坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年2月1日 主日礼拝「人の覚悟、神の覚悟」

聖書 マルコによる福音書14章27〜31節
説教者 山岡創牧師
◆ペトロの離反を予告する
14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。
14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。


          「人の覚悟、神の覚悟」
 街灯があるのが当たり前、という社会になりました。夜道を歩いていても、街灯のない、真っ暗なところというのは滅多にありません。だから、ちょっと田舎の方に行った時に、夜、街灯の全くない田舎道に出くわすと、自動車のライトを消してみたくなります。今、ライトを消したら周りはどんなふうになるのだろう?。そんな好奇心を感じてライトを消すと、思ったとおり、真っ暗闇になります。全く道が見えない。年配の方は、お若い頃に街頭のない暗い道を歩いた、といった経験をお持ちでしょうが、川越育ちの、私ぐらいの年齢の人間には珍しく、そんな好奇心が湧いたりするのです。
 過越の祭りの食事、主の晩餐を共にした主イエスと弟子たちは、エルサレムの街中の家から郊外にあるオリーブ山に出かけた、と直前の26節にあります。エルサレムの街中にも、オリーブ山の斜面にも、もちろん街灯などあるはずはありません。真っ暗な道です。先頭を行く主イエスは松明を持っていたかも知れませんが、だいぶ離れて後から続いて来る弟子たちは、足もとがよく見えず、石や木の根っこに何度もつまずいたかも知れません。それは、その時の弟子たちの人生を暗示しているかのようです。“何も見えず、どう進んだらよいのか分からない”“どう生きたら良いのか分からない”。主イエスについて行くことに不安を感じ始めている弟子たちの心は、まさに真っ暗闇の中を歩いているようなものだったでしょう。
 そういう弟子たちの心を読み取ってか、また石や木の根っこにつまずく弟子たちの様子をご覧になってか、主イエスはオリーブ山の斜面を登りながら、こう言われたのです。
「あなたがたは皆、わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ」(27節)。


 主イエスにつまずく。それは、主イエスを信じ、従って行くことに挫折する、ということでしょう。信仰に挫折する、信仰生活に挫折するのです。
 そして、弟子たちの信仰の挫折は、偶然ではなく、旧約聖書・ゼカリヤ書13章の預言にあるとおり、定められた、宿命のようなものだと主イエスは見ておられるのです。ここで言われている「羊飼い」とは主イエスのことです。そして、「羊」とは弟子たちのことです。主イエスが打たれるので、主に導かれ従って来た弟子たちは散り散りになってしまうのです。しかも、羊飼いを打つ「わたし」というのは、他のだれでもない、神さまご自身です。
 この直後、主イエスは、ご自分に妬みを持ち、殺意を抱いているユダヤ教の指導者たちに捕えられ、でっち上げの裁判で罪を着せられ、十字架に架けられて殺されます。それは、指導者たちが、主イエスを十字架に架けて殺したということでありますが、この十字架の死には、神さまの深いご計画が隠されていて、その計画実現のために神さま自らが打たれたのだと、主イエスは旧約聖書の預言の言葉から受け止めておられたのです。
 けれども、そんなことが、この時の弟子たちに理解できるはずもありません。主イエスが捕えられた。そして、十字架に架けられて殺された。それは、この方こそ地上に神の国を実現し、その王となる方だと信じて従って来た弟子たちにとって、挫折以外の何ものでもありませんでした。
 十字架は信仰のつまずき、挫折である。それは、現代の弟子たらんとする私たちにとっても同じものかも知れません。神さまを信じていれば良いことがある。主イエスに従って行けば幸せがある。家内安全、商売繁盛、無病息災、そう信じてついて来たのに、その道の終わりが十字架の死って、一体どういうことだ?。主イエスは、あなたも自分の十字架を負いなさい、と言うけれど、それは一体どういうことだ?。このまま進んだら、私の人生も、最後は十字架ということか?。私たちはなかなか理解すること、悟ることができないのです。主イエスの十字架は、私たちが進もうとしている信仰の道に、つまずかせる石として、高いハードルとして立ちはだかっています。その向こうにある喜びや希望を、なかなか見通すことができないのです。


 あなたがたはわたしにつまずく。聖書に書かれているとおりに、つまずく。主イエスは弟子たちに告げました。けれども、それを聞いたペトロが答えます。
「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(29節)。
 この時、ペトロは、十字架の向こうにある喜びと希望が、救いが見えていたから、こう言ったのではありません。ただ意地から、とでも言うか、ペトロにしてみれば、主イエスから、つまずくと言われたということは、自分の信仰がその程度に見られているということ、大したことのないものと見られていると感じたのでしょう。そこで、自分があなたを信じて従って行く覚悟は、そんな半端なものではりませんよ、と主張したのです。ペトロにしてみれば、自分が主イエスに認められていないと感じて、悔しかったのかも知れません。寂しかったのかも知れません。自分の値打ち、自分の信仰の価値を主イエスに認めてほしくて、こう言ったのではないでしょうか。
 しかも、ペトロは「みんながつまずいても」と、自分と他の弟子たちを比べながら、こう言っています。これも私たちにありがちなことかも知れません。みんなが分かっていなくても、私は信仰の恵みを分かっている。みんなが中途半端な信仰生活をしていても、私は一生懸命、一筋に信仰生活をしている。“みんなが‥‥でも、私は‥‥”、そんなことを心に思うことがあるのです。そんなふうに自分の力に自惚れることがあるのです。そんな時、私たちは謙虚さを失って、自分の正体を見失っています。
 けれども、そのように主張するペトロに、主イエスははっきりと予告されるのです。
「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」
(30節)
 主イエスは、ペトロの目を見つめて、一語一語、区切るようにはっきりと言われたに違いありません。主イエスが捕えられて行く。十字架に架けられる。その時、弟子たちも一味として尋問される。恐怖と保身の気持が、あなたの心を支配する。その時、主イエスを知らない、自分には関わりがないと、主イエスを否定する。主イエスは、そういう弟子たちの弱さを見越しておられたのです。
 けれども、そう言われたペトロは引き下がれません。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(31節)と息巻くのです。他の弟子たちもそうだったと言います。みんな、その通りですと認めるわけにはいかない。みんな、自分の信仰はしっかりしたものだと、自分の覚悟は半端ではないと、まるで自分を励ますかのように、主イエスの前で言い張ったのです。
 しかし、その結果はどうだったでしょう?。弟子たちは、聖書の預言の通りになるのです。主イエスの言葉の通りになるのです。彼らはみんな、主イエスを見捨てて逃げ、あるいは、主イエスを知らないと、その関係を否定してしまうのです。彼らは主イエスにつまずくのです。信仰に挫折するのです。


 けれども、主イエスは、弟子たちのつまずき、挫折を、聖書に定められたこととして見越しておられました。人が、その人生において行き着く宿命的な経験として見抜いておられました。それは、つまずき、挫折する弟子たちを不甲斐無い者として、忌々しげに見るまなざしではありません。腹立ちのまなざしではありません。それは、憐れみのまなざしです。力なくつまずき、挫折する弟子たちを心配し、絶望から立ち直らせようとする心です。そのために、主イエスはご自分の十字架の死の後のことまで、弟子たちの挫折と絶望の後のことまで慮って、こう言われたのです。
「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」(28節)。
 エルサレムがつまずきと挫折の場所なら、ガリラヤは、弟子たちと主イエスの出会いの場所です。悲しみから喜びへ、不安から平安へ、絶望から希望へと弟子たちが変えられた場所です。そこに、主イエスが先に行って、あなたたちを待っている、と前もって語りかけてくださったのです。
 それは、短絡的に“生き返って”、先に行って待っているという意味ではないと思います。そうではなくて、つまずき、挫折し、自己嫌悪と絶望に打ち沈んでいる弟子たちを、主イエスが初めから赦して、既に受け入れている、愛しているという主イエスの心、神さまの大きな愛の御心を表しているのです。私の愛の中で、神の愛の下で、あなたがたはもう一度、喜びへ、平安へ、希望へと立ち直ることができるのだよ、と主イエスは、人生復活の場所を用意しておいてくださったのです。
 弟子たちは最初、主イエスが「先にガリラヤへ‥」と言われた時、何のことか、さっぱり分からなかったでしょう。あるいは、耳に入っていなかったかも知れません。
 けれども、つまずきませんと息巻いて、結局つまずき挫折して、主イエスを見捨てて逃げ、否定し、自分の情けなさ、信仰の半端さ、力の無さ、弱さを、絶望と共に、嫌と言うほど味わったことでしょう。
 しかし、そうなってからです。主イエスが「先にガリラヤへ行く」と語られた言葉の意味を悟ったのは。その言葉に込められた神の愛に気づいたのは。こんなにも情けない、半端な、弱い自分が、にもかかわらず主イエスに認められている、神に愛されて生きている、と彼らは心底思い、立ち直っていくのです。
 やがて弟子たちは、十字架とは主イエスの敗北、神の挫折ではなく、自分たちの挫折の象徴であることに気づきます。自分の力で従って行ける、つまずかない、知らないとは言わない‥‥、自分の力でやれる、そう信じて生きて来た人生が挫折したしるしであると受け止めるようになります。同時に、主イエスの十字架が、そのような自分たちを赦して生かす“愛の塔(しるし)”であることを、十字架の向こうに、挫折の向こうに、自分の力で生きるのではなく、赦され、愛され、生かされて生きる、新しい人生が開けることを知るようになるのです。そこに、人の“救い”があると。
 私たちは、人生、自分の力で生きていけると、無意識かも知れませんが、そう思って生きているところがあります。けれども、自分の願いに反した、思いがけない出来事に出くわして、私たちは挫折することがあります。自分の力に絶望し、自分の人生が、自分の価値が信じられなくなるのです。けれども、そこで初めて開けて来る心の世界があります。自分で生きているのではなく、生かされて生きている人生、その力と愛に委ねて生きる人生です。
 私も、若かりし頃、自分の力で人生は切り開くものと思っていました。一生懸命でした。けれども、高校を卒業した後、宙ぶらりんになりました。目標が定まらず、何のために生きているのか分からず、大学受験に失敗し、一生懸命になれない、虚しい自分がいました。こんな人間を、神さまは認めてくれない、救ってくれないと、信仰につまずきそうになりました。けれども、その暗闇のトンネルの中で、自分の力で生きなければならない人生から、私をここに、こうして生かしてくださっている方にお委ねして生きよう。それで良いのだ、という心が開けて来ました。今でも、そういう人生の虚しさを感じることがあります。けれども、自分独りの力ですべてを背負い込まなくていい。私を生かしている大きな力と愛に委ねて進もう、と思う。それ以外にないと思うのです。


 主イエスが引用したゼカリヤ書の預言には、後があります。羊飼いが打たれ、散ってしまった羊たちが、人生試練の中で試され、金や銀ように精錬され、やがて「彼こそわたしの民」「主こそわたしの神」と神さまと信頼し合う関係に戻って来る、と預言されているのです。神を信じ、人生を信じる。主イエスは、そんな人生再生の救いを、いつも私たちに示してくださっています。



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