坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2010年6月13日 主日礼拝 「愛する兄弟として」

聖書 フィレモンへの手紙1章8〜21節
説教者 山岡創牧師

1:8 それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、
1:9 むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。
1:10 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。
1:11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。
1:12 わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。
1:13 本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、
1:14 あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。
1:15 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。
1:16 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
1:17 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。
1:18 彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。
1:19 わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。
1:20 そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。
1:21 あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。


             「愛する兄弟として」
主イエス・キリストが、弟子たちに“新しい掟”として命じたことが一つあります。それは、愛し合う、ということでした。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)。
と、主イエスはヨハネによる福音書13章で命じています。
 当時、ユダヤ人には十戒を中心とした律法と呼ばれる掟がありました。それは、613もの項目に渡っていたと言われています。主イエスは時に、それを敢えて破りました。安息日の掟を破って病人の癒しを行なったり、汚れの掟を破って徴税人や遊女等と交わりました。なぜそうしたのか。それらの掟が、愛に適(かな)っていなかったからです。そう感じた時、主イエスは敢えて掟を破られました。
 その主イエスが、新しい、ただ一つの掟として弟子たちに与えたものが、互いに愛し合うことでした。それが、“弟子の証明”であるとさえ言われたのです。
 そして、この掟はもちろん、聖書の御言葉に耳を傾け、現代の弟子であろうとする私たちにも与えられている掟です。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。


 けれども、互いに愛し合うということは、決して簡単なことではありません。人を愛するとは、なかなか厳しいことです。
聖書が教える“愛する”とは、恋愛感情とか、男女の愛といったこととは違います。
主イエスは、律法の掟の中で最も重要なものとして、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22章39節)という掟を挙げました。相手を“自分”と思って接する、ということです。それは、相手を“大切にする”ということではないでしょうか。
 日本に最初にキリスト教を伝えた宣教師たちは、“神の愛”という聖書の言葉を、当時まだ日本には“愛”という言葉と概念がなかったからでしょう、そこで“神のご大切”と訳しました。神があなたを大切にしてくださる。その喜びが、自分の心にしみとおった時、自分もまた相手を大切にしようという思いが湧き上がってくる。
 それが、愛するということです。そしてそれは、自分の好きな人だけを愛すればよいのではありませんし、相手が自分を愛してくれたから、見返りに自分もその人を愛するというのでもありません。相手が自分を愛していなくても、もっと言えば、相手が自分を憎んでいても、嫌っていても、自分はその人を愛する、大切にする。愛する相手を、自分の考えや好みや価値観や感情で選べない。だから、愛することを実生活の中で実践しようとすることは簡単ではないのです。厳しいのです。
 けれども、弟子たる者は、クリスチャンは、愛することにチャレンジすることを、主イエス・キリストから求められています。言わば、私たちは“愛のチャレンジャー”です。


 フィレモン。今日読んだ手紙を、パウロからもらった人です。フィレモンもまた、自分の実生活において、愛にチャレンジすることを求められていました。いや、フィレモンが、愛からチャレンジされている、と言っても良いかもしれません。
ところで、この手紙をフィレモンに送ったパウロとは、当時、ユダヤから今で言うトルコ、ギリシアの町々にキリストの救いを宣(の)べ伝え、クリスチャンと教会を生み出した人物です。この手紙を書いた時は、キリストの教えを伝道したことで捕らえられ、「囚人」(9節)として、どこかの町の獄中にあったようです。フィレモンも、パウロの伝道によってキリストの教えと救いを知り、信じてクリスチャンとなりました。19節に記されている「あなたがあなた自身を、わたしに負うていること」というのは、そのことを言っているのです。つまり、フィレモンはパウロによって救いの恵みを与えられた。その意味ではパウロに借りがある、ということです。
 話が少し逸れましたが、フィレモンもまた、愛することを求められていました。パウロから、と言うよりも、この手紙を通して、キリストから求められていると言って良いでしょう。だれを愛することを求められたのか。オネシモという人物です。このオネシモはフィレモンの奴隷でした。
 当時、パウロやフィレモンが生きていたローマ帝国の社会では、奴隷制度が当然のものとして敷かれていました。未開の地域から奴隷として連れて来られた者もいたでしょうし、借金のかたに自分自身を奴隷として売った者も少なからずいたでしょう。
 オネシモは、フィレモンのもとから逃げ出したようです。しかも、「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら」(18節)とありますから、逃げ出す時に、何かしらフィレモンの財産や持ち物を持ち逃げしていたかも知れません。このオネシモが、不思議なめぐり合わせでパウロと出会い、キリストの教えを聞いて信じ、パウロから洗礼を受け、獄中のパウロの世話をする者となっていたのです。
 逃亡している奴隷を見つけたら、その持主に連絡し、送り届ける義務が市民にはありました。奴隷制度を維持していくためです。捕らえられ、送り届けられた奴隷の運命は悲惨でした。良くて元通りの奴隷にされる。しかし、主人の腹立ちや他の奴隷への見せしめのために殺されることも少なくなかったようです。
 パウロは今、オネシモをフィレモンのもとに送り返そうとしています。当時の常識で考えれば、逃亡し、しかも主人の財産を盗んで逃げた奴隷には、死の運命が待っていたでしょう。
けれども、フィレモンはクリスチャンでした。キリストの愛を知る者でした。当時の社会常識や価値観以上に、信仰と愛によって生きている人でした。パウロは、フィレモンの「愛に訴えて」(9節)、オネシモを「奴隷としてではなく」(16節)、「愛する兄弟として」(16節)迎え入れることを願って、この手紙を書いたのです。
 オネシモは、パウロが「監禁中にもうけたわたしの子」(10節)でした。“信仰の子ども”でした。「わたしの心」と言うほどの存在でした。不思議なめぐり合わせで監禁中のパウロと出会い、パウロからキリストの教えを聞き、教えを受け入れて洗礼を受けようと志したオネシモは、パウロに、自分が逃亡奴隷であることと、これまでの経緯と犯した罪の一切を告白したことでしょう。その告白の中で、オネシモがフィレモンの奴隷であることを知ったパウロには、オネシモとの出会いが偶然とは思えなかったでしょう。神さまのご計画、お導きと確信したに違いありません。だから、15節で「彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは」と記しているのです。
 オネシモは自分の意思で逃げ出したのです。フィレモンのもとから誰かによって引き離されたわけではありません。けれども、オネシモとの出会い(機縁)に、パウロは、オネシモが自ら逃げ出したことを、人生の深い意味で、神さまが引き離したことだと、つまり神さまのご計画であったと信じて受け止めたのです。
 人生には、不思議なめぐり合わせ、出会いを感じることがあります。そこに、私たちも、私たち人間の意思や計画以上の、何か神秘的な導きのようなものを認めて、それを神さまのご計画と信じるのです。ここにおいでの皆さんは少なからず、ご自分の人生にそのような神のお働き、ご計画を感じたことがあるのではないでしょうか。
 そのような、奇(く)すしき神のご計画の下で、オネシモが信仰を与えられ、洗礼を受けたのです。そして、監禁中のパウロに仕えるようになった。そのことをフィレモンに知らせずにおくこともパウロにはできたでしょう。もし送り返した場合、オネシモに命の危険があると感じたら、パウロは知らせなかったでしょう。
 けれども、パウロはフィレモンの「愛」を信じて、オネシモを送り返すことにしました。「愛に訴えて」、オネシモを奴隷として遇するのではなく、「愛する兄弟」として迎え入れることを願いました。当時の社会常識や価値観ではなく、オネシモを「一人の人間として」(16節)、キリストを信じる信仰を同じくする信仰の「兄弟として」大切にし、愛することを求めたのです。


 「愛する兄弟」として大切にする、愛する。それは、現代における私たちにも求められていることです。もちろん、当時の常識であった奴隷制度は、私たちが生きている社会には存在しません。けれども、奴隷と主人という関係はなくとも、私たち一人一人にも、愛することが厳しい関係、“愛し難い相手”がいるのではないでしょうか。家庭において、職場において、学校において、そして教会においても、“この人は苦手。虫が好かない。どうしても合わない”、そう感じて腹を立てている相手、付き合うのに苦労している相手がいるのではないでしょうか。
 愛せない原因が相手の方に多くある、そういう相手がいることも事実です。しかし、だからと言って、愛さなくて良いということにはならないでしょうし、自分の考えや好みで、“この人(こんな人)は愛さなくていい”と、心の中で決めつけているかも知れません。
 そのような私たちに、今日のフィレモンへの手紙は問いかけて来ます。チャレンジして来ます。どんな人も、「愛する兄弟」として、キリストを愛するように迎え入れなさい、と。腹の立つ嫁・姑も「愛する兄弟」として、嫌な上司も「愛する兄弟」として、意地悪な友達も「愛する兄弟」として、反りの合わない教会員も「愛する兄弟」として、愛することを求めて来ます。この御言葉に本気で従おうと思ったら、心の中に葛藤(かっとう)が起こるに違いありません。難しい、厳しい求めです。けれども、まず相手を“憎い相手”“嫌な相手”ではなく、「愛する兄弟」として見るように心がける。それが第一歩でしょう。そのように意識したら、私たちは少し変わってくるでしょう。
 何より受け止めていたいのは、神さまが私たちを“愛する子”と暖かく見ていてくださる、という恵みです。受け入れ難い“罪人”にもかかわらず、“愛する子”として大切にしてくださる。「愛する兄弟」と、キリストは私たちを受け入れて、私たちを愛するために命まで捨ててくださった。その神の愛を、ジーンと心に感じる時、私たちは、聖霊のお働きによって、変えられて来るでしょう。
 フィレモンへの手紙、それは過去の手紙ではありません。現代にクリスチャンとして生きる私たち一人一人への手紙です。“私”への、“山岡創”への手紙です。この手紙を通して、キリストは私たち一人一人に、それぞれの置かれた場所で、愛によって生きるように訴えて来るのです。

記事一覧   https://sakadoizumi.hatenablog.com/archive
日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.H.P  http://sakadoizumi.holy.jp/