では、小羊を屠ったものに、酵母菌を入れない、膨らんでいないパンと苦い野菜を添えて食べるのがしきたりでした。そのパンを、食卓のホストとして取り分ける際に、主イエスは「これはわたしの体である」と言われたのです。弟子たちにその意味は分からなかったでしょうが、主イエスはこの時、ご自分の“命”を弟子たちに与える決心をされたのだと思います。ご自分の命を、弟子たちの嘘の生贄に、裏切りの犠牲に供する覚悟をなさったのです。その覚悟を、過越のパンに込められたのでしょう。
 裏切りを追及することをしない。罪を吊るし上げることもしない。かわいい弟子たちです。愛する弟子たちなのです。愛する我が弟子たちのために、彼らの嘘を、裏切りを、罪を、すべてご自分が引き受けて犠牲になろうと決心なさったのです。
 この直後に、主イエスは、ご自分のことを煙たがり、抹殺しようと企てていたユダヤ教の指導者・権力者たちにつかまり、十字架に架けられ処刑されます。そのきっかけとなったのがイスカリオテのユダの裏切りであり、それを後押ししたのが、他の弟子たちが主イエスを見捨てて逃亡したことでした。それを見越して、主イエスは弟子たちにご自分の命を与える覚悟をなさったのです。言わば、それは弟子たちが、自分の罪を知り、人生を知り、命を知り、愛を知り、もう一度生き直すために主イエスが支払う“授業料”のようなものだった、貴く、高い、命という名の授業料だったと言っても良いでしょう。


 パンの後でぶどう酒の杯も一人一人に回して、主イエスは言われました。
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(24〜25節)。
 かつてユダヤ人の先祖たちが、神の導きでエジプトを脱出した時、彼らは神さまと契約を結びました。神さまは彼らを救う神となり、彼らは神のもの、神の民となって従う、という契約です。その際、エジプト脱出の指導者であったモーセは、雄牛を、神さまとの和解の献げ物としてささげ、その血を半分は祭壇に、そして半分は人々に振りかけて、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」(出エジプト記24章8節)と宣言し、契約のしるしとしました。
 それから千年以上の時が流れる中で、ユダヤの民は繰り返し、神さまに背き、罪を犯しました。やがて預言者エレミヤは次のように預言しました。
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。‥‥‥すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。‥‥‥わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」(エレミヤ書34章31〜34節)。
 主イエスは、このエレミヤの預言を脳裏に描きながら、「これは‥‥わたしの血、契約の血」と言われたのではなかろうかと思います。言わば主イエスは、弟子たちの胸の中に律法を、神の御心を、そして私たちの胸の中に真実を授けるために、ご自分の命を供されたのです。ぶどう酒に、契約のしるしである血の意味を、やがてご自分が十字架に架けられて流すであろう血の意味を、弟子たちのため、私たちのために流す血の意味を、ささげる命の意味を込められたのです。
 その意味で、この食卓は“契約の食卓”です。この主の晩餐を受け継いで、私たちも礼拝において聖餐の食卓を囲みます。礼拝において、この聖餐式が執り行われる時、パンとぶどう酒(ジュース)をいただくことができず、疎外されたような、さびしい気持になる方がおられるかも知れません。そのように思わせることは、本当に申し訳ないことだと思います。
 けれども、だからと言って、だれにでもこのパンとぶどう酒を供するわけにもいかないのです。その時の気分、その時、信じる気持が湧いたからというだけでは、この食卓に与ることはできないと思います。これは主イエスの命です。主の血です。主の心です。主の愛です。そう信じて、“これによって私は救われた”と、神さまと救いの契約を結んだ者だけが、主の命の前に、主の愛の前に、終生変わらず、嘘を捨て去り、真実をもって立ちます、と誓った者だけが、主の命と血をいただくことができるのです。それだけの重みを受け止めて、この聖餐の食卓を私たちは囲みます。だから、どうぞ今、聖餐を受けることができない方々、それをおゆるしいただきたいのです。


 主イエスは、それほどの覚悟を込めて、ご自分の命と愛を込めて、パンと杯を弟子たちに分け与えました。けれども、この時、弟子たちは動揺し、主イエスの言葉がしっかりと耳には入らなかったでしょう。主の心が、主の愛が分からなかったでしょう。
 後になってから、弟子たちの胸に、この時の主イエスの言葉が、心が、愛が染み通るのです。弟子たちの裏切りと逃亡が引き金となって、主イエスは十字架に架けられます。けれども、その後復活した主イエスと弟子たちは出会って、再起します。もう一度主イエスの教えを宣べ伝え、教会を生みだして行きます。その時の弟子たちの様子が、使徒言行録2章46節に記されています。
「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」。
 たぶん当時は、今日のようなわずかのパンとジュースをいただく、儀式めいたものではなく、パンを分かち合って食事をしていたのだろうと思います。その時、彼らはしみじみと語り合ったに違いありません。あの時、自分たちは嘘と偽りにまみれた罪深い者だった。そして、主を裏切り、見捨てた。けれども、主イエスはそのような自分たちを責め、罰さなかった。見捨てなかった。そのような自分たちを丸ごと背負って、引き受けるかのように、ご自分の命をささげてくださった。その心がなかったら、今の自分たちはなかった。主の愛があったから、自分たちはこうして生きることができたのだ。弟子たちは、喜びと真心をもって食事をし、賛美を歌えるようになったのです。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15章13)。
愛とはこれだと、主イエスは身をもって示してくださいました。そして、このように大きな、深い愛で、私たち一人一人の命が、目には見えないけれど、神さまにいつも愛されている、愛されて在る。そう信じて生きることが信仰です。
 私たちは、自分の痛みや苦しみには敏感でも、自分の嘘や不真実にはそれほど鋭くはありません。私たちは自己中心にできています。これぐらい当たり前だ、大したことないと思って自分を弁護したり、相手の方を責めたりしがちです。だから、聖餐の食卓に与っても、その恵みがよく分からないと思うことがあるかも知れません。
 そのような私たちが、自分の罪の大きさに気づくのは、自分の好きな、愛している相手を傷つけ、悲しませたと心から思う時でしょう。そして、相手を失った時でしょう。その時、私たちは傷つけた心の痛み、相手を失った喪失感によって、自分の罪を実感するでしょう。その時、私たちは聖餐の食卓の前に、心から立つことができるでしょう。
 もちろん、そう感じても、礼拝の中で、皆の前で、自分の嘘を、偽りを、罪を明らかにすることはできないでしょう。また、すぐに解決することもできないでしょう。あるいは、もはや手遅れで、解決することはできないかも知れません。
 それでも、私たちは主イエスの愛の前に立って良いのです。嘘がないとは、偽りがないとはどういうことでしょうか? 一つも嘘をつかないことではありません。一度も偽りを働かないということではありません。罪の心の故に嘘をつき、偽りを働くその自分を、主の前で見つめることです。認めることです。悔い改めの志を抱くことです。
 神さまは、そのような私たちを赦してくださるのです。罪に色あせ、壊れた私たちを捨てないのです。なぜか。愛しているからです。愛する我が子、神の子だからです。
 主イエスに愛されて、神に生かされてある命、それが私たちの人生を支えるすべてなのです。

 

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