坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2010年9月5日 日本基督教団信仰告白5「私たちの命を生かす神の命」

聖書 ローマの信徒への手紙3章21〜26節
説教者 山岡創牧師

信仰による義
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。


          「私たちの命を生かす神の命」
 皆さんが、街の中で“あっ、ここは教会だ”と、その建物に気づく一番の理由は何でしょうか? もちろん、○○教会と看板が出ているということもあるでしょう。しかし、それ以上に、ここは教会だと一発で分かるビジュアルな理由があります。それは十字架です。建物のどこかに十字架が掲げられていると、ここは教会だと一目で分かります。
 この会堂に移転する前、私たちの教会は高麗川の土手際にある中古の家で礼拝を守っていました。小さな、普通の家でしたから、もし十字架を掲げていなかったら、教会とは分からず通り過ぎる人も少なからずいたでしょう。だから、十字架だけは、とても立派なものを屋根の上に取り付けました。
 その時の十字架が、今、この会堂の大屋根のトップに掲げられています。余談ですが、最初は、北側の玄関の屋根の上にある十字架が、この会堂のトップに取り付けられる予定でした。ところが、建物の大きさに比べて、出来上がって来た十字架は思っていたよりも小さなものでした。そこで急遽、以前の会堂の十字架を取り外して、それを付けることになり、新しい十字架は玄関の上に取り付けました。結果として、古い会堂の“魂”を受け継ぐような形になり良かったと思いますし、また、より大きな十字架をこの会堂のトップに掲げることができました。
 そのように、十字架は教会の最大のシンボルです。けれども、それが見かけ倒しであってはなりません。十字架は、単なる屋根の上の飾りではないのです。また、十字架の形をしたペンダントやイヤリングがありますが、それは本来アクセサリーでもありません。古代世界において、十字架は元々、人を処刑する道具、磔(はりつけ)にする道具でした。そして、私たちが救い主と信じ、神と信じるイエス・キリストが、この十字架に磔にされ、処刑されて死んだのです。そして、この十字架の出来事を、私たちクリスチャンは、イエス・キリストが私たちの罪を償うためにご自分の命を差し出してくださったのだ、それによって私は救われたのだ、と信じるのです。
 そういう救いの信仰を込めて、私たちは十字架を掲(かか)げているのです。十字架を教会に掲げることによって、私たちは、イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、救われた者の集まりです、ということを、この世に向けて発信し、証ししているのです。
 十字架とは、私たちクリスチャンにとって、単に形の上ではなく、信仰の上で最大のシンボルなのです。だから、もし私たちがだれかから、“キリスト教の信仰って何ですか?”“あなたの信仰はどんな信仰ですか?”と尋ねられたら、“イエス・キリストが私の罪を償うために十字架にかかり、ご自分の命をささげてくださいました。それによって、私の罪が神に赦され、救われたと信じています”と答えたら良いのです。この信仰を、頭の中の知識ではなく、実感として自分のものにし、生きる上でいちばん大切な価値観にまで深めて、そう答えることができるように、聖書の御言葉に聴き、従い、信仰の修行を歩み続けることが大切です。


 十字架の信仰、私たちはこの信仰を、日本基督教団信仰告白の中で、次のように言い表しています。
御子は(イエス・キリスト)‥‥‥十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖いとなりなりたまえり。神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。
 この信仰告白の元になった聖書の御言葉はいくつかあると思われますが、その中で今日はローマの信徒への手紙3章の御言葉を聴きました。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(23〜24節)
 「贖(あがな)い」という言葉が出て来ました。この言葉はおそらく現代では死語となっているので、先ほどは敢えて使いませんでした。贖いとは、罪や汚れを免れるためにお金や物を差し出すことを言います。
 旧約聖書の世界、ユダヤ人たちは、神に対して罪を犯した時、その罪を赦され、罰を免れるために、動物を犠牲として差し出し、神さまに献げました。それを贖いと言いました。そして、その贖いの信仰と行いから、イエス・キリストの十字架の出来事も理解され、信じられるようになったのです。すなわち、イエス・キリストが私たちの罪を贖うための究極の犠牲になってくださったのだ、と。
 そのことを最も強く感じたのは、イエス・キリストの直(じき)弟子たちであったでしょう。福音書に記されているように、主イエスが捕らえられ、十字架に架けられた時、弟子たちは逃げ去ったり、イエスを知らないとイエスとの関係を否定しました。そのような一連の流れの中で、その後、不思議にもイエスの弟子たちは追及され、捕らえられることはありませんでした。主イエス一人だけが処刑され、事が済みました。どうしてでしょうか。それは、福音書にははっきりと記されていませんが、ペトロら弟子たちも捕らえられ、ユダヤ人の法廷で尋問された。その際、イエスとの関係を否定し、今後イエスの教えから離れると誓うことで、彼らは罰を免れたのではないか。そのように、既に天に召されたカトリックの作家・遠藤周作氏等は推測しています。私もその可能性は十分あると思います。あるいは、主イエスと弟子たちは一緒に捕らえられ、尋問された法廷で、主イエスが弟子たちの前で、自分一人を処刑することで弟子たちは赦してほしいと言ったのかも知れません。そうだとすれば、弟子たちは、イエス・キリストが、自分たちを救うために命を差し出し、十字架刑を受けて贖いとなってくださったのだと強く感じ、信じるようになったのも不思議ではありません。
 そして、もう一人、イエス・キリストが十字架に架かった出来事を、罪の贖いだと強く受け止めた人物がいました。それが、ローマの信徒への手紙を書いたパウロです。パウロは最初、クリスチャンを迫害していました。けれども、ペトロら直弟子たちから伝えられ広まった福音に触れて、いつしか回心し、クリスチャンを迫害し、処刑し続けた罪も、イエス・キリストの贖いによって赦していただいたのだと強く信じ、その恵みを伝える者となったのです


 イエス・キリストの十字架は、私たちの罪を償い、罰を免れさせるためにイエス・キリストがご自分の命を差し出し、犠牲となってくださった贖いの出来事、救いの出来事である。その信仰は、その恵みをリアルに味わった人々によって伝えられました。そして今日、私たちの教会も、十字架の信仰を伝道する使命を託されています。
 けれども、私たち日本人が、最も受け入れ難い信仰の教えこそ、罪の問題と、その罪がイエス・キリストの十字架の死によって赦されるという贖いの教えではないでしょうか。いったい私のどこに罪があるのか? そりゃあ、ちょっとした誤り、ちょっとした失敗はあるかも知れない。けれども、神の命とか、そんな大問題になるような大きな罪なんて、私は犯したことがない。また、もし私に罪があるとしても、その罪の赦しが、どうしてイエス・キリストの十字架によってなされたと言えるのか? 2千年前の出来事と現代の私と何の関わりもないではないか? 多かれ少なかれ私たちはそのように感じる、あるいは感じたことがあるのではないでしょうか。十字架の贖いの教えをスーッと自分の心に受け入れられるという人の方が少ないと思います。洗礼を受けたクリスチャンであっても、そうかも知れません。そして、十字架の信仰を棚上げにして、それに敢えて触れようとせずに信仰生活を歩んでいる場合もあるかも知れません。分からないものは分からない。だから保留でよいのです。しかし、棚上げにしてはなりません。キリストの十字架とは、“この私”にとって何なのか? 向き合い続けることが大切です。そうしていれば、いつか自分の心にストンと納得される時が来るに違いありません。
 聖書が言う「罪」とは、ただ単に法を犯した犯罪のことではありません。また、単に一つ一つの悪い行いや誤った行動のことを言うのではありません。神さまと自分(人)の関係が健全ではなく、おかしくなっていること。それが、聖書で言う「罪」です。だから、神さまを信じていなければ、神との関係は成り立ちませんから、「罪」ということも理解することができません。逆に神さまとの関係が健全な状態であることを「義」と言うのです。
 では、神さまとの関係が健全か不健全かということが何によって判断できるかと言えば、それは聖書の御言葉によって分かります。御言葉には神さまの御心が示されている。その御心に聴き従って生きているかどうかで健全か不健全かが分かるのです。そういう意味で考えてみれば、犯罪や悪い行い、誤った行動も、神さまの御心に適わないから罪ということにはなります。けれども、罪はそれだけではありません。人を傷つけることも罪だと思いますし、憎しみや妬(ねた)みも罪だと思いますし、自惚(うぬぼ)れて高慢になることも罪だと思いますし、自分を認めないことも罪だと思いますし、絶望することも罪だとさえ思います。“罪”という言葉の響き、ニュアンスで考えると、どうしてそれが罪なの?と思われるかも知れませんが、むしろ生き方が健やかではない、と考えた方が分かりやすいと思います。
 そのように生き方の健やかでない状態に全く気づかず、自分の中で問題にもならない場合もあるでしょう。ちょっとまずいかな、と感じながらも、それほどでもないと思う場合もあるでしょう。そういう中で、自分の心が押しつぶされそうになるような、胸が重く呼吸が苦しくなるような不健全さ、痛さ、罪を感じることがあります。自分のせいでだれかを深く傷つけてしまった時等に、居ても立ってもいられないような罪を感じることがあります。しかも、そういう罪の中には、自分ではもはやどうしようもない、償いようもないものもあります。謝ろうにもタイミングが遅すぎて、今さら言えない、自己満足に終わるだけだという場合もありますし、償うことのできないこともありますし、何をやっても取り返しがつかないこともありますし、人間として深く落ち込むのはこういう時だと思います。
 そのように深く落ち込んだ者には、本当に神の赦しが必要なのです。自分ではどうにもならない人生の罪を、人間の知恵・力をはるかに超えたものによって、自分という存在が丸ごと赦され、自分の命が丸ごと包まれているような福音と体験が必要なのです。人は罪を犯す。しかし、人は赦されて生きている。“私”は赦されて生きている。そのような根源的な命の安心感が、私たちには必要なのです。
 イエス・キリストの十字架は、2千年前の出来事として、私たちには直接関係がありません。けれども、時空を超えて、私たちは赦されて生きている。だから、安心して良い、という福音を、私たちに語り伝えているのです。その福音を聴き、信じ、味わう時、イエス・キリストの十字架は、私たちの心の中で、“私”を救う恵みの出来事となるのです。

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