坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年4月19日 主日礼拝「担がせられた十字架」

聖書 マルコによる福音書15章21〜32節
説教者 山岡創牧師

◆十字架につけられる
15:21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
15:22 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。
15:23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
15:24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。
15:25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
15:26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
15:27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。

15:29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、
15:30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」
15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。
15:32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。


        「担がせられた十字架」
 救いとは何か? 救われるとはどういうことか? 今日の聖書箇所は、私たちの信仰にとって最も重要な問題を考えさせられるところです。
 皆さんが、救いとは何かと問われたら、例えば、聖書を読んだことも、教会に行ったこともないような人から“キリスト教の救いとはどういうものですか?”と聞かれたら、どのようにお答えになるでしょうか。この答えをはっきりと答えられるぐらい、救いとはこれだ、と確信していることが大切です。
いや、そうは言っても、私たちは信仰に迷ったり、後戻りしたりします。分かっているようで、人生の経験や実感が伴わず、まだまだ、ということもあります。信仰は付け焼刃では、力が出ません。救いを確信し、自分の心の中で深めて、モノにしていくためには、それだけの信仰生活の積み重ねが必要でありましょう。いわゆる“修業”です。そのように、私たちは、すぐに分からなくても、今はっきりと答えられなくても、救いの確信を求めて一歩一歩、信仰の道を進んでいる。その思いだけは、自分の胸の中にしっかりと持っていていただきたいと思います。
 今日の聖書箇所に、人々の次のようなことがありました。
「‥‥十字架から降りて自分を救ってみろ」(30節)。
また、主イエスを十字架に架けた祭司長や律法学者たちも、
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(31節)。
 どちらにも“救う”という言葉が出て来ました。そして、どちらにも「十字架から降りる」という言葉が出て来ました。ここに登場している人々は、主イエスが「十字架から降りる」ことが救いだと考えているようです。つまり、本人にとって、苦しみや災いから逃れることが、苦しみや災いの現実が取り除かれ、解決すること、苦しみや災いが“無い”状態が救いだと考えているのです。
 祭司長や律法学者をはじめとする当時のユダヤ人は、神さまを信じて正しく生きる人には、現実的な神の祝福が与えられると信じていました。神の祝福とは、日本流に言えば、家内安全、商売繁盛、無病息災といったことです。そして、そういう神の祝福の現実をいただいて、幸せに生きられることが“救い”だと信じていました。病気にかかったり、商売に失敗して財産を失ったり、家庭内にトラブルや危険があったら、そこには救いがない、神の祝福がない、ということなのです。そして、救いがない人、神の祝福がない人は罪人なのだ、罪人だから神さまが祝福をくださらないのだと受け取っていました。逆に言えば、病気が治ったり、失敗を取り戻したり、苦しみが解決したりすれば、罪が消え、救われた、祝福されたということになるのでしょう。
 けれども、果たしてそれは、本当に“救い”なのでしょうか。確かに、病気にかからず健康だったり、仕事がうまくいって儲かったり、家庭内にトラブルがなく仲良く過ごせたり、そんなふうに人生が思うようにうまく行くに越したことはありません。だれしも、そういう人生を願うことでしょう。
 けれども、現実には、なかなか人生はそううまくは行かない。旧約聖書に出て来るヨブではありませんが、倒産やリストラで職を失ったり、仕事に失敗して財産をなくしたり、家庭内に亀裂が生じたり、愛する家族を失ったり、思いがけない病気に苦しむことになったりするのです。そういう時に、私たちは救いを求めるのです。また成功するように、家庭が平和になるように、病気が治るようにと願って、神さまに救いを求めるのです。それは、だれもが人情として願い求めるところでしょう。
 その願いが叶えられたら、私たちは心から“救われた”と感じるのです。けれども、やはりそう簡単には願い求めたようにはならない。そして人生の現実がそうであるならば、そこには“救い”はない、ということなのでしょうか。
 そうではないのです。私たちが救いだと思っているものは、私たちの願望、私たちが願い求める救いではあっても、神さまが与える救い、主イエスが指し示す救いではないのです。つまり、私たちの人生には、私たちが願い求めているような救いはないかも知れませんが、私たちには見えていない別の救いがあるのです。
 言葉を変えて言えば、人生の価値観は一つではない、人生を生きる道は一つではない、別の価値観がある、違う生き方があるということです。私たちは、“人生、幸せなのが一番!”という幸せ至上主義の価値観にならされていて、そうでなければダメな人生、そういう幸せを失ったら生きる価値のない人生であるかのように考えているところがありますが、そうではないのです。十字架に架けられるような人生、十字架から降りられないような人生では、生きている意味がないと悲観するかも知れませんが、そうではないのです。
少なくとも主イエスはそうは考えておられませんでした。もちろん、主イエスにも、この十字架の苦しみを取り除いてくださいと、神さまに願い求めるお気持はあったのです。けれども、そういう気持を越えて、ゲッセマネの園で祈られたように、「しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)という思いが、主イエスの内には強くありました。
 神さまの御心とは、主イエスを通して、まさに祭司長や律法学者たちの言葉(31節)にあったように、主イエス以外の「他人を救う」ことでした。マルコ福音書を少し戻りますと、10章45節に次のような主イエスの言葉があります。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。
 主イエスは神の御心を、言い換えればご自分の使命を、そのように受け止めておられたのです。人の心は罪に支配され、罪の人質になっている。その人質状態から多くの人を解放するために、自分の命を身代金として献げる。それが、十字架にお架かりになる主イエスの心でした。
 罪に支配され、その人質となっている人の姿は祭司長や律法学者たちにも見出すことができます。彼らの言葉に、「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」とありました。それを聞いて、私はふと思うのです。では、本当に主イエスが十字架から降りたら、彼らは信じるのだろうか? 主イエスのことを救い主だと、主イエスによる救いを信じるのだろうか? 決して彼らは信じないだろうなあ、と思うのです。十字架から降りて来た主イエスを前にして、恐れて逃げ出すか、それとも別の難癖をつけるのか、いずれにしても信じないだろうと思うのです。それぐらい、人間は身勝手だ、自己中心に生きている、ということだと思うのです。
救いということに対しても、そうです。自分に都合の良い救いを思い描いている。そうでない救いは受け入れない。そうでない人生は否定する。そういう気持になってもおかしくはありませんが、それは人生に対する、命に対する自己本位な態度ではないでしょうか。
そういう自己中心の罪を、私たちもまた心の中に抱えているのではないでしょうか。そういう心の奥深くにある罪の身代わりとなって私たちを赦すために、主イエスは十字架に架かられた。別の言い方をすれば、私たちがそういう自分の生き方のズレに気がついて、人生の方向転換をできるようになるために、主イエスは十字架にお架かりなったと言って良いでしょう。


 いずれにせよ主イエスは、ご自分の十字架の人生を、神さまの御心として“これで良し”と肯定し、受け入れておられました。自分の人生に注がれている神の愛を信じて疑いませんでした。
 この主イエスの信仰から教えられることは、自分の人生を“これで良し”と肯定し、受け入れるなら、そこには“救い”がある、ということです。健康で、仕事も順調、財産もあって、家庭も平穏だから救いがある。そうでないから救いがない、のではないのです。たとえ、病を患い、仕事や財産を失い、家庭にトラブルを抱えていても、自分が願うように人生がいかなくても、“これが私の人生。神さまが私をここに置かれたのだ。ここにもちゃんと神さまの愛があり、神さまが与えてくださる大切な意味がある。だから、これで良し”と、自分の人生を肯定し、受け入れられることが、“救い”なのです。主イエスの指し示す救い、信仰による救いなのです。
 カトリックの司祭で、井上洋治先生という方が、『人はなぜ生きるか』という著書の中で、こんな一言を書いておられます(9頁)。
   私たちは、健康にしろ財産にしろ友情にしろ家庭にしろ、たくさんそういう大切なものを持って、またそういった大切なものに支えられて生きているわけですけれども、いざそういうものを失ってしまったときに、価値ある大切なものを失って色あせてしまったときに、その色あせ挫折してしまった自分を受け入れることができる心というもの、それが考えてみれば人生で一番大切なことではないかと思ったのです。
 そういう心を養い育てていく。それが信仰の道であり、神さまを信じて自分の人生を“これで良し”と肯定し、受け入れられるところに、救いがあるのです。
 だから、私たちは、自分の願うようには行かない人生を、不都合ではありましょうが、恐れる必要はない。色あせた、価値のない人生と否定することはない。それは、自分の願いとは違って負わされた人生、まさにキレネ人シモンのように、無理に担がせられた十字架かも知れませんが、私たちは、そういう人生にも救いがあることを知っているのです。そういう人生でなければ、味わい得なかったものがある。気づくことのできなかった人生の深さ、優しさがある。その値打ちを、神さまを信じて生きる中で、きっと発見することができるのです。キレネ人シモンも、そういう救いを見つけたから、自分の人生を“これで良し”と肯定し、受け入れる信仰の人になったから、今日の聖書の箇所に、その名が刻まれているのに違いありません。
 ああしてください、こうしてください、と願い求める“請求書の信仰”から、神さまがくださったのだから、これで良し。確かに受け取りましたと受け入れる“領収証の信仰”への転換(渡辺和子著『愛することは許されること』112頁)、生き方の方向転換、主イエスはその道に、私たちを招いておられます。


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