坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2010年9月19日 高齢者を覚える礼拝「この最後の者にも」

聖書 マタイによる福音書20章1〜16節
説教者 山岡創牧師

◆「ぶどう園の労働者」のたとえ
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」


           「この最後の者にも」
 私は、神さまのぶどう園に、夕方5時に、最後に雇われた者だから‥‥‥。
 昨年の4月に、91歳で天に召されたMさんが、よくそのように言っておられた言葉を思い出します。Mさんは、お連れ合いを亡くされた後、60歳を過ぎてから教会においでになるようになり、63歳で洗礼をお受けになりました。それまでは神さまと関わりなく生きてきた者が、人生の晩年に至って、信仰を与えられ、救いの恵みに預かったご自分を、1日の最後に雇われたぶどう園の労働者に重ね合わせていたのです。
 最後に雇われた者だから、自分には信仰生活の経験もなく、何も分かっていないとお考えになったのでしょう。足を悪くされて、教会においでになれなくなるまで、朝の礼拝に、夜の礼拝に、そして木曜日の聖書と祈りの会に、欠かさず出席されました。
けれども、その熱心さは、自分が今まで神さまのために働いて来なかった分を働いて、神さまにその信仰生活を認めてもらおうと思って、なさったのではありません。そうではなくて、神さまのために働いて来なかった者が、にもかかわらず神さまに愛され、赦され、認められ、救われている。その恵みが嬉しくて、感謝して、なさったことです。自分は最後に雇われた者だから。それは、信仰生活の短い自分に対する劣等感や焦りではなく、そのような者を救ってくださる神さまに対する感謝の言葉でした。


 主イエスは、マタイによる福音書の中でしばしば、「天の国」(1節)について語っておられます。これは、他の福音書の中では“神の国”と記されています。
 天の国と言っても、単純に“天国”のことを言っているのではありません。死後の世界、私たちが地上の生涯を終えて召されるところのことを言っているのではありません。むしろ、生きている間の世界です。天の国と言うとき、それは地上とは次元を異にする世界、価値観を異にする世界を表しています。神さまの御言葉を聴き、従うことで、私たちは、目には見えない天の国を、この地上で生きるのです。信仰による価値観、人生観を持って生きるということです。
 主イエスは「天の国」を、様々なたとえで語りました。今日の聖書箇所では、「ぶどう園」(1節)にたとえられています。主イエスが生きておられた2千年前のパレスチナでは、そこここに、ぶどう園がありました。だから、ぶどう園の主人が、広場に出かけて行って労働者を雇うという話は、当時のユダヤ人には日常的な光景でした。朝一番だけでなく、様子を見ながら、1日の途中で労働者を補充するということもあったのではないでしょうか。だから、主イエスのたとえを聞いていた人々も、最初はうなずきながら聞いていたに違いありません。
 ところが、このたとえが現実と大きく違って来るのは、その支払いの場面です。当時、1日働いた労賃の相場は1デナリオンでした。だから、ぶどう園の主人は、朝一番で雇った労働者たちと「一日につき一デナリオンの約束」(2節)を交わしています。
 ところが、1日の終りになって、労賃が支払われる時、夕方5時に雇われた者が先に呼ばれて、何と1デナリオンを手渡されました。これは、もらった本人も、周りで見ていた他の労働者たちもびっくりしたに違いありません。常識では考えられないことです。
 けれども、この後、更に驚くべきことが起こりました。朝一番から働いた労働者に渡された賃金も、同じ1デナリオンだったのです。
 当然のごとく不平が爆発しました。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」(12節)。
 この不平はもっともだ、と皆さん、思われるのではないでしょうか。同じ労働をしているなら、その労働時間に比例して賃金が支払われるのが常識です。
 私は、大学生になって初めてアルバイトをしました。最初にしたのが、川越にある〈とんでん〉というファミリーレストランでした。厨房でてんぷらを揚げたり、魚を3枚におろして刺身を作ったりしていました。当時の時給は550円。でも、自分が働いて生まれて初めてお金をもらえるのが嬉しくて、今月は何時間働いたからアルバイト料は幾らだと計算しては、ほくそ笑(え)んでいました。
 労賃は労働時間に比例して支払われる。常識です。朝一番から働いた労働者たちは、夕方5時から雇われた者よりも10倍以上の時間を働いていたと思われます。だから、それに比例して10倍以上の労賃がもらえると期待したのです。いや、10デナリオンもらえるとは思わなかったかも知れませんが、少なくとも2倍や3倍はもらえるものと思ったのでしょう。ところが、手渡されたのは同じ1デナリオンでした。不平が出て当然です。
 それに対して、主人はこう答えています。
「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受けとって帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。‥‥‥」(13〜14節)。
 主人は確かに、不当なことはしていないかも知れません。けれども、働いた時間と量に比例して、それに見合う報酬が支払われるという常識を無視しています。支払いは、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」という主人の気持、憐みの心からなされているのです。
 働きが評価される常識ではなく、神の憐れみの心が基準となる世界。それが「天の国」です。信仰による基準であり、そこからこの世の常識や価値観とは違った、新しい生き方が始まります。


 私は、このたとえを読んだ(説教で聞いた)当初は、じゃあ、朝一番から働いたら損だから、自分は夕方5時に、神さまに雇ってもらおうと思いました。子ども心に損得を考え、計算高くなっているのです。でも、このたとえはもちろん、そのような計算を私たちにさせようとしているのではありません。
 このたとえのメッセージが、“喜び”として私の腑(ふ)に落ちたのは、私が自分のことを、夕方5時に雇われた者なのではないかと感じた時でした。つまり、自分には“働き”がないと感じた時でした。高校を卒業して浪人をしている時でした。まじめに受験勉強をしていたら、そうは思わなかったでしょう。けれども、進路に悩み、何をしたいか分からず、勉強する気持になれませんでした。自分は何もしていない、役に立っていない、そう感じていました。
 それまでの私は、目標を持って、やりたいことがあって、一生懸命生きていました。だから、自分が働いていないとは夢にも思ってはいなかったのです。だから、無意識のうちに自分のことを朝一番から働いている労働者、人生を一生懸命生きている人間と自負していたのでしょう。そのため、このたとえの支払いには納得がいかなかったのです。
 けれども、自分は夕方5時に雇われた、働きのない人間だ。だめ人間だと感じて落ち込んだ時、このたとえの本当の意味が初めて見えました。
 人の命は、神さまのためにどれだけ働いたかで、神さまから評価されるものではない。もう少し砕(くだ)いて言えば、私たちの人生は、どれだけのことを熱心に行い、結果を出したかで価値の決まるものではない、肯定されたり否定されたりするものではない、とうことです。この世は、行いと働き、その結果で、人を“勝ち組”だ、“負け組”だと評価するけれど、命の本来の値打ちは、そんなことで決まらない。人生は、その働きに関わらず、等しく1デナリオンをいただくことのできる世界です。神に認められているのです。
 働きのない私が、それでも神さまから1デナリオンをいただける。自分の不甲斐ない人生を、価値ある者として認めていただける。それが分かった時、喜びと平安が、心に満ちあふれました。
 つい最近も、この恵みを改めて、別の御言葉から感じることがありました。それは、先日のディボーションの時間でした。そこで黙想した御言葉は、マタイによる福音書6章25節以下の、“その鳥を、野の花をよく見なさい”と主イエスが教えられた箇所でした。ここ1ヶ月余り、暑さのためか、疲れのためか、忙しさのためか、私は、牧師の仕事に一生懸命になれない自分の怠慢さを感じていました。こなしてはいるけれど、どこか逃げているような、よしっ!と前向きになれない自分を感じていました。こんな自分はだめだ、嫌だ‥‥‥そうは思っても、ファイトが湧いてこないのです。
 そんな時、先の聖書箇所で、「働きもせず、紡ぎもしない」(6章28節)という御言葉に打たれるものがありました。働きもせず、紡ぎもしない野の花を、神さまは美しく装い、養ってくださる。そのことを示された時、“自分はこれでいいのだ”と思いました。働きもせず、紡ぎもしなくとも、神さまはこの“私”を認めてくださっている。愛してくださっている。そのことに気づいた時、心が軽くなり、平安を感じました。
 もちろん、働かなくていいとか、一生懸命努力することが悪いと言っているのではありません。それは生きていく上で、尊いことですし、大切なことですし、必要なことでもあります。それによって味わう喜びや悔しさが、貴重な経験として私たちの人生を育てることも事実でしょう。けれども、私たちの命は、ありのままで価値のあるもの、良いもの、肯定されるべきものだという根本的な人生観と、そこから生まれる喜びと平安が、私たちの心には必要ではないでしょうか。


 本日は、高齢者を覚える礼拝として守りました。高齢者の方々は長い人生を歩んで来られました。よく働き、結果を残された方もおありでしょう。信仰のことで言えば、Mさんのように、人生の後半になってから洗礼を受けて信仰を持ったという方もおられるでしょうし、まだ入信していないという方もおられます。反対に、信仰生活50年以上という大ベテランの方もおられるでしょう。
 けれども、信仰は年功序列ではない。人生は、その働きと結果で価値が決まるのではない。自分の力ではなく、神の恵みの中に生かされてある。そのことを、身をもって若い信徒たちに示していただきたいのです。そして、何歳になっても、恵みに感謝して、神に仕え、人に仕える生き方があることをお示しいただきたいのです。それが、後に続く者たちの“道標”になります。
 「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。神のこの御心の下に生きる人生を、私たちは歩み、受け継いでいきましょう。


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