坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2010年1月31日 大人と子供の 礼拝説教「信仰に妨げなし」

聖書 使徒言行録8章26〜40節
説教者 山岡創牧師

フィリポとエチオピアの高官
8:26 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。
8:27 フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、
8:28 帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。
8:29 すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。
8:30 フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。
8:31 宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。
8:32 彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。
8:33 卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」
8:34 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」
8:35 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。
8:36 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」

8:38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。
8:39 彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。
8:40 フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。


                「信仰に妨げなし」
  今日読んだ聖書の箇所にフィリポという人が出て来ました。イエスさまの12人のお弟子さんの中にもフィリポさんという人がいますが、この人は、そのフィリポさんではありません。エルサレム教会で、12弟子のペトロさんやヨハネさんの下で、“給食係”をしていた人です。給食係なんて言うと、みんなは“なーんだ”と思うかも知れないけれど、ただの給食係じゃないんだ。学校だと給食係は順番にするけれど、エルサレム教会では、“この人に!”と7人の人が選ばれ決まっていた。しかも、エルサレム教会にはメンバーが何千人、もしかしたら1万人以上いたかも知れないから、その中で7人だけが選ばれた給食係の内の一人なんだ。使徒言行録6章3節には、フィリポさんは、「(聖)霊と知恵に満ちた評判の良い人」だと書かれています。
 ところが、何千、何万人もメンバーがいたエルサレム教会は、ねたまれて、“イエスの教えは間違っている”と言われ、“ここで伝道活動をしてはならん!”と追い出された。つまり、難しい言葉で言うと、迫害されて、解散させられて、散らされてしまったのです。そういうことって、あるんだよ。
 今日のお昼に、この教会を生み出した川越市の初雁教会でバザーがあって、後で行ける人で行こうと思っているけど、その初雁教会は戦争の時、“お前たちの信仰は非国民の考えだ。間違っている”と言われ、迫害され、解散させられたことがありました。
 エルサレム教会も迫害され、解散させられました。みんなそれぞれ、色々なところに散って行ったのだけれど、フィリポさんは最初、サマリアというところに行きました。そして、サマリアの人々にイエス様のことを伝えたんだ。


 その後、神さまはフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」(26節)とお命じになった。それが今日の話。天使を通して神さまは、“行きなさい”とお命じになった。「そこは寂しい道である」(26節)と書いてあります。
 “寂しい道なんて、嫌だなあ”と私たちだったら思うかも知れないね。フィリポさんはどう思ったのでしょう? やっぱり嫌だなあ、と思ったのでしょうか? サマリアの方が、人もいっぱいいて、イエス様のことをたくさんの人に教えられるし、注目され、ほめられたりもするから、サマリアにいたいなあ、と思ったのでしょうか? いいえ、フィリポさんは神さまから命じられたガザへの道へ、「寂しい道」へと出て行きました。でも、その寂しい道にも、神さまは、すばらしい出会いと大切なお仕事(使命)を、フィリポさんに用意していてくださったのです。
 人生って、“道”だと言われます。目に見える道ではないけれど、色々な道があります。成功の道もあれば、失敗の道もある。楽しい道もあれば、苦しい道もある。そして、「寂しい道」もあります。それは、だれからも注目されないような、ほめてもらえないような、日陰の道かも知れない。ひとりぼっちの孤独な道かも知れない。私たちは、こんな道、嫌だなあ、歩きたくないなあと思うけれど、それしか道がない、という時があります。でもね、無駄な道、無意味な道なんて一つもない。神さまは、どんな道にもちゃんと、出会いと使命を用意してくださっています。


 エルサレムからガザへくだる寂しい道で、フィリポは1台の馬車を見つけます。その馬車には、エチオピアという国の女王様に仕える家来が乗っていました。とても高い身分の家来だったようで、「高官」(27節)と書かれています。彼は、ユダヤ人ではなくエチオピア人でしたが、ユダヤの神さまを信じていて、エルサレム神殿で礼拝を守り、帰る途中でした。
フィリポがその馬車に近づくと、聖書を読んでいる声が聞こえてきました。それは、預言者イザヤの書でした。“苦しむ僕”のことが書かれているイザヤ書53章でした。フィリポは、「読んでいることがお分かりになりますか」(31節)と声をかけます。すると高官は、“教えてくれる人がいなければ分かりません。「どうぞ教えてください」(34節)”とフィリポに尋ねました。そこで、フィリポは、イザヤ書に書かれている“苦しむ僕”とはイエス様であること、イエス様が私たちを愛して、最後には私たちの罪のために犠牲となって十字架に架かり、罪を赦してくださったこと、イエス様こそ救い主キリストであることを、エチオピアの高官に話して聞かせました。高官はとても感動して、心が熱く燃えたのだと思います。
やがて川のそばにやって来ました。高官はフィリポに願いました。洗礼を受けさせてほしい、と。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」(37節)。彼が外国人であることも、聖書のことを詳しく理解していないことも、何の妨げにもなりません。フィリポはエチオピアの高官に、イエスを救い主キリストと信じる誓いの洗礼を授けました。その時から高官は、イエス様を信じ、神の子として神さまと共に歩く旅をスタートしました。その旅、「喜びにあふれ(る)」旅(39節)、喜びにあふれる人生の道となったと書かれています。


 この前のクリスマスに、Iくん(小6)が洗礼を受けましたね。礼拝の後の愛餐会の時、Iくんは、“聖書や、色んな人や、牧師先生を通して、神さまが「今だ、今、洗礼を受けなさい」と声をかけ、招いてくださっていると感じた”と話してくれました。きっとエチオピアの高官も、そうだったんだ。聖書の御言葉によって、フィリポさんを通して、神さまが“今だ、今、洗礼を受けなさい”と自分の心に声をかけてくださっていると感じたのに違いありません。
 神さまの愛を信じ、イエス様を救い主と信じて、洗礼を受けることには、何の妨げもありません。聖書のことを、まだあまり分かっていないから、ということも妨げになりません。自分は子供だから、とうことも妨げになりません。洗礼を受けたいという気持があって、神さまから“今だ”と招かれていると感じるなら、そして、自分は神さまから愛されている神の子供だと、自分は神の家族である教会の一員だと信じられるなら、何の妨げもありません。いつだって洗礼を受けることができます。
 洗礼は、信仰生活のスタートです。神さまと一緒に歩く人生のスタートです。もう独りぼっちの「寂しい道」ではない。神さまがいつも一緒にいてくれる、イエス様が聖霊となって私たちの心の中に住んでくださる。苦しいことや悲しいことがなくなるわけではないけれど、でも一緒にいてくれる人がいる、支えてくれる神さまがいる、そういう「喜びにあふれた」人生です。寂しい道から喜びにあふれた道へ。この人生の道を、みんなで共に、歩きたいですね。


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