坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2010年11月7日 永眠者記念礼拝「天の故郷を目指して」

聖書 ヘブライ人への手紙11章13〜16節
説教者 山岡創牧師

11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
11:14 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。
11:15 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。
11:16 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。


       「天の故郷を目指して」
 本日は、教会の暦の上で〈聖徒の日〉と呼ばれる日曜日を迎えました。“聖徒”というのは、週報の礼拝順序のところに書かれているように、“聖なる徒”と書きます。これは、イエス・キリストによって清められ、聖なる者とされ、天国に召された者のことを言います。
 そのように、天国に迎え入れられた人々を偲び、記念する日として、8世紀にこの日が定められました。初めは11月1日と定められたのですが、その後、プロテスタント教会一般では、11月第一日曜日を聖徒の日として、すべての死者を記念する日として礼拝が守られるようになりました。だから、聖徒の日は、日本流に言えば、お彼岸やお盆に当たるものと考えてよいでしょう。ただし、キリスト教信仰においては、死んだ方は天国に召され、既に神さまのそばで平安に暮らしていると信じるので、供養をして迷わず成仏するようにとか、冥福を祈るといった考え方はしません。この日は、教会にとって、天に召された人々を偲ぶ日、そして、やがて私たち自身が召されていく天に思いを馳(は)せ、慰めと希望を与えられる日なのです。


 皆様のお手元に、受付で〈永眠者名簿〉をお渡ししました。1992年に始まったこの教会の歩みも、今年度で19年目を迎えました。その間に、教会員で天に召された方々、教会員ではないけれど教会で葬儀を執り行った方々、また教会墓地に埋葬された方々、等のお名前が、この名簿に記されています。
 昨年の永眠者記念礼拝以降、3名の方々がこの名簿に加えられました。
昨年の11月17日に、Mさんが89歳で天に召されました。Mさんは1994年から私たちの教会においでになりました。お生まれになったご家庭がクリスチャン・ホームだったこともあり、人生の晩年に、川越に住む刺繍の先生の紹介で、おいでになるようになりました。事情があって洗礼をお受けにはなりませんでしたが、求道者として歩み続けました。
 今年8月4日には、教会員であったTさんが82歳で天に召されました。川越にある、キリスト教主義の下に運営されている高齢者施設・ケアハウス主の園に入居なさり、MTさんとのつながりで、2006年からこの教会においでになるようになりました。信頼していたお姉さんを亡くし、神さまを頼ろうと2007年4月のイースターに洗礼を受け、教会員となられた方でした。
 また、今年7月26日には、Fさんという方の追悼礼拝を、この教会で執り行いました。それまで、Fさんとも、またFさんご家族とも、ご縁がなかったのですが、Fさんの1周忌を何らかの形で行いたいとのご家族の希望で、共に追悼礼拝を守らせていただきました。
 愛する者を失うということは、私たちにとって大きな心の痛手であり、深い悲しみ嘆きです。自分の胸に、何とも言えない大きな穴が開いたかのような寂しさ、喪失感を味わうことがあります。そこで時間が止まってしまったかのようなショックを受けることもあります。時間によって、年月によってでは、癒されない悲しみもあるのです。
 10月に、我が家で9年間飼っていた十姉妹が死にました。動物病院に連れて行ってウィルス性の病気が判明し、看護のかいもなく2日後に死にまして、私たち家族は皆、悲しみに涙を流しました。私も1週間ほど、胸に重いしこりを感じながら過ごしました。
 動物でさえもそうなのですから、まして愛する者を失ったら、その悲しみはどんなに深く、辛いものがあるか知れません。
 その悲しみ、痛みを抱えて、私たちはどのように生きれば良いのか。どこに慰めと平安を見つけることができるのでしょうか。聖書は語りかけます。その慰めと希望の源は信仰にある、と。
 もちろん、信仰を持ったら、悲しみ痛みが全く無くなるというわけではありません。信仰は麻酔のように、悲しみ痛みを感じる心を麻痺させるものではないのです。
 ただ、信仰は、悲しみ苦しみのある私たちの人生を支えてくれるものです。何も持たなければ絶望に打ち沈んでしまうような私たちが、悲しみ痛みを抱えながら、それでも1歩1歩、人生を歩いていけるように、私たちの心を支える“杖”の役目をしてくれるものと言ったら良いかも知れません。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」(13節)と、今日の聖書の御言葉にありました。死んだら、すべての終り、魂の滅び、ではないのです。神さまを信じる者は、死の中にも、死の先にも、なお希望を抱き、慰めを見いだします。なぜなら、神が「天の故郷」(16節)を用意すると約束してくださっているからです。


 アブラハムという人がいました。“信仰の父”と呼ばれた人物です。このアブラハムについて、直前の8節に次のように記されています。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのです」。
 アブラハムは、神さまのお召しに従って、神さまの御言葉を信じて、行く先も知らずに出発したのです。行く先も知らずに、先のことが見えないまま出発するのは、大変な勇気が要ります。ある意味、冒険です。しかし、彼は神を信じて、新たな人生へと出発したのです。
 その時の様子、アブラハムの物語が旧約聖書の初め、創世記12章以下に記されています。その時、アブラハムは、神さまからこのように声をかけられ、召されました。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(創世記12章1〜2節)。
 その声に従い、アブラハムはハランという地を離れ、75歳で出発したのです。行く先は分からない。神さまはただ、“わたしがその地を示す”と言われただけです。人間の経験や常識で考えられる保証は何もなかったでしょう。それでも、アブラハムは、神さまが“新しい故郷”を用意してくださっていると信じ、神の祝福を信じて出発したのです。
 一つ言えることは、それまでアブラハムが生きてきたのは、神のいない土地、神のいない人生だったでしょう。そこから、神と共に歩む人生へと出発したのです。自分の経験や常識、人間的な知識や力、それらに頼って生きてきた人生、実はそういったものが不確かで、頼りなく、虚しいものであることに気づいて、変ることのない永遠なるもの、確かな、力あるもの、すなわち神を頼りとし、神の言葉に聴き従う人生を歩み始めたのです。
 その新たな人生を、今日読んだヘブライ人への手紙の御言葉で表すならば、「地上ではよそ者であり、仮住まいの者である」(13節)ということでしょう。この言葉は本来、前者が外国の土地に一時的に滞在している外国人、後者は市民権を持たずに居住している外国人を意味しています。けれども、13節の御言葉は、自分の出身地、自分の国が地上の他の土地にあるから、ということではなく、自分の出身地は“天”にあるから、天を自分の故国、自分の故郷としているから、この地上は「仮住まい」の場所だと言っているのです。神さまを信じる者は、神の住まいである天こそが、自分の本当の住まいであると、命の故郷、魂の故郷であると信じるのです。
 この信仰によって、私たちの人生観(死生観)は、私たちの命の捉え方は全く変わります。見えないものを信じず、地上こそ自分の故郷、命の本拠地だと考えているならば、死は命の終わりであり、魂の滅びであり、愛する者の死は永遠の別れ、ということになります。そこには、何の希望も慰めも見出すことができません。不安と嘆きと絶望があるだけではないでしょうか。
 けれども、天の地こそ自分の魂の故郷、命の本拠地だと信じるならば、地上の死は、命の終わりではなく、魂の滅びでもなく、また愛する者との永遠の別れでもありません。地上での仮住まいが終わり、魂の故郷へと帰るのです。「天の故郷」で生きる命が始まるのです。愛する者と、そこで再会するのです。この信仰に立って生きるならば、悲しみの中にも慰めがあります。不安の中にも希望があります。死の闇の中でも、一点の光を見つめて、たどたどしくても、時にはうずくまることがあっても、1歩1歩、歩んでいくことがきっとできると信じます。


 故郷というのは、人によってはあまり良い思い出がないという方もいらっしゃるかも知れませんが、本来、懐かしい、心温まる、心休まるところというイメージを抱きます。
 私の故郷は川越市です。懐かしい、と言うほど遠いところではありませんが、生まれ育ったこの街を歩くと、何かほのぼのとした気持になります。先月10月には恒例の川越祭りがありました。最近は土日に開催されるので、私はなかなか見に行けないのですが、あの祭囃子を聞くと、体が自然とリズムを刻みだし、無性に血が騒ぐような感じがします。あれは氷川神社の祭りですからできませんが、もし宗教抜きであったら、山車(だし)の上に乗っかって、自分もお囃子をやりたいような、そんな気持になります。故郷とは、私たちにとって、そういうところではないでしょうか。
 私たちは、この地上に命を与えられて生まれて来る時、「天の故郷」の記憶は一切失って生まれてきたのでしょう。なぜ神さまは、天の故郷の記憶を私たちに残してくださらなかったのか。それは、天の故郷があまりにも良いところなので、私たちが地上の命を生きることが嫌になってしまわないための配慮だったのかも知れません。私たちは、やがていつか「天の故郷」に迎え入れられた時、その温かさ、安らかさを思い出すことでしょう。
 神さまは、アブラハムに「天の故郷」を準備すると約束してくださいました。それは、アブラハムと同じく神さまを信じて人生を歩む者にも、私たちにも約束されていることです。私は、別の聖書の箇所(ヨハネ福音書14章1節)で主イエス・キリストが、同じように約束してくださった御言葉を思い起こしました。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。‥‥‥行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」。
 死の不安、死別の悲しみは、私たちの心を飲み込もうとします。その闇の中で、「天の故郷」の約束を信じて、神さまを信じて歩ませていただきましょう。

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