坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年5月10日 主日礼拝「“信じなかった”からの出発」

聖書 マルコによる福音書16章9〜13節
説教者 山岡創牧師

◆マグダラのマリアに現れる
16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。
16:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
◆二人の弟子に現れる
16:12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。
16:13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。


        「“信じなかった”からの出発」
 マルコによる福音書16章は、主イエス・キリストの復活を書き記した章です。教会の暦の関係で、読む順番が少し前後しましたけれども、先日4月12日の復活祭イースター礼拝において、16章1〜8節を読みました。そこには、主イエスのお体を納めた墓が空であったこと、白い長い衣を着た若者、おそらく天使なのでしょうが、その若者が「(主イエスは)復活なさって、ここにはおられない」(6節)と告げたこと、そして3人の婦人が恐ろしくなって逃げ出したことが記されていました。
 実は、この段階ではまだ、復活した主イエスはだれにも会ってはいない、御自身を現されてはいないのです。では、復活した主イエスは一番最初に、だれにお会いになったのか。それは、9節にあるとおり「マグダラのマリア」でした。

 マグダラのマリアは、8節に記されているように、一度は恐ろしくなって逃げ出してしまった婦人の一人でした。その後、マリアはどこで、復活した主イエスとお目にかかったのでしょうか。
 9節以下には詳しいことは書かれていませんが、実は聖書の別の箇所に、やはりマグダラのマリアが、復活した主イエスと最初に出会った人物として描かれているところがあります。それは、ヨハネによる福音書20章11節以下です。
 そこには、マリアが墓の前で、復活した主イエスと出会ったことが記されています。恐ろしくなって逃げ出したマリアでしたが、気を取り直して、もう一度、墓に戻って来たということでしょうか。そしてそこで、最初は園丁だと思っていた人物に、背後から「マリア」と呼びかけられて、それが復活した主イエスだと気づいたということです。
 それにしても、なぜ一番最初にマグダラのマリアが、復活した主イエスとお目にかかることができたのでしょうか。なぜ主イエスは一番最初に、御自身をマリアに現されたのでしょうか。ペトロとか、ヨハネとか、弟子たちの筆頭格の人に、復活した御自身を現せば良かったのではないか。最初に、11人の弟子のところへ行けば良かったではないか。そう思うのです。
 けれども、最初にお会いになったのはマリアであり、その次の「二人」(12節)というのも、どうやら11人の弟子ではないようです。なぜか主イエスは中心的な人たちよりも、周辺的な人たちに先にお会いになっている。だから話がややこしくなる。最初にペトロや11弟子に会って、復活した御自身を現しておけば、伝わりが早かったかも知れない。「信じなかった」なんてことも起こらなかったかも知れない。それなのに、順序を逆にして、先にマリアとかに会うから、話がややこしくなる。イエスさまも意地が悪いなあ‥‥‥そんなふうに思ったりもするのです。
 けれども、そこがまた信仰の世界のおもしろい、不思議なところです。私たちの周りも、ある意味で同じではないでしょうか。“この人はクリスチャンではないの? どうしてこの人は信仰を持たないのだろう?”と、クリスチャンであっても不思議ではないような人が、信仰を持っていないことがしばしばあります。反対に、そんなことを言ってはどうかと思いますが、信仰を持っているとは思えないような人が、信仰を持ったクリスチャンであったりします。“デモクリ”なんて言葉がありますけれども、“あなた、それでもクリスチャン!?”と思われるような人が、信仰を持っていたりするのです。否、私たち自身が、家族や周りの人たちから、そう思われているかも知れません。
 けれども、神さまのお働き、主イエスとの出会いは、まことに不思議なことです。極端に言えば、“この人こそ!”と思う人とは主イエスは出会わず、“こんな人が!”と思うような人と主イエスは出会われる。私たちの人間的な常識や価値観では計り切れない不思議な出来事なのです。しかし、だからこそ、救われるということは、私たち人間が自分の力で生み出すものではなく、神さまの恵み、神さまからの贈り物でると言うことができるでしょう。


 けれども、復活した主イエスが一番最初にマグダラのマリアにお会いになったことは、単なる偶然だとか、神さまの気まぐれだとは思えないのです。出会うべくして出会った。
そういう理由もあるように思うのです。
 9節に、「このマリアは、以前に七つの悪霊を追い出していただいた婦人である」と記されています。どれだけ悪霊に取りつかれているんだ!と言うほどに、マグダラのマリアとは悪霊に取りつかれている女性だったのです。
とは言ってもオカルト的な意味ではありません。当時、病気や障害、あるいは苦しみや不幸な出来事は、その人に取りついている悪霊が引き起こすものだと考えられていました。だから、マリアが七つの悪霊に取りつかれていたということは、彼女がどれほど多くの苦しみや不幸、病を背負っていたか、背負わされていたか、ということを示しているのです。マリアは元々遊女だったという説もあります。遊女にならざるを得ないような境遇に生まれ育ったのかも知れません。それも彼女の不幸、苦しみの一つだったでしょう。
それほどの悪霊を、それほどの苦しみと不幸を背負っていたのですから、マリアはだれよりも苦しみ悩んでいたに違いありません。そして、だれよりも救いを求めていたに違いありません。
そのマリアが、主イエスと出会った。そして、生前の主イエスに七つの悪霊を追い出していただいたのです。数えきれないほどの苦しみと悲しみを取り除いていただいたのです。だからこそ、彼女は主イエスを信じて、従って行きました。
だから、主イエスが十字架に架けられて殺された後も、主イエスを求める気持、救いを求める願いは、だれよりも強く、深かったのではないでしょうか。その思いが、復活した主イエスに一番最初に出会わせた。そう言っても良いと思います。
人は自分の力に行き詰まった時、絶望して人生にうずくまり、諦めるか、何かに怒りをぶつけるか‥‥‥それとも、真剣に救いを神に求めるようになるのではないでしょうか。それ以外に、生きる道がないからです。そして、生きることへのこの真剣さが、やがていつか命の新しい世界に、生きるということの新しい次元、深さに出会わせてくれることがあるのです。それはすなわち、“神の恵みの中に生かされて在る自分”であることを悟り、そういう自分を神さまの御手に“よろしくお願いします”と委ねて生きる、そういう新しい命の世界です。生かしてくださる神さまの御手に、信じて自分を委ねるからこそ、自分の死もまた委ねることができる。復活の命と天の御国を望むことができるのです。それが、復活した主イエスと出会うということ、“復活”と出会うということではないでしょうか。


 けれども、復活した主イエスと出会うということ、復活を信じるということは、そう簡単にできることではありません。私たちの常識では考えられないこと、私たちの価値観では計り切れないことだからです。
 それでは、当時の人々は、主イエスの復活を簡単に信じることができたのでしょうか。実は、そうではないのです。当時の人々も信じることができなかった。いや、主イエスの最も身近にいたペトロら11人の弟子たちでさえも、信じることができなかったのです。今日の聖書箇所で、「信じなかった」(11、13節)と2回繰り返されています。ここでマルコが最も強調しているのは、主イエスの復活を弟子たちが「信じなかった」という不信仰なのです。
 なぜ信じなかったのでしょう。当時の人々にとっても、復活という出来事が常識外れだったということでしょう。けれども、それだけではありません。今日の聖書箇所の直後、14節に「イエスが現われ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」とあります。つまり、主イエスの復活を信じないのは、心がかたくなだから、なのです。マグダラのマリアが「イエスが生きておられること」(11節)を伝えても、二人の弟子が、復活した主イエスに出会ったことを知らせても、11人の弟子たちが信じないのは、心がかたくなだからです。凝り固まっているからです。彼らの言うことなど信じられるか、と思っているのです。いや、これが自分たちよりも偉い、信用できる、尊敬できる人物の言葉だったら、彼らは受け入れたのかも知れません。けれども、主イエスの弟子としては、自分たちよりも下っ端だと思っている人々の言葉です。こんな下っ端たちのところに、主イエスは自分たちよりも先に現れた。彼らの方が先に出会った。それが腹立たしいのです。妙にプライドに障(さわ)るのです。彼らの言葉など、素直に受け入れられるかと意地になるのです。こだわるのです。そういうかたくなさが、私たちの中にもきっとあるのです。同じことを言われても、それを言った相手によって、素直に受け入れられる時と、意地にも受け入れない時があります。
 また、マグダラのマリアが主イエスの復活を告げたのは、「泣き悲しんでいる」(10節)人々でした。悲しみは、時に人の心をかたくなにすることがあります。私の悲しみは誰にも分りはしないと、人の慰めや優しさをシャットアウトしてしまうことがあるのです。
 いずれにしても、何かにこだわるかたくなな心が、主イエスの復活を知らせる言葉を受け入れさせない、「信じなかった」という不信仰に陥らせることがしばしばあるのです。


 弟子たちは不信仰でした。そして、私たちにも不信仰なところがあります。
 けれども、私たちにとって、大きな望みであり、慰めでもあることは、彼ら「信じなかった」11人の弟子たちが、信じるようになったということです。かたくなな心を打ち砕かれて、復活を証しする御言葉を信じて、信じる者として立ちあがって行くことです。彼らだけではなく、マグダラのマリアもまた、最初は恐れて信じなかったのが、主イエスの復活を信じる者へと変えられたのです。信仰とは、「信じなかった」という不信仰の事実から始まるのです。「信じなかった」。結構! それでいい。皆、そこから始めるのです。
 主イエスの恵みを、復活を証しし、告げ知らせる言葉を何度も聞く。それでも、信じられない。けれども、求めるならば、求め続けているならば、いつかハッと転機が来ます。かたくなな自分に気づきます。信じたいと願い、信じようと自分に言い聞かせ、努力するようになります。そして、やがて委ねられる時が来る。信仰の心が分かる時が来る。その時、私たちは、復活した主イエスと出会っているのです。新しい命の世界を生き始めているのです。


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