坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年3月22日  受難節レント第4主日礼拝説教「キリストを裁く陪審員」

聖書 マルコによる福音書15章1〜15節
説教者 山岡創牧師

◆ピラトから尋問される
15:1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
15:2 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
15:3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。
15:4 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
15:5 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
◆死刑の判決を受ける
15:6 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。
15:7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。
15:8 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。
15:9 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。
15:10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
15:11 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。
15:12 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。
15:13 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」
15:14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
15:15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。


        「キリストを裁く陪審員」
 真夜中に開かれた異例の最高法院において、主イエスは「死刑にすべきだ」(14章64節)と決議されました。証拠は不十分でした。証人たちの証言は食い違っていたと、「偽証」だったとさえ記されています。にもかかわらず、大祭司の「お前はほむべき方の子、メシアなのか」(61節)との尋問に対して、それまで沈黙していた主イエスが「そうです」(62節)とお答えになった、その一言で、彼らは主イエスを神に対する冒瀆罪で死刑と決定したのです。
 けれども、ユダヤ人の最高法院は、死刑を決定することはできても、死刑を執行する権利がありませんでした。なぜなら、当時ユダヤ人はローマ帝国の支配下に置かれており、ローマはユダヤ人の自治権をある程度認めていましたが、徴税権と死刑執行権だけは許していなかったからです。そのため、死刑を執行するためには、もう1度ローマ帝国の裁判を受けさせる必要がありました。それで、彼らは「夜が明けるとすぐ」(1節)、主イエスを、ローマのユダヤ総督である「ピラト」(1節)に引き渡したのです。
 ピラトが、「お前がユダヤ人の王なのか」(2節)と尋問しているところを見ると、祭司長たちは主イエスのことを「ユダヤ人の王」としてピラトに訴えたのでしょう。それはつまり、神さまに対する冒瀆罪ではなく、ローマ帝国に対する反乱罪として主イエスを訴えたということです。
 当時のユダヤ人はローマ帝国に対する屈辱に燃え、ユダヤ人の王国を復興させる英雄を待ち望んでいました。それがすなわち「ユダヤ人の王」です。しかし、ローマ帝国側からすれば、それは危険極まりない反乱者、革命家に当たるわけです。
 ピラトにしてみれば、神を冒涜したの、しないのといったユダヤ人の宗教上の問題など、どうでも良いのです。問題は、支配されているユダヤ人がローマ帝国に対する反乱や革命を起こした場合です。そして、ローマ帝国の法から見れば、反乱罪は重罪で、死刑に定められました。祭司長たちはそのことを知っていたので、主イエスが「ほむべき方の子、メシア」だと肯定したことを、「ユダヤ人の王」というローマ帝国に対する反乱者にすり替えて、訴えたのです。
 けれども、祭司長たちの訴えに、主イエスは何もお答えになりませんでした。そうした空気に、ピラトは「不思議」(5節)を感じました。つまり、“何かが違う”と冤罪の匂いを嗅ぎ取ったのではないかと思われます。


 ピラトが感じ取ったもの、それは祭司長たちの「ねたみ」(10節)でした。「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである」(10節)と記されています。
 祭司長たちは、主イエスの人気をねたみました。ガリラヤ地方で宣教していた時から、主イエスの周りには、その評判を聞いて、常に多くの人々が押し寄せて来ました。彼らは主イエスの癒しに惹かれ、また主イエスの教えに“神の権威”を認めていました。そして、エルサレムの群衆もまた、主イエスの教えに心を打たれたのです。彼らは、主イエスのことを、待ち望んでいたメシア、救い主ではないかと感じたでしょう。
 そのように群衆が主イエスを認めているために、祭司長たちは、神殿で大暴れした主イエスを逮捕することができなかったのです。主イエスは祭司長たちが管理指導していた神殿の礼拝を「強盗の巣」(11章17節)だと非難して、境内で商売をしていた証人たちを追い出し、商売机をひっくり返して回り、大暴れしました。それは、祭司長たちの宗教指導、やり方、権威への挑戦でした。けれども、群衆が主イエスを認め、支持していたので、主イエスに手を出すことができなかった。彼らにしてみれば屈辱だったに違いありません。面子(メンツ)丸つぶれです。
 群衆が、自分たちよりも主イエスを、ユダヤ人の指導者として認めている。支持している。その人気を、祭司長たちはねたんだのです。そのねたみが、主イエスを殺す大きな要因になりました。彼らは決してねたみのためだとは認めないでしょう。自分たちは、神の掟に違反し、神を冒涜する者を、正しく裁いているだけだと言うでしょう。けれども、人が人に悪意を抱き、攻撃する時には、得てして感情的な理由が引き金になるものです。第3者であるピラトは、それを鋭く見抜いたのです。
 「ねたみ」というのは、厄介な、持て余す心の動きです。自分よりも優れている相手、自分よりも持っている相手に対するうらやみと、その相手がいなければ、と消してしまいたくなるような気持。そういうねたみの心は、一度心に湧き上がったら、なかなか消すことができない。心の中でくすぶり続ける。ともすれば、相手のことも、自分のことも焼き尽くすような炎になることさえあります。
 木曜日の聖書の祈りの会で、サムエル記上を読み続けて来ました。その中で、イスラエルのサウル王が、部下であるダビデの実力と人気をねたみ、気が狂うほどになり、ついにはダビデを殺そうと決意して、執拗に追いかけ回すという内容を学びました。ねたみとは高じれば、そのように殺意にさえなるのです。
 それほどでなくとも、私たちもまた、ねたみを感じたことがあるはずです。私自身は、最も強く記憶に焼き付いているのは、青年だった頃、初雁教会で教会学校のスタッフをしていた時の体験でした。子供の人気が自分から離れ、別の青年スタッフに移ると、言いようもないねたみを感じるのです。それが好ましくない感情だと分かっていながら、どうしても消せないのです。もちろん、それを表には出さないよう心がけました。
 ねたみは、なかなか消えず、ともすれば人間関係を破壊します。けれども、一つだけ消す方法(生き方)があります。ねたみは、人と自分を比べるところから来ます。だから、比べることから離れることができれば、自分は神さまに愛され、生かされているオンリー・ワン(の人間)だ。そう心から信じることができれば、ねたみは消え去ります。私のような凡人には難しいことですが、それでも少しでもこの信仰があれば、ねたみを自分の胸の内にしまってコントロールすることができます。神さま、お助けください、神さま、お赦しください、と祈りながら、いつか消える時を待つことができます。


 祭司長たちの「ねたみ」を見抜いたピラトは、主イエスを釈放しようと動きました。ちょうど、その時はユダヤ人最大の民族祭である過ぎ越しの祭りの最中でした。ピラトは、「祭りの度ごとに、‥‥人々が願い出る囚人を一人釈放し」(6節)て、ユダヤ人の人気を取っていたようです。その特赦の対象として、ピラトは群衆に、主イエスはどうか、と持ちかけたのです。
 けれども、祭司長たちが何と言って言いくるめたのかは分かりませんが、「暴動のとき人殺しをして投獄されていた」「バラバ」(7節)という男の釈放を要求するように群衆を扇動しました。おそらく、ローマ帝国に対する反乱・暴動の際に、リーダーとして活動し、ローマ兵を殺した政治犯の男であったと思われます。
 群衆がバラバの釈放を求めたため、ピラトは改めて、主イエスをどうしてほしいのかと問いかけました。ピラトには、群衆が望めば、特別にもう一人、主イエスを釈放しようという考えがあったのかも知れません。
 けれども、群衆は叫びました。「十字架につけろ」(13節)。ピラトが、「いったいどんな悪事を働いたというのか」(14節)と、主イエスを弁護するかのような発言をすると、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」(14節)と叫び立てたと言います。いわゆる群衆心理も働いたでしょうが、こう叫んだのは数日前に主イエスの教えに感動した人々だったのでしょうか。その激しい叫びに、ピラトはついに折れて、主イエスに十字架刑の判決を下したのです。
 「十字架につけろ」。どうして、こうも簡単に、人を死刑にすることを求めることができるのでしょうか。彼らには良心の痛みはないのだろうか。空恐ろしい気がします。言わば、この裁判は、群衆が陪審員となって、主イエスに死刑の判決を下したのだと言っても良いでしょう。けれども、決して主体性のある、責任感のある陪審員たちだとは思われないのです。
 いよいよ日本でも裁判員制度が始まります。一つの刑事事件につき、一般市民の中から6名の裁判員が選ばれて、3名の裁判官と共に、事実認定の作業から有罪無罪の判断、更にどの程度の刑罰を与えるかまで審議することになります。
 私は、裁判員は素人なのだから、軽犯罪の裁判に関わるのだとばかり思っていました。ところが、そうではない。関わるのは殺人罪や、その他重い罪に当たる刑事事件だけだということです。場合によったら死刑判決を下すことになるかも知れない。非常に重い責任です。
 そういう意味で、私は、自分が裁判員に選ばれることを恐れています。選ばれたら、裁判員を担うことが困難であると認められる正当な理由がない限り、辞退することはできません。そして、最近の刑事事件では、その残虐性などの理由で、死刑判決を下すケースが増えているように思います。もしも自分が関わった裁判で、被告に死刑判決を下すことになったら、それがどんな犯罪、どんな犯人であれ、後々まで心に重いしこりが残るような気がします。
 主イエスの裁判の席に居合わせた群衆は、どうして、いとも簡単に、主イエスを「十字架につけろ」と言うことができたのでしょうか。それは、群衆という匿名で、主体性や責任感のない立場に立っていたからではないかと思うのです。
 “ブログ炎上”という言葉をご存知でしょうか。インターネット上に個人が出している日記のようなホームページに対して非難や中傷の書き込みが殺到する現象を言います。
 先日、ある芸能人のブログが炎上したことが報じられていました。だれかが、その芸人のことを、ある殺人事件の犯人だと根も葉もない中傷を書き込みました。そうしたら、その書き込みを見て、“人殺しが、何で芸人やってるんだ”“死ね、犯人のくせに”といった数多くの誹謗・中傷の書き込みが殺到したそうです。その芸能人の方はひどく傷つき、心に深い痛みを負ったでしょう。訴えが出て、1人が脅迫罪で、18人が名誉棄損罪で書類送検されることになったということです。
 皆同じように、“犯罪になるとは思わなかった”と言っているということです。そこにあるものは、インターネット上ということで、顔が見えないから、顔を見せずに済むから、だれが書きこんでいるのか分からずに済むから、言いたいことが言えるという無責任さではないかと思います。無責任な、匿名の群衆の一人になってしまっている。そのために、自分の言動がどんなに相手を傷つけているかに気づかない。そして、同じような事がインターネット上では数えきれないほど起こっています。
 相手を愛して、愛によって関わろうとしない無責任さは、相手を深く傷つけます。たとえその人の命を殺さなくとも、その心を殺します。主イエスを十字架に架けたのも、それです。


 ねたみと無責任。その二つが主イエスを十字架に架けました。その同じ罪が、私たちの内にないとは言えません。2千年前に主イエスを十字架につけてはいなくとも、現代において、今、別のだれかを傷つけているかも知れない。そういう形で、私たちは主イエスを十字架につけているかも知れません。その罪を、私たちの罪を背負って、黙々と十字架へと歩まれる主イエスを思い、自分の内側を丁寧に見つめ、悔い改め、主イエスの赦しを祈りながら歩ませていただきましょう。


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