坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2010年5月30日 主日礼拝 「祈りの大きな力」

聖書 ヤコブの手紙5章13〜18節
説教者 山岡創牧師

5:13 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。
5:14 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。
5:15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。
5:16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。
5:17 エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。
5:18 しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。


         「祈りの大きな力」
「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい」(13節)。
 ヤコブは、当時のユダヤ人クリスチャンに、そして今、この手紙を通して御言葉を聴こうとしている私たちに、「祈りなさい」と勧め、教えます。今日読んだ5章13〜18節の間だけで、“祈る”という言葉が実に7回も出て来ます。ヤコブが、クリスチャンの信仰生活において、祈りがどれほど重要かということを意識し、勧めていることがよく分かります。
 また、今日の御言葉から、祈りには多くの効果があることが読み取れます。祈りは苦しみを和らげる。祈りは病をいやす。祈りは罪の赦しをもたらす。祈りは、天候さえ動かす、というのです。祈りとは、そのような力です。今日の御言葉の16節に、
「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(16節)。
と書いてあるとおりです。


 けれども、今日の御言葉に耳を傾けながら、私は自分の“罪”を感じざるを得ません。なぜなら、この御言葉を疑っているからです。祈りの「大きな力」を疑っているからです。祈りで天気が変わるわけないよ。祈りで病気が治るわけないよ。“そんなこと、あるわけないよ”と、心のどこかで思っている。御言葉を通して示されている神さまの御心と私の信仰とがずれているのです。
 主イエスも、てんかんを患う子供を癒した時、こう言われました。その時、弟子たちは、自分たちで癒すことができませんでした。後から来た主イエスが癒しをなさって、弟子たちにこう言われました。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何一つない」(マタイ17章20節)。そして、それができないのは「信仰が薄いからだ」と言われたのです。
 こう言われると、“そうかなあ?”と思ってしまうところがある。山が動くはずないよ、と思ってしまう。信仰の薄い厚いの問題ではないよ、と思ってしまう。
 そりゃあ、常識で考えれば、そのとおりです。山が動くはずがない。雨がやんだり降ったりするわけがない。
 けれども、御言葉を通して、神さまは私たちに、そんなことを考えるように求めておられるのでしょうか? そうではありません。神さまは私たちに、まず御言葉を聞くことを求めておられます。常識とか経験、自分の好みや価値観から離れて、神さまの御心が何であるかを思いながら、神の御心と一つになれるように、まず御言葉を聞いて、受け止めることが求められています。そうでなければ、信仰も祈りも始まりません。御言葉を拒否しない。否定しない。まず聞いて受け止める。肯定する。その姿勢から、御言葉の深い意味が、祈りの「大きな力」が次第に見えて来ます。分かって来ます。
 私も一つ、祈りの「大きな力」を実感しています。それは、朝の御言葉と祈りが続くようになったことです。毎朝、聖書を読み、御言葉から御心を聴き、応えて祈る。もう1年以上続いています。偉そうに言える話ではない。牧師だったら当たり前ではないか‥‥‥確かにそうです。けれども、それまでは、できたりできなかったりだったのです。疲れている。忙しい。時間がない。できない言い訳はいくらでも出て来ます。
 ある時、自分の内に“本気の祈り”がないことに気づきました。自分の力で、どんなに聖書を読み、祈ろうと思ってもだめだ、自分にはその力がないことに気づきました。自分にはその力がない。もうだめなのか? そうではないのです。自分に力がないからこそ、祈るのです。“神さま、私が朝、聖書を読めるようにしてください。祈れるようにしてください”。本気でそう祈りました。そうしたら、毎朝、聖書を読んで祈れるようになったのです。それが1年以上、続いているのです(時々、忘れて怠ることもありますが、その時は悔い改めの祈りをして、また明日と思い直します)。これは私の力ではありません。神さまの力です。祈りの「大きな力」だと実感しているのです。


 祈りには、「大きな力があり、効果をもたらします」。祈りの恵みを味わえば、その力と効果が分かって来ます。けれども、そこには一つ、条件のようなものがあります。「正しい人の祈りは‥」と書かれているからです。「正しい人」として祈る時、その祈りは大きな力を生むのです。
 「正しい人」とは、どんな人のことでしょう。つい、“自分なんか、正しくないから祈ってもだめだ”という気持になってしまいます。
 けれども、私たちが「正しい人」という言葉でイメージしていることと、聖書が示す「正しい人」とは、もしかしたらちょっと違うかも知れません。道徳的な人、真面目な人、規則やルールをきちんと守っている人‥‥そういった意味とはちょっと違うのです。
 今日の15節に、「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」とあります。「正しい人の祈り」というのは、この「信仰に基づく祈り」と重なり合う、同じ意味だと考えて良いでしょう。つまり、“正しい”とは“信仰に基づいている”ということです。
 では、信仰に基づいている、とはどういうことでしょうか。一つ前の4章に、そのヒントがあります。4章2〜3節にかけて、次のような御言葉がありました。
「得られないのは願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」。
 ここには、何かを得ようと願う祈りについて記されています。けれども、それは与えられない。祈りに「大きな力」がないからです。なぜ力がないのか。間違った動機で願い求めているからです。
 自分の楽しみのために使おうとは考えても、神さまのために、人のためにとは考えていない。自分のことしか考えていない。つまり、動機が自己中心なのです。神さまは自分に何を求めておられるか、その御心を考えていないのです。これが、“信仰に基づかない祈り”だと言って良いでしょう。
 ならば、信仰に基づいているとはどういうことでしょう。それは神さまの御心が何であるかを考え、御心に沿っているということです。その時、祈りは力を生むのです。
 今日の御言葉に照らして言えば、13節に、信仰に基づくということが示されています。「あなたがたの中で苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい」。苦しみに遭い、自分の力ではどうにもならない行き詰まりの中で、神さまに祈る。神の力に頼り、救いを願い求め、その手におゆだねする。
 けれども、その祈りが単に“苦しい時の神頼み”に終わってはなりません。苦しい時は一生懸命、熱心に神さまに祈る。やがて苦しみが過ぎ去り、平安の時が訪れる。苦しみが取り去られ、喜びに満たされる。その時、ともすれば私たちはコロッと祈りを忘れるのです。ケロッとして神さまを忘れるのです。なぜか。私たちが自己中心だからです。祈りが自分本位だからです。そうならないように、「喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい」と言われているのです。苦しい時だけ神さまに祈るのではなく、苦しみが去り、喜びが訪れた時にも、神さまに感謝しなさい。どんな時にも神さまに心を向けなさい。どんな時にも神さまの御心が何であるかを思いなさい。それが「信仰に基づく」ということであり、「正しい」ということの聖書的、信仰的な意味です。


 そのように、「信仰に基づく祈り」をするためには、どうすればよいのでしょう。
 御言葉に聴くことです。聖書の御言葉の中に、私たちに対する神さまの御心が十分に示されています。聖書を読んで、その御言葉を通して、神さまが自分に何を求めておられるのかを黙想し、聴き取る。ちなみに、その黙想と聴き取りの作業を自分ですることをディボーションと言います。先日の教会研修会で、H先生から教えられたことも、ディボーションの一つのやり方です。
 私は、御言葉に聴くことと祈りとがワン・セットになっていることが大事だと思っています。もちろん、食事の前の祈りや、その場で聖書を読まずに祈ることもしばしばあります。それはそれでいい。けれども、1日の生活の中で、短くてもいい、自分で聖書を読み、御言葉に聴いて祈る時間を、ぜひ設けてほしいのです。なぜなら、御言葉に聴かずに祈ると、ともすれば祈りが自分本位になるからです。自分の考えや価値観に立って願うばかりの祈りになるからです。自分の願いを祈るのもいい。けれども、まず御言葉に聴いて、“私が”という願いを脇へ置いて、“神さまが”自分に何を求めておられるかを受け止めて祈ることが大事です。それによって、自分の願いもまた、“これは神さまの御心にそぐわない”ということに気づかされ、祈りが修正されていくのです。そこに、“神さまの御心に従うことができますように”という祈りが、御言葉に応答する祈りが生まれて来ます。例えば、極端な例かもしれませんが、腹の立つ憎らしい人がいて、“あんな人、どこかでひどい目に遭えばいい”と思っていた人が、聖書を読み、「互いに愛し合いなさい」との御言葉をいただいて、それが自分に対する神の御心だと受け止めた時、“腹の立つ、にくらしいあの人を愛せるようにしてください”との祈りが生まれて来るのです。きっと心の内に葛藤があるでしょう。でも、神の御心に応える祈りが生まれて来るのです。そして、その祈りには「大きな力」がある。なぜなら、神の御心に沿っているからです。


「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」。
 祈りによって、苦しみは和らぎます。平安が生まれます。癒(いや)しが生じます。赦しが起こります。もちろん、いつもいつも文字通り、その通りにはならないでしょう。そうそういつも現実の「効果」は現れないでしょう。祈りは御利益ではないからです。
 けれども、祈りが信仰に基づいたものであるならば、御言葉に聴き、御心を求める祈りであるならば、神さまの“答え”を待つことができるようになります。自分の願い求めたこととは違っていても、それが神さまの御心と受け止められるように変えられていきます。そのような祈りの中で、平安とは、癒しとは、赦しとは、ということの深い意味が少しずつ見えて来ます。信仰に基づく祈りが、私たちをそのように導くのです。
 カトリックのシスターである渡辺和子さんが、“請求書の祈り”ではなく、“領収書の祈り”ということを言われました。“ください、ください”と自分本位に願い求める祈りではなく、神さまの御心を“確かにいただきました”と受け止める祈りです。
 私たちの祈りは、考えてみると“請求書の祈り”がたぶん大半ではないでしょうか。そのような祈りを、御言葉に聴き、御心を受け取り、“領収書の祈り”に少しずつ変えていきましょう。それによって、私たちの内に「大きな力」が広がります。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい」(13節)。
 ヤコブは、当時のユダヤ人クリスチャンに、そして今、この手紙を通して御言葉を聴こうとしている私たちに、「祈りなさい」と勧め、教えます。今日読んだ5章13〜18節の間だけで、“祈る”という言葉が実に7回も出て来ます。ヤコブが、クリスチャンの信仰生活において、祈りがどれほど重要かということを意識し、勧めていることがよく分かります。
 また、今日の御言葉から、祈りには多くの効果があることが読み取れます。祈りは苦しみを和らげる。祈りは病をいやす。祈りは罪の赦しをもたらす。祈りは、天候さえ動かす、というのです。祈りとは、そのような力です。今日の御言葉の16節に、
「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(16節)。
と書いてあるとおりです。


 けれども、今日の御言葉に耳を傾けながら、私は自分の“罪”を感じざるを得ません。なぜなら、この御言葉を疑っているからです。祈りの「大きな力」を疑っているからです。祈りで天気が変わるわけないよ。祈りで病気が治るわけないよ。“そんなこと、あるわけないよ”と、心のどこかで思っている。御言葉を通して示されている神さまの御心と私の信仰とがずれているのです。
 主イエスも、てんかんを患う子供を癒した時、こう言われました。その時、弟子たちは、自分たちで癒すことができませんでした。後から来た主イエスが癒しをなさって、弟子たちにこう言われました。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何一つない」(マタイ17章20節)。そして、それができないのは「信仰が薄いからだ」と言われたのです。
 こう言われると、“そうかなあ?”と思ってしまうところがある。山が動くはずないよ、と思ってしまう。信仰の薄い厚いの問題ではないよ、と思ってしまう。
 そりゃあ、常識で考えれば、そのとおりです。山が動くはずがない。雨がやんだり降ったりするわけがない。
 けれども、御言葉を通して、神さまは私たちに、そんなことを考えるように求めておられるのでしょうか? そうではありません。神さまは私たちに、まず御言葉を聞くことを求めておられます。常識とか経験、自分の好みや価値観から離れて、神さまの御心が何であるかを思いながら、神の御心と一つになれるように、まず御言葉を聞いて、受け止めることが求められています。そうでなければ、信仰も祈りも始まりません。御言葉を拒否しない。否定しない。まず聞いて受け止める。肯定する。その姿勢から、御言葉の深い意味が、祈りの「大きな力」が次第に見えて来ます。分かって来ます。
 私も一つ、祈りの「大きな力」を実感しています。それは、朝の御言葉と祈りが続くようになったことです。毎朝、聖書を読み、御言葉から御心を聴き、応えて祈る。もう1年以上続いています。偉そうに言える話ではない。牧師だったら当たり前ではないか‥‥‥確かにそうです。けれども、それまでは、できたりできなかったりだったのです。疲れている。忙しい。時間がない。できない言い訳はいくらでも出て来ます。
 ある時、自分の内に“本気の祈り”がないことに気づきました。自分の力で、どんなに聖書を読み、祈ろうと思ってもだめだ、自分にはその力がないことに気づきました。自分にはその力がない。もうだめなのか? そうではないのです。自分に力がないからこそ、祈るのです。“神さま、私が朝、聖書を読めるようにしてください。祈れるようにしてください”。本気でそう祈りました。そうしたら、毎朝、聖書を読んで祈れるようになったのです。それが1年以上、続いているのです(時々、忘れて怠ることもありますが、その時は悔い改めの祈りをして、また明日と思い直します)。これは私の力ではありません。神さまの力です。祈りの「大きな力」だと実感しているのです。


 祈りには、「大きな力があり、効果をもたらします」。祈りの恵みを味わえば、その力と効果が分かって来ます。けれども、そこには一つ、条件のようなものがあります。「正しい人の祈りは‥」と書かれているからです。「正しい人」として祈る時、その祈りは大きな力を生むのです。
 「正しい人」とは、どんな人のことでしょう。つい、“自分なんか、正しくないから祈ってもだめだ”という気持になってしまいます。
 けれども、私たちが「正しい人」という言葉でイメージしていることと、聖書が示す「正しい人」とは、もしかしたらちょっと違うかも知れません。道徳的な人、真面目な人、規則やルールをきちんと守っている人‥‥そういった意味とはちょっと違うのです。
 今日の15節に、「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」とあります。「正しい人の祈り」というのは、この「信仰に基づく祈り」と重なり合う、同じ意味だと考えて良いでしょう。つまり、“正しい”とは“信仰に基づいている”ということです。
 では、信仰に基づいている、とはどういうことでしょうか。一つ前の4章に、そのヒントがあります。4章2〜3節にかけて、次のような御言葉がありました。
「得られないのは願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」。
 ここには、何かを得ようと願う祈りについて記されています。けれども、それは与えられない。祈りに「大きな力」がないからです。なぜ力がないのか。間違った動機で願い求めているからです。
 自分の楽しみのために使おうとは考えても、神さまのために、人のためにとは考えていない。自分のことしか考えていない。つまり、動機が自己中心なのです。神さまは自分に何を求めておられるか、その御心を考えていないのです。これが、“信仰に基づかない祈り”だと言って良いでしょう。
 ならば、信仰に基づいているとはどういうことでしょう。それは神さまの御心が何であるかを考え、御心に沿っているということです。その時、祈りは力を生むのです。
 今日の御言葉に照らして言えば、13節に、信仰に基づくということが示されています。「あなたがたの中で苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい」。苦しみに遭い、自分の力ではどうにもならない行き詰まりの中で、神さまに祈る。神の力に頼り、救いを願い求め、その手におゆだねする。
 けれども、その祈りが単に“苦しい時の神頼み”に終わってはなりません。苦しい時は一生懸命、熱心に神さまに祈る。やがて苦しみが過ぎ去り、平安の時が訪れる。苦しみが取り去られ、喜びに満たされる。その時、ともすれば私たちはコロッと祈りを忘れるのです。ケロッとして神さまを忘れるのです。なぜか。私たちが自己中心だからです。祈りが自分本位だからです。そうならないように、「喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい」と言われているのです。苦しい時だけ神さまに祈るのではなく、苦しみが去り、喜びが訪れた時にも、神さまに感謝しなさい。どんな時にも神さまに心を向けなさい。どんな時にも神さまの御心が何であるかを思いなさい。それが「信仰に基づく」ということであり、「正しい」ということの聖書的、信仰的な意味です。


 そのように、「信仰に基づく祈り」をするためには、どうすればよいのでしょう。
 御言葉に聴くことです。聖書の御言葉の中に、私たちに対する神さまの御心が十分に示されています。聖書を読んで、その御言葉を通して、神さまが自分に何を求めておられるのかを黙想し、聴き取る。ちなみに、その黙想と聴き取りの作業を自分ですることをディボーションと言います。先日の教会研修会で、H先生から教えられたことも、ディボーションの一つのやり方です。
 私は、御言葉に聴くことと祈りとがワン・セットになっていることが大事だと思っています。もちろん、食事の前の祈りや、その場で聖書を読まずに祈ることもしばしばあります。それはそれでいい。けれども、1日の生活の中で、短くてもいい、自分で聖書を読み、御言葉に聴いて祈る時間を、ぜひ設けてほしいのです。なぜなら、御言葉に聴かずに祈ると、ともすれば祈りが自分本位になるからです。自分の考えや価値観に立って願うばかりの祈りになるからです。自分の願いを祈るのもいい。けれども、まず御言葉に聴いて、“私が”という願いを脇へ置いて、“神さまが”自分に何を求めておられるかを受け止めて祈ることが大事です。それによって、自分の願いもまた、“これは神さまの御心にそぐわない”ということに気づかされ、祈りが修正されていくのです。そこに、“神さまの御心に従うことができますように”という祈りが、御言葉に応答する祈りが生まれて来ます。例えば、極端な例かもしれませんが、腹の立つ憎らしい人がいて、“あんな人、どこかでひどい目に遭えばいい”と思っていた人が、聖書を読み、「互いに愛し合いなさい」との御言葉をいただいて、それが自分に対する神の御心だと受け止めた時、“腹の立つ、にくらしいあの人を愛せるようにしてください”との祈りが生まれて来るのです。きっと心の内に葛藤があるでしょう。でも、神の御心に応える祈りが生まれて来るのです。そして、その祈りには「大きな力」がある。なぜなら、神の御心に沿っているからです。


「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」。
 祈りによって、苦しみは和らぎます。平安が生まれます。癒(いや)しが生じます。赦しが起こります。もちろん、いつもいつも文字通り、その通りにはならないでしょう。そうそういつも現実の「効果」は現れないでしょう。祈りは御利益ではないからです。
 けれども、祈りが信仰に基づいたものであるならば、御言葉に聴き、御心を求める祈りであるならば、神さまの“答え”を待つことができるようになります。自分の願い求めたこととは違っていても、それが神さまの御心と受け止められるように変えられていきます。そのような祈りの中で、平安とは、癒しとは、赦しとは、ということの深い意味が少しずつ見えて来ます。信仰に基づく祈りが、私たちをそのように導くのです。
 カトリックのシスターである渡辺和子さんが、“請求書の祈り”ではなく、“領収書の祈り”ということを言われました。“ください、ください”と自分本位に願い求める祈りではなく、神さまの御心を“確かにいただきました”と受け止める祈りです。
 私たちの祈りは、考えてみると“請求書の祈り”がたぶん大半ではないでしょうか。そのような祈りを、御言葉に聴き、御心を受け取り、“領収書の祈り”に少しずつ変えていきましょう。それによって、私たちの内に「大きな力」が広がります。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい」(13節)。
 ヤコブは、当時のユダヤ人クリスチャンに、そして今、この手紙を通して御言葉を聴こうとしている私たちに、「祈りなさい」と勧め、教えます。今日読んだ5章13〜18節の間だけで、“祈る”という言葉が実に7回も出て来ます。ヤコブが、クリスチャンの信仰生活において、祈りがどれほど重要かということを意識し、勧めていることがよく分かります。
 また、今日の御言葉から、祈りには多くの効果があることが読み取れます。祈りは苦しみを和らげる。祈りは病をいやす。祈りは罪の赦しをもたらす。祈りは、天候さえ動かす、というのです。祈りとは、そのような力です。今日の御言葉の16節に、
「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(16節)。
と書いてあるとおりです。


 けれども、今日の御言葉に耳を傾けながら、私は自分の“罪”を感じざるを得ません。なぜなら、この御言葉を疑っているからです。祈りの「大きな力」を疑っているからです。祈りで天気が変わるわけないよ。祈りで病気が治るわけないよ。“そんなこと、あるわけないよ”と、心のどこかで思っている。御言葉を通して示されている神さまの御心と私の信仰とがずれているのです。
 主イエスも、てんかんを患う子供を癒した時、こう言われました。その時、弟子たちは、自分たちで癒すことができませんでした。後から来た主イエスが癒しをなさって、弟子たちにこう言われました。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何一つない」(マタイ17章20節)。そして、それができないのは「信仰が薄いからだ」と言われたのです。
 こう言われると、“そうかなあ?”と思ってしまうところがある。山が動くはずないよ、と思ってしまう。信仰の薄い厚いの問題ではないよ、と思ってしまう。
 そりゃあ、常識で考えれば、そのとおりです。山が動くはずがない。雨がやんだり降ったりするわけがない。
 けれども、御言葉を通して、神さまは私たちに、そんなことを考えるように求めておられるのでしょうか? そうではありません。神さまは私たちに、まず御言葉を聞くことを求めておられます。常識とか経験、自分の好みや価値観から離れて、神さまの御心が何であるかを思いながら、神の御心と一つになれるように、まず御言葉を聞いて、受け止めることが求められています。そうでなければ、信仰も祈りも始まりません。御言葉を拒否しない。否定しない。まず聞いて受け止める。肯定する。その姿勢から、御言葉の深い意味が、祈りの「大きな力」が次第に見えて来ます。分かって来ます。
 私も一つ、祈りの「大きな力」を実感しています。それは、朝の御言葉と祈りが続くようになったことです。毎朝、聖書を読み、御言葉から御心を聴き、応えて祈る。もう1年以上続いています。偉そうに言える話ではない。牧師だったら当たり前ではないか‥‥‥確かにそうです。けれども、それまでは、できたりできなかったりだったのです。疲れている。忙しい。時間がない。できない言い訳はいくらでも出て来ます。
 ある時、自分の内に“本気の祈り”がないことに気づきました。自分の力で、どんなに聖書を読み、祈ろうと思ってもだめだ、自分にはその力がないことに気づきました。自分にはその力がない。もうだめなのか? そうではないのです。自分に力がないからこそ、祈るのです。“神さま、私が朝、聖書を読めるようにしてください。祈れるようにしてください”。本気でそう祈りました。そうしたら、毎朝、聖書を読んで祈れるようになったのです。それが1年以上、続いているのです(時々、忘れて怠ることもありますが、その時は悔い改めの祈りをして、また明日と思い直します)。これは私の力ではありません。神さまの力です。祈りの「大きな力」だと実感しているのです。


 祈りには、「大きな力があり、効果をもたらします」。祈りの恵みを味わえば、その力と効果が分かって来ます。けれども、そこには一つ、条件のようなものがあります。「正しい人の祈りは‥」と書かれているからです。「正しい人」として祈る時、その祈りは大きな力を生むのです。
 「正しい人」とは、どんな人のことでしょう。つい、“自分なんか、正しくないから祈ってもだめだ”という気持になってしまいます。
 けれども、私たちが「正しい人」という言葉でイメージしていることと、聖書が示す「正しい人」とは、もしかしたらちょっと違うかも知れません。道徳的な人、真面目な人、規則やルールをきちんと守っている人‥‥そういった意味とはちょっと違うのです。
 今日の15節に、「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」とあります。「正しい人の祈り」というのは、この「信仰に基づく祈り」と重なり合う、同じ意味だと考えて良いでしょう。つまり、“正しい”とは“信仰に基づいている”ということです。
 では、信仰に基づいている、とはどういうことでしょうか。一つ前の4章に、そのヒントがあります。4章2〜3節にかけて、次のような御言葉がありました。
「得られないのは願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」。
 ここには、何かを得ようと願う祈りについて記されています。けれども、それは与えられない。祈りに「大きな力」がないからです。なぜ力がないのか。間違った動機で願い求めているからです。
 自分の楽しみのために使おうとは考えても、神さまのために、人のためにとは考えていない。自分のことしか考えていない。つまり、動機が自己中心なのです。神さまは自分に何を求めておられるか、その御心を考えていないのです。これが、“信仰に基づかない祈り”だと言って良いでしょう。
 ならば、信仰に基づいているとはどういうことでしょう。それは神さまの御心が何であるかを考え、御心に沿っているということです。その時、祈りは力を生むのです。
 今日の御言葉に照らして言えば、13節に、信仰に基づくということが示されています。「あなたがたの中で苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい」。苦しみに遭い、自分の力ではどうにもならない行き詰まりの中で、神さまに祈る。神の力に頼り、救いを願い求め、その手におゆだねする。
 けれども、その祈りが単に“苦しい時の神頼み”に終わってはなりません。苦しい時は一生懸命、熱心に神さまに祈る。やがて苦しみが過ぎ去り、平安の時が訪れる。苦しみが取り去られ、喜びに満たされる。その時、ともすれば私たちはコロッと祈りを忘れるのです。ケロッとして神さまを忘れるのです。なぜか。私たちが自己中心だからです。祈りが自分本位だからです。そうならないように、「喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい」と言われているのです。苦しい時だけ神さまに祈るのではなく、苦しみが去り、喜びが訪れた時にも、神さまに感謝しなさい。どんな時にも神さまに心を向けなさい。どんな時にも神さまの御心が何であるかを思いなさい。それが「信仰に基づく」ということであり、「正しい」ということの聖書的、信仰的な意味です。


 そのように、「信仰に基づく祈り」をするためには、どうすればよいのでしょう。
 御言葉に聴くことです。聖書の御言葉の中に、私たちに対する神さまの御心が十分に示されています。聖書を読んで、その御言葉を通して、神さまが自分に何を求めておられるのかを黙想し、聴き取る。ちなみに、その黙想と聴き取りの作業を自分ですることをディボーションと言います。先日の教会研修会で、H先生から教えられたことも、ディボーションの一つのやり方です。
 私は、御言葉に聴くことと祈りとがワン・セットになっていることが大事だと思っています。もちろん、食事の前の祈りや、その場で聖書を読まずに祈ることもしばしばあります。それはそれでいい。けれども、1日の生活の中で、短くてもいい、自分で聖書を読み、御言葉に聴いて祈る時間を、ぜひ設けてほしいのです。なぜなら、御言葉に聴かずに祈ると、ともすれば祈りが自分本位になるからです。自分の考えや価値観に立って願うばかりの祈りになるからです。自分の願いを祈るのもいい。けれども、まず御言葉に聴いて、“私が”という願いを脇へ置いて、“神さまが”自分に何を求めておられるかを受け止めて祈ることが大事です。それによって、自分の願いもまた、“これは神さまの御心にそぐわない”ということに気づかされ、祈りが修正されていくのです。そこに、“神さまの御心に従うことができますように”という祈りが、御言葉に応答する祈りが生まれて来ます。例えば、極端な例かもしれませんが、腹の立つ憎らしい人がいて、“あんな人、どこかでひどい目に遭えばいい”と思っていた人が、聖書を読み、「互いに愛し合いなさい」との御言葉をいただいて、それが自分に対する神の御心だと受け止めた時、“腹の立つ、にくらしいあの人を愛せるようにしてください”との祈りが生まれて来るのです。きっと心の内に葛藤があるでしょう。でも、神の御心に応える祈りが生まれて来るのです。そして、その祈りには「大きな力」がある。なぜなら、神の御心に沿っているからです。


「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」。
 祈りによって、苦しみは和らぎます。平安が生まれます。癒(いや)しが生じます。赦しが起こります。もちろん、いつもいつも文字通り、その通りにはならないでしょう。そうそういつも現実の「効果」は現れないでしょう。祈りは御利益ではないからです。
 けれども、祈りが信仰に基づいたものであるならば、御言葉に聴き、御心を求める祈りであるならば、神さまの“答え”を待つことができるようになります。自分の願い求めたこととは違っていても、それが神さまの御心と受け止められるように変えられていきます。そのような祈りの中で、平安とは、癒しとは、赦しとは、ということの深い意味が少しずつ見えて来ます。信仰に基づく祈りが、私たちをそのように導くのです。
 カトリックのシスターである渡辺和子さんが、“請求書の祈り”ではなく、“領収書の祈り”ということを言われました。“ください、ください”と自分本位に願い求める祈りではなく、神さまの御心を“確かにいただきました”と受け止める祈りです。
 私たちの祈りは、考えてみると“請求書の祈り”がたぶん大半ではないでしょうか。そのような祈りを、御言葉に聴き、御心を受け取り、“領収書の祈り”に少しずつ変えていきましょう。それによって、私たちの内に「大きな力」が広がります。

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