坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年8月2日 主日礼拝「キリストに結ばれて歩みなさい」

聖書 コロサイの信徒への手紙2章6〜15節
説教者 山岡創牧師

◆キリストに結ばれた生活
2:6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
2:7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
2:8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。
2:9 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、
2:10 あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。
2:11 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、
2:12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
2:13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、
2:14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
2:15 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。


         「キリストに結ばれて歩みなさい」
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」(6節)。
エパフラスの伝道によって生まれたコロサイの教会の信徒たちに、パウロは改めて念を押「すかのように、こう語りかけました。ここには、2つの行為が示されています。一つは、主イエス・キリストを“受け入れる”ということ、そしてもう一つは、キリストに“結ばれて歩む”ということです。それは、今までキリスト教信仰を受け入れていなかった人が、受け入れて入信することであり、そして入信した人のその後の生き方を語っています。
何気なく書いているようですが、やはりパウロは言葉を選んで語りかけていると感じます。と言うのは、ただ単に主キリスト・イエスを“信じた”とは言わず、“受け入れた”と言っているからです。
“受け入れる”という言葉は、今までの自分にはなかった、異質なものを取り込む、というようなニュアンスがあります。だから、受け入れるという行為には、抵抗感やストレスが伴うのです。そういった抵抗感を感じつつ、ストレスを知りつつ、受け入れるには、ある種の決意、覚悟が必要だと思うのです。
入信したコロサイの信徒たちも、そうであったに違いありません。今まで自分たちが従って来た考え方や価値観、慣習や生活の仕方がありました。それらは、今日の聖書箇所では、「哲学」(8節)と、「人間の言い伝えに過ぎない哲学」と言われています。ここで言われている「哲学」というのは、私たちが思い浮かべるものよりも、もっと広い意味で使われています。考え方と生き方、そう言ってもいいものです。
コロサイの信徒たちが、今までそうしてきた考え方と生き方の中に、新たに「主キリスト・イエス」が、主キリスト・イエスを信じる「信仰」(7節)による考え方と生き方が入り込んで来るのです。そして、その信仰が、今までの考え方や生き方と共存するのではなく、今までの考え方や生き方とは入れ替わり、その信仰に「根を下ろして」(7節)生きるべき“人生の土台”となるのです。一言で言えば、今までの人生とは大きく転換した、全く新しい人生に変わるのです。
具体的なことで言えば、例えば、今までは日曜日は、自分のしたいように趣味やレジャー、家族サービス、あるいはゆっくりした休養に使っていた。ところが、主キリスト・イエスを受け入れたなら、日曜日は、主キリスト・イエスに招かれ、教会に集い、礼拝において主にまみえ、交わる日に変わるのです。それは、生活の大きな変化であって、ある種の決意と覚悟がなければ、できないことでしょう。
もちろん、それは強制されてする決意と覚悟ではありません。「あふれるばかりに感謝しなさい」(7節)と言われているように、溢れるほどの感謝があるからこそ、自ずと促される決意と覚悟です。そして、この感謝と決意とは、“洗礼”という入信の儀式によって表わされます。


 私たちの教会の礼拝堂には、説教卓の脇に、常に洗礼盤が置かれています。洗礼式において、罪を洗い流し、新しい人生に生まれ変わらせるための、聖なる水を入れておくために使う道具です。なぜ洗礼盤が常に礼拝堂に置かれているのか。それは、礼拝に招かれ集って、ここでこの洗礼盤を目にする度に、洗礼を受けた方々に、“自分は洗礼を受けた者なのだ”ということを思い起こしていただきたいからです。初心を忘れないでいただきたいからです。主キリスト・イエスによって救われた、その溢れるばかりの感謝に生きる自分なのだ、ということを改めて意識してほしいからなのです。
 主キリスト・イエスを受け入れるということは、ただに心の中で信じるということではありません。それは、洗礼を受けるということです。私たちを、溢れるばかりの感謝に満たす洗礼、それが何なのか、今日、御言葉によって、改めて私たちの胸に留めたいと思います。
「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てる割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(11〜12節)。
 この御言葉によれば、「洗礼」とはまず、「手によらない割礼」であると言われています。
 割礼とは何か。それは、ユダヤ人の男子が生まれて八日目に受ける、男性器の包皮の皮を切り取る儀式です。この儀式は、神さまとユダヤ人とが結ぶ救いの契約のしるしであり、それはユダヤ人のルーツであるアブラハムから始まりました。
 旧約聖書・創世記17章に、割礼の始まりのことが記されています。アブラハムは神さまと救いの契約を結びました。神さまはアブラハムの神となり、彼の子孫を増やし、カナンの土地を永久の所有地として与えることを約束されます。その契約の条件として、アブラハムと彼の子孫たちが守るべきことが、割礼でした。
 今までは、この救いの契約のしるしである割礼を、ユダヤ人だけが、人の手によってその体に受けて来たのです。しかし、この割礼に代わり、ユダヤ人でも異邦人でも受けられる、新しい救いの契約のしるしが洗礼だということです。しかも、それは人の手によって身体に受けるものではなく、洗礼の儀式を通して、神によって、聖霊の働きによって魂に刻まれる、“目には見えない”しるしであるが故に、「手によらない割礼」と言われるのです。


 この「手によらない割礼」によって、私たちは、「肉の体を脱ぎ捨てる」ことになります。一種の脱皮、“人生の脱皮”をするのです。それは、別の表現で言うならば、「キリストと共に葬られ」「キリストと共に復活させられ」る、ということです。
 つまり、洗礼とは、私たちの肉の体の“お葬式”という意味を持っているのです。キリストが十字架にお架かりになって死に、葬られたように、私たちも精神的な意味で一度、自分の「肉の体」を葬るのです。すなわち、罪にまみれた人生と生活を葬るのです。
 “罪”と言うと、日本人である私たちは、法律上の犯罪を思い浮かべて、自分は犯罪を犯してはいない、自分には関係がないと思うところがありますが、そういう意味ではありません。心で神と向かい合い、神を自分の人生の主と仰ぎ、神の御言葉に耳を傾けようとはしない自己中心、人間中心な考え方と生き方。そこから生じる思い上がりや劣等感、妬みや蔑み、人間関係のトラブル‥‥‥しかも、そういう自分を省みようとはせず、それで良い、正しいとする自己正当化。そういう考え方と生き方にまみれた人生を、聖書は“罪”と見ているのです。
 そのような人生から救われるために、生まれ変わるためには、どうしたら良いのか。私たちは、自分が思っているほどに、精神的に強くはなく、清くもないのではないでしょうか。“分かっちゃいるけど、やめられない”。そういう弱さが私たちにはあります。自分の罪を、嫌だ、変えたいと思いながら、自分ではどうにもならないことが、人生の深みに行けば行くほど出て来るのです。その深みで、私たちは絶望し、泣く以外にないことが少なからずあるのです。
 そんな私たちの罪と弱さを、神さまはよくご存じであり、そういう私たちのことを受け入れてくださるのです。罪という大きな抵抗のある私たちを、神さまが慈愛に満ちあふれた決意をもって受け入れてくださる。私たちは、私たちが神とキリストを受け入れる前に、神が罪深い私たちを、この罪にまみれた“私”を受け入れてくださっていることを知るべきです。
 神さまが私たちを受け入れてくださる。それは、次の御言葉で表わされています。
「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」
(13〜14節)
 神さまが、人と救いの契約を結ぶ時、1枚の「証書」が取り交わされます。それは、神の掟を守るという内容の証書であり、そこには神の掟が具体的に示され、その掟に背くと、その罪が書き知らされていきます。しかし、私たちの積もり積もった罪の証書が破棄される。破り捨てられる。それが、キリストの十字架の意味だと御言葉は語ります。キリストが御自分の命を、私たちの罪を償うために、十字架の上で犠牲にされた。そのお陰で、私たちの罪はすべて帳消しにされたというのです。
 私はふと、キリスト・イエスがなさった一つのたとえ話を思い起こします。ある王さまが家来たちに貸していた金を決済しようとした。すると、1万タラントンの借金をしている家来が王の前に連れて来られた。王は、自分も家族も家も持ち物も全部売って返済を命じました。けれども、家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願いました。返せるわけがない。なぜなら、1万タラントンというのは、20万年分の給料に当たる金額だからです。一体どうしてまた、そんな莫大な借金をしたのかという疑問は置いておくとして、もっと驚きなのは、この王さまが、この家来を憐れに思い、それほどの借金を帳消しにしてやったということです(マタイ18章)。
 このたとえ話は、神さまと私たち人間の関係を表しており、借金は罪を表しています。聖書は、私たちの罪を、それほど大きいものと見ているのです。しかし、その罪が帳消しにされる。罪の証書が破棄される。私たちの罪よりも、もっともっと大きくて深い、神の憐れみによってです。そして、この神の大きな憐みをはっきりと表すしるしが十字架であると、御言葉は語っています。


 罪にまみれた人生から、神の憐れみにより、キリストの十字架により、罪を帳消しにされた新しい人生を生きる。それが、キリストと共に復活させられる、ということです。復活とは、生き返るという意味ではなく、神と共に、キリストと共に、新しい人生を生きることなのです。
 そして、この新しい人生にふさわしい態度は、先ほどから話しているように、あふれるばかりの「感謝」です。罪を赦され、新しい人生に生まれ変わらせていただいたことを感謝して生きることです。
 しかし、ともすれば私たちは、あの1万タラントンの借金をゆるされた家来が、感謝を忘れ、友達のわずかな借金をゆるさなかったように、神さまへの感謝を忘れた振舞いをしてしまうことがあります。そうならないように、感謝に生きることができるように、私たちは、洗礼を受け、主キリスト・イエスを受け入れた者であることを、救いの感謝に生きるキリスト者であることを忘れずに歩みましょう。


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