坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年9月27日 大人と子供の礼拝説教「神の最高傑作」

聖書 エフェソの信徒への手紙2章8〜10節
説教者 山岡創牧師

2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです


         「神の最高傑作」
 今日、読んだ聖書の10節に、「わたしたちは神に造られたものであり」(10節)と書かれていました。私たち一人一人は、神さまに造られたもの、“神の作品”。そのように信じることが、神さまを信じることの第一歩です。
 皆さんは、自分がどうして、どのようにしてこの世に生まれて来たのか、考えたことがありますか? 私たちは、自分でこの世界に生まれようと思って生まれて来たわけではありません。では、だれが私たちをこの世界に生んでくれたのでしょう? それは、お父さんとお母さんです。お父さんとお母さんが、子供がほしいと願って、そして(ちょっと難しい話になるけど)お母さんのおなかの中で、お母さんの卵子とお父さんの精子が一つになって、命が生まれ、私たちがこの世に生み出されたのです。
 けれども、お父さんとお母さんが子供をほしいと願って、努力したら、必ず子供が生まれるわけではありません。命が生まれない場合もあります。お母さんのおなかの中で命を造り、育ててくださるのは神さまなのです。神さまが願って、神さまが命を造って、神さまが育ててくださったからこそ、私たちはこの世に生まれて来たのです。だから、聖書は、「わたしたちは神に造られたもの」だと言うのです。


 ところで、旧約聖書のはじめに創世記という書があります。そこに、神さまが最初の人間アダムとエヴァをお造りになったことが記されています。創世記第1章を開くと、まず、「初めに、神は天地を創造された」とあります。1章から2章にかけて、神さまが光を造り、空(宇宙)を造り、地を造り、海を造り、草木を造り、動物を造り、そして最後に人間をお造りになったことが描かれています。最初の人アダムは、神さまが土のちりで体を造り、その鼻から命の息を吹き入れて、生きるものとなりました。女の人エヴァは、アダムのあばら骨から造られました。
 そのようにして最初の人アダムとエヴァが造られました。それからは、エヴァのおなかの中から次の人が生まれて来たのですが、それは、神さまが女の人のおなかの中で命を造っているのだよ、と聖書は考えているのです。
 アダムとエヴァは、エデンの園と呼ばれる楽園で、神さまの言葉を守って暮らしました。ところが、へび が出て来て、二人に神さまの言葉を破るように誘うのです。“エデンの園の真ん中の木の実を食べちゃダメだって? だいじょうぶ、だいじょうぶ。あれ、おいしいよ。ぼくも食べてみたけど、神さまみたいに賢くなれるんだ”。神さまの言葉を破れ、という へび の声は、今も私たちの心の中に聞こえて来る“悪の声”“悪の誘い”なんだよね。
 アダムとエヴァは、へび にそう言われて、神さまに禁じられていた木の実を食べてしまいました。これが、人間の犯した最初の罪でした。アダムとエヴァは、罰としてエデンの園から追い出され、神さまとの関係は前のような信頼関係ではなくなってしまいました。それ以来、私たち人間は罪を犯すものになってしまったのです。


 罪を犯して神さまとの信頼関係を壊してしまった人間が、もう一度、信頼関係を回復するためにはどうしたらよいでしょう? もう一度、神さまの言葉を守って行(おこな)うことだ!そう考えた人々がいました。ユダヤの人々、特にファリサイ派と呼ばれた人々です。
 そう考えて努力することは大切です。けれども、そんなに簡単にはいかない。いつも心から守れないし、ちょっと守れるようになると、“自分の力”(8節)だと誇ります。
 私たちも、自分のことを考えてみましょう。例えば、今月は、「わたしがあなたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15章12節)という御言葉を暗唱しています。とても大切な教えです。でも、この神さまの言葉を、自分の力だけで守って行えるか。私たちは、相手に腹を立てることがあります。憎らしくなることもあります。意地悪をしたり、暴力をふるってしまうこともあります。相手のことを考えず無視することもあります。優しくできない時もあります。あきらめる、と言うのではありませんが、神さまの言葉を自分の力で守り行うのは、とても難しい。
 そこで、神さまはご自分との信頼関係を回復するために、別の方法を取ってくれました。それは、ご自分の子供・神の子であるイエスさまをこの世に送り、イエスさまが私たちの罪を直してくださる、という方法です。でも、それは決して簡単なことではりませんでした。だから、イエスさまが十字架の上でご自分の命を犠牲にして、“皆の罪を赦してください”と神さまに謝る以外になかったのです。神さまも、イエスさまのこの気持と命を受け止めて、私たちを赦してくださり、信頼関係を回復してくださったのです。
 今日の聖書の10節には、「造る」という言葉が2回出て来ます。1回目は先ほどお話ししました。それは、神さまの天地創造、そして神さまがその時、私たち人間もお造りになった、ということです。2回目は、「キリスト・イエスにおいて造られた」と出て来ます。これは、最初に人間をお造りになったこととは、ちょっと意味が違うと思います。つまり、これは“修理”です。罪によって壊れた私たち人間を、神さまがキリスト・イエスによって、イエスさまの命と血によって修理してくださった、ということです。


 どうして神さまは、そこまでしてくださるのでしょうか? それは、神さまが私たちのことを愛してくださっているからです。自分が一生懸命お造りになった“宝物”だから、大切にしてくださるのです。ちょっとやそっとのことで捨てたりしない。
 皆さんは、一生懸命何かをつくったことがありますか? 私は子供の頃、工作少年でした。ボール紙とはさみとセロハンテープで、ロボットや戦艦や戦闘機をつくり、ペンで色を塗りました。1mもある宇宙戦艦ヤマトをつくったこともあります。何時間も、何日もかけて、一生懸命つくった作品は、大切な宝物なんですね。大事にしました。
(ある時、友達から作った作品をバカにされて、大げんかをしたこともありました)
 何年か前に、ガンダム・シードというロボット・アニメがはやった時、子供と一緒にガンダムのプラモデルを幾つもつくったことがありました。(プラモデルを幾つか見せる)組み立てて、ペイントで色をつけて、“うわっ、もう夜中の2時じゃん!”なんてことが何度もありました。ものをつくるって、楽しい、嬉しいことです。
 でも、壊れやすいんですね。ちょっと動かして遊んでいると、関節の部分なんか、すぐに壊れてしまう。でも、捨てたりしない。余ったプラスチックや楊枝の棒やボンドを使って、一生懸命修理します。それは、自分が愛情を込めてつくった宝物だからです。何とか直したいと思う。
 神さまもそういう気持なんだと思います。いや、もっともっと、ご自分が愛情を込めて、一生懸命お造りになった私たちだから、宝物だから、罪によって壊れても、何としても直したい、修理したい、信頼関係を回復したいと願っておられるに違いありません。
 この神さまの気持を思うと、神さまの愛を信じると、私たちの心にも、何か温かい気持が込み上げて来ます。涙が出るほど嬉しくなることもあります。そういう気持を感じたら、私たちと神さまの信頼関係は回復しています。


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