坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2010年7月11日 日本基督教団信仰告白2「人を救いに導く言葉」

聖書 テモテへの手紙(二)3章10〜17節
説教者 山岡創牧師

◆最後の勧め
3:10 しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、
3:11 アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。
3:12 キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。
3:13 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。
3:14 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、
3:15 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
3:17 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。


          「人を救いに導く言葉」
 テモテへの手紙(二)は、新約聖書の時代において最も広く異邦人伝道を行ったパウロから、同じく伝道者であったテモテに送られた手紙です。テモテは、小アジアのリストラという町に住む、ギリシア人を父とし、ユダヤ人を母とするハーフの若者でした。パウロが2度目の伝道旅行を行った際に、ぜひこの若者を連れて行きたいと思ったほどに、信仰の深い、熱心な若者だったようです。それは、「幼い日から聖書に親しむ」(15節)ことで培(つちか)われてきたものだと思われます。そして、パウロによってイエス・キリストの救いを学び、パウロの訓練を受けて、キリストを宣(の)べ伝える者となったのです。
「また、幼い日から聖書に親しんできたことも知っているからです」(15節)。
 ユダヤ人の子どもは、幼い時からユダヤ人が集会をする会堂で、聖書を学びます。と言っても、この時代ですから、私たちが旧約聖書と呼んでいる律法と預言書です。ユダヤ人の子どもは、すべてこれらを暗記するのです。その上で、その意味内容を学んでいく。半端(はんぱ)でない親しみ方です。
 私も、両親が牧師でしたから、生まれた時から教会育ちであり、「幼い日から聖書に親しんできた」と言うことができるかも知れません。けれども、ユダヤ人の子どもたちの親しみ方に比べたら、その比ではありません。私は教会の天井裏に遊びでもぐりこんで、天井板をぶち抜いてしまうような、性(しょう)もない子どもでした。教会学校で聞いた聖書の話もほとんど覚えていません。それでも、自ずと体に覚えさせられたもの、魂に刻まれたものがあったのかも知れませんね。


 パウロはテモテに、幼い日から親しんできた聖書を、次のようなものとして諭(さと)しています。
「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(15〜16節)。
 この御言葉の中に、聖書に対する私たちの信仰が示されています。私たちは、聖書に基づき、日本基督教団信仰告白において、聖書を次のようなものとして信じます、と告白します。
  旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証しし、福音の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
 聖書は、正典であり、神の言葉であり、規範であると3つのポイントが挙げられています。
 “正典”とは何でしょうか? 簡単に言えば、これだけで神の救いについて完全な知識が得られる書物だ、ということです。これ以外にも、神の救いを知るのに別の書物が必要だという話になると、それは“キリスト教もどき”になります。いわゆる“異端”と呼ばれる宗教で、正統キリスト教ではなくなります。旧新訳聖書は正典であると告白する時、私たちは、“神の救いについて知るには、これで十分です。これ以外には要りません”と言っている、ということです。
 皆さんは、正典と呼ばれる聖書の他に、外典とか偽典と呼ばれる書があるのをご存知でしょうか? 例えば新約聖書で言えば、主イエスの宣教、伝道以降、弟子たちによって多くの福音書や様々な手紙が書き記されました。ここに荒井献氏が編集した『新訳聖書外典』(講談社文芸文庫)がありますが、私たちが聖書で知っているもの以外に、例えばペテロ福音書とか、ニコデモ福音書、セネカとパウロの往復書簡といったものがあるのです。今、挙げたのはほんの一部で、他にも多くの福音書や手紙があります。
 では、それらの福音書や手紙はなぜ聖書の中に入れられなかったのでしょう? それは、キリストを証しし、神の救いについて教えるのに不適格だと判断されたからです。例えば、子どもの頃のイエスが泥をこねて12羽の雀を作り、それが羽ばたいて飛んで行ったという話を載せている書物があります。そういった内容は、あまりにも度が過ぎていて不適格だと判断されたのです。
 多くの福音書、手紙が、新約聖書としてまとめられ、正典として認められる教会会議が397年にありました(カルタゴ会議)。それによって、正典としての新約聖書が生まれました。ちなみに、旧約聖書が正典として編集されたのは90年です。今、私たちが手にしている聖書は、そのようにして生まれたのです。
 けれども、正典としての聖書に選ぶ際の取捨選択は、人間の考えと判断でなされたのではないか、と思われるかも知れません。確かに、人が考え、判断して、取捨選択したのです。しかし、その会議に関わった人々の考えと判断は聖霊の働きによってなされたと信じるのです。神ご自身が、聖霊によって取捨選択なさったと信じるのです。“旧新訳聖書は神の霊感によりて成り”と信じて告白するのです。そうでなければ、私たちは、聖書を正典とも、神の言(ことば)とも認めることはできません。


 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」と16節に記されています。その御言葉に基づいて、私たちは、“旧新訳聖書は神の霊感によりて成り”と告白します。
 ここで、神の霊の導きの下に書かれた神の言のことをお話しする前に、私たちの信仰告白が、“旧新訳聖書”を正典とし、神の言とし、規範として認め、告白していることに触れます。
 皆さんの中には、旧約聖書は要らないのではないかと、ふと思ったことのある方がいらっしゃるのではないでしょうか? そのように考えて、聖書を扱おうとした人が、歴史上やはりいたのです。
 けれども、神の救いとは、もちろん主イエス・キリストの言葉と、なさった業がその中心なのですが、それだけで考えるものではなく、旧約聖書によっても示され、続いている神さまの救いの歴史とご計画という大きな枠の中で考えようというのが、私たちの信仰です。
 神さまは、御心によって天地を創造し、そこに地上を治める者として人間をお造りになりました。けれども、最初の人アダムとエヴァの物語に象徴されるように、人間は神の御心に従って歩むことができず、地上に罪と悪がはびこりました。そのような状態から、何とかして人間を救い出し、ご自分の御心に沿う者にしようと、神さまはアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルの民を、ご自分の御心に従うモデルにし、イスラエルを通してすべての人間を救おうとなさったのです。それが旧い救いの約束であり、旧約聖書に記されていることです。
 けれども、イスラエルの人々は繰り返し神に背き、御心に従って生きることができませんでした。そこで、神さまは、ご自分の独り子であるキリストをこの世に送り、キリストによってご自分の愛と赦しを宣べ伝えさせ、キリストの十字架の犠牲によって、すべての人間の罪を贖い、ご自分と和解させる新しい救いを実現なさったのです。これが新しい救いの約束であり、人の行いではなく、キリストの恵みによって、これを信じる者は救われると宣べ伝えられています。
 そして、信じて救われた者は、世の終わりと呼ばれる、神の国の実現の時、天地創造の最初のような世界が回復される時を待ち望みながら歩んでいるのです。
 このような神の救いの歴史、ご計画の中で、私たちは救いを考えるのです。だから、旧約聖書は“キリストの待望の書”と呼ばれ、新約聖書は“キリストの救いの実現の書”と言われたりします。それ故、私たちは、旧新訳聖書の両方を、正典、神の言、規範と認めて告白するのです。
 さて、聖書は神の霊の導きの下に書かれた神の言だという話に戻りますが、聖書に載せられている各書物は、それぞれの著者が、その時と場所において、信仰によって書き記したものです。その意味では、“人間の言葉”です。
 けれども、それでは信仰があるとは言え、それぞれの著者が自分で考えて神さまのことを書き表したことになり、それが本当に神さまの御心やご計画を正しく表しているのかどうか分かりません。極端に言えば、人間の勝手な想像ということになります。それでは、私たちは聖書を通して神さまを信じることはできません。
 けれども、それら一つ一つの書が、著者の勝手な考えで書かれたものではなく、「神の霊の導きの下に」書かれた、と信じるなら、それはただ単に人間の言葉というのではなく、神の救いを表す言葉、神さまご自身が聖霊によって書き表した神の言ということになります。書き表した著者たちの内に聖霊の働きがあったと信じる。それによって私たちは聖書を“人間の言葉”ではく“神の言”と告白できるのです。
 私たちが信じる神さまは、目で見ることも、手で触れることも、直接話し合うこともできません。では、どうして神さまをリアルな方として信じることができるのでしょう。それは、神の言としての聖書があるからです。
 日本の歴史において、高貴な身分の者は、相手に直接姿を現さず、御簾(みす)と呼ばれるすだれの陰から話したと言います。すると、相手は本人の姿は見えないけれど、その声(言葉)で本人の存在を確認し、コミュニケーションを取ることができました。更に極まると、高貴な人は直接言葉すらかけない。取り次ぎの係を通して、コミュニケーションをした。それでも、相手は本人の存在を信じ、やり取りをしたのです。
 私たちが、神さまを信じるのも、それと同じようなこととして考えられます。聖書が言わば“取り次ぎ係”です。聖書に示された神の言によって、私たちは神を信じ、神の御心を示され、それに従って信仰の道を歩むことができる。だから、聖書を神の言と信じることは、私たちの信仰の土台です。


 最後に、聖書が“規範”であることをお話します。規範とは、それによって行動したり、判断したりする基準のことです。16節に「聖書は‥‥人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」と、聖書が信仰と生活の規範であることが示されていました。
 とは言え、これは違うのではないか、むしろ間違っているのではないかと思われる箇所がところどころにあります。例えば、旧約聖書で戦争を肯定する内容などです。しかし、私たちは、聖書が書かれた時代背景なども考えて、現代に生きる私たちにも通用する原則、真理は何かと読み取ることが大切でしょう。
 そういったことも含めて、私たちは、聖書は信仰と生活の規範であると告白します。私も、聖書がなかったら、自分勝手な、間違った信仰に生きていたと思います。私は青年の頃、立派な行いの人が神さまに救われると信じていました。そして、行いにつまずくと、自分のようなものは救われないと落ち込んでいました。そういう私の間違った信仰を、キリストの恵みによって無条件で救われるという信仰へ導いてくれたのは他ならぬ聖書です。また、私は自分のことを大して愛のある人間だとは思いませんが、聖書と出会っていなかったら、今よりもっと愛のない、とんでもなく自己中心な人間になっていたのではないかと思うことがあります。
 聖書は私たちの規範。そう信じて従う時、私たちの人生には喜びがあり、愛があります。


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