坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年3月1日 受難節レント第1主日礼拝説教「聖書の言葉が実現する」

聖書 マルコによる福音書14章43〜52節
説教者 山岡創牧師

◆裏切られ、逮捕される
14:43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
14:44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。
14:45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
14:46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
14:47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。
14:48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。
14:49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」
14:50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
◆一人の若者、逃げる
14:51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、
14:52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。


      「聖書の言葉が実現する」
「わたしが接吻するのがその人だ」(44節)。
 12弟子の一人であるユダは、一緒に来た人々に、こう言いました。(接吻とはキスをすることです。抱きしめて親愛の情を表すことです)
 もしも前後の文脈を知らなかったら、私たちは、ユダが接吻する「その人」のことを、ユダにとってどんな人だと考えるでしょうか? ユダが愛している人、親しい人、尊敬している人‥‥‥きっと、そんなふうに考えるでしょう。
 けれども、「その人」はユダにとって、そのような相手ではありませんでした。むしろ、まるで反対の相手でした。「捕まえて、逃がさないように連れて行く」(44節)べき相手でした。イスカリオテのユダは、接吻をもって師であるイエスを裏切ったのです。


 「祭司長、律法学者、長老たち」(43節)、彼らユダヤ人の指導者たちと主イエスとは対立していました。主イエスの教えが革新的である余り、従来の彼らの教えや指導にそぐわなかったからです。反感と嫉妬を抱いた祭司長たちは、主イエスを亡き者にしようと企てました。そして、この夜、主イエスを捕えさせるために手下を遣わしたのです。
 それらの人々の手引きをしたのがユダでした。ユダは祭司長たちに主イエスを引き渡す約束をしていたのです。
 主イエスと弟子たちが祈っていたのは、オリーブ山の中腹にあるゲッセマネという開けた場所でした。ユダに手引きされた一団は、足音を忍ばせながら気づかれないように、その場所まで近づき、包囲したことでしょう。とは言え、真夜中です。暗くてよく見えない上に、そこには主イエスだけではなく、ユダを除く11人の弟子たちも一緒にいるのです。暗がりの中で取り違えて主イエスを取り逃がし、森の中に逃げ込まれてしまったら、もはや捕まえることが難しくなるでしょう。そこで、手違いのないように、ユダは「前もって合図を決めて」(44節)いました。それが接吻という挨拶の行為でした。
 ユダヤ人の間では、弟子が師に対して親愛と尊敬を表す挨拶として、接吻がなされました。ギュッと抱きしめて、手や口や頭にキスをするのです。
 人と人が出会えば、当然挨拶をします。だから、ゲッセマネで主イエスを見つけたユダが、その場ですぐに取る行為としては、接吻の挨拶が最も自然だったのでしょう。抱きしめることで、主イエスを逃がさないように捕まえておくという意味もあったと思います。
 ユダが主イエスを抱きしめ、接吻した瞬間、物陰に隠れていた人々がワッと飛び出して来て、主イエスに手をかけ、捕えたのでしょう。しかし、その時、ユダは何を感じていたのでしょうか。


 抱きしめてキスをする。この挨拶の形は、ご存知のように、今も欧米の社会に受け継がれています。
 昨年の8月末、私たちの教会で2年間、教会生活を共にしたA.Sさん、C.Sさん夫妻がカナダに帰国されました。その際、坂戸の駅前から成田空港に直行するバスに乗り込むお二人を、私たちは家族で見送りました。その別れ際、私たちは皆、お互いに抱き合いました。そのように別れの挨拶をするのは、お二人との間では初めてのことでした。日本の社会の中でそのように挨拶することを二人は遠慮していたでしょうし、私たち日本人にはそのような習慣がないからです。でも、抱きしめ合った体から、それまで積み上げて来た信頼と親愛の情が伝わって来ました。
 抱きしめてキスをする。それは、今まで培ってきた、積み上げて来た愛と信頼を確認する行為だったでしょう。それは偽りでできるものではありません。けれども、そのような愛と信頼の行為を、ユダは、裏切りの「合図」に使ったのです。
 しかし、このユダの姿は、私たちの姿、人の罪の姿を訴えかけているような気がしてなりません。
 新約聖書の元々の言葉であるギリシア語では、「接吻する」と訳されているのは“フィレオー”という言葉です。このフィレオーという言葉の本来の意味は“愛する”ということです。そして、人が人を愛する、その愛の行為・挨拶として“接吻する”というもう一つの意味があるのです。
 ですから、ユダはその意味では主イエスを愛しているのです。しかし、愛していながら裏切るのです。愛の行為が裏切りのしるしとなる。愛が裏切りに変わる。それは、ユダだけではなく、私たち人間の弱さ、罪の姿を象徴しているように思えるのです。
 なぜ愛が、全く反対の裏切りに変わるのでしょう? それは、“愛しているから”なのです。愛していない相手を、私たちは裏切ったりはしません。と言うか、愛していなければ、相手を裏切るという行為自体が成立しないのです。元々どうでもいい相手だからです。愛があるから裏切ったと、裏切られたと感じるのです。
 妙な言い方ですが、裏切りの前提は“愛”なのです。そして、愛がなぜ裏切りに変わるのかと言えば、それは私たち人間の愛がもろいからです。もう少し丁寧に言えば、私たちの愛は自分中心の愛だからです。自分中心に考えて、自分に都合の良い時や快い時には、相手を愛することができるし、また相手の愛を感じることもできるのです。けれども、自分にとって不都合な時、不快な時、愛せなくなるのです。愛を感じなくなるのです。
 ユダがまさにそうでした。ユダは、“この人なら‥”と主イエスを信頼して弟子となったのでしょう。宣教の旅を共にする中で、尊敬と親愛の情を深めて行ったことでしょう。とは言え、主イエスとのズレを感じることが全くなかったわけではなかったと思われます。けれども、主イエスとの関係がうまく行っている時には、大して問題ではなかったでしょう。
 ところが、主イエスに対するユダヤ人指導者たちの殺意が明らかになって来た。その緊張と不安の中で、一つの事件が起きました。祭りの食事の席で、一人の女性が、主イエスに対する心からの感謝と愛情を込めて、高価な香油を主イエスの頭に注ぎかけた。それを見たユダは、もったいないと、それを売って貧しい人々に施すことができたと、その女性を非難しました。当然、主イエスも自分と同じ気持だろうと思っていたら、主イエスは彼女をかばい、逆に自分をたしなめるようなことを言う。その時、主イエスに対する愛と信頼がプツンッと切れてしまったのでしょう。
 もしユダに、自分に責められた彼女の気持を、また主イエスの心と立場を思いやる余裕があったなら、全く違っていたと思うのです。しかし、この時、ユダには、主イエスが自分の味方ではないことと、その主イエスにたしなめられた自分の痛み、悔しさしか考えることができなかったようです。そのためにユダは、主イエスの愛を感じ取ることができなくなってしまったのでしょう。その時、ユダの心の中で裏切りのトリガー (引き金)が引かれていたのです。


 自分中心故の愛のもろさ、それが私たち自身の姿でもあるのではないでしょうか。そして、そのような自分中心な人の姿は、ユダの裏切りだけではなく、この主イエスの逮捕の場面に登場するすべての人の姿となって現れています。
 まず主イエスを捕えに来た人々です。主イエスは彼らにこう言われました。
「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕えに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕えなかった」(49節)
 つまり、彼らは、彼らの背後にいる「祭司長、律法学者、長老たち」は、神殿では主イエスを捕えることができなかったのです。それは、主イエスの教えに人々が打たれていたからです(11章18節)。人々が、主イエスの教えこそ神の言葉だと支持していたからです。しかし、彼らはそれを認めたくない。自分の立場がなくなるからです。そこで、主イエスを排除するために、亡き者にするために、人が見ていないところで、暴力的な手段に訴えて、主イエスを捕えたのです。自分を押し通すために、力ずくで相手を退ける。愛のない、自己中心な人の姿でしょう。
 そして、もう一つは主イエスを見捨てて逃げて行った弟子たちです。直前の食事の席で、死んでも従って行くと言い張った弟子たちです。しかし、その舌の根も乾かぬうちに、我が身を守るために主イエスを見捨てて逃げました。我が身を守るために、人を見捨て、切り捨てる。それもまた自分中心な愛のもろさを露呈した人の姿でしょう。


 そのように、自分中心な愛のもろさ、罪深さがあらわにされる中で、その場にそぐわない言葉が一つあることに気がつきます。
「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」(49節)。
 福音書において、聖書の言葉が実現したと記される時はしばしば、旧約聖書の具体的な言葉が引用されます。けれども、ここにはそのような引用はありません。ですから、ここで言われている「聖書の言葉」とは、(旧約)聖書によって示されている“神の御心”を言っているものと思われます。直前の〈ゲッセマネで祈る〉場面において、主イエスが「御心に適うことが行われますように」(36節)と祈っているのと同じ意味です。
 それでは、何が「聖書の言葉」、神の御心として実現したと言うのでしょうか。ユダの裏切りでしょうか。祭司長たちの暴力的な逮捕でしょうか。弟子たちの逃亡でしょうか。そういった姿に象徴される、人間の愛のもろさ、自己中心さがあらわになることが、「聖書の言葉」、神の御心の実現なのでしょうか。
 それもあるでしょう。けれども、人の罪の姿があらわにされることは、究極的な意味で「聖書の言葉」、神の御心が実現するための途中経過に過ぎないと思います。「聖書の言葉が実現する」というのは、そのように自己中心で、もろい人間、私たちを救う神の究極の愛がこの世に表わされるということなのです。
 先ほど、「接吻する」という言葉の元々の言葉、フィレオーについてお話ししました。これは、“人間”がだれかを、何かを愛する時に使う言葉です。そして、ギリシア語には、これとは別の“愛する”という言葉があります。アガパオーという言葉です。これは、“神”がだれかを、何かを愛する時に使われる言葉です。そして、人が神のようにだれかを愛する時にも使われる言葉です。
 神の愛とはどのような愛でしょうか。自分中心の愛ではありません。自分中心であるために、相手を裏切ったり、憎んだりする愛ではありません。自分中心を捨てた愛、相手を思いやる愛、相手のために命を捨てる愛です。
 この神の愛こそが人を救う。この愛に包まれる時、人は癒され、安心できるのです。
主イエスは裏切られ、暴力を振るわれ、見捨てられても、それらの相手を憎まず、すべての人を抱きしめて十字架へと歩まれます。これが神の愛だと伝えるがために。
 この愛が私たちの間で実現することこそ、「聖書の言葉」、神の御心です。この愛と出会う時、私たちは、愛とは何かを知る。そして、自己中心で、愛のもろい私たちが赦され、愛されていることを知るのです。そこから、たどたどしくとも愛する道を歩み始めるのです。


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