聖書 マタイによる福音書25章31〜40節
説教者 山岡創牧師
◆すべての民族を裁く
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
「愛の業に励む教会」
日本基督教団信仰告白の内容に沿って、私たちは、教会とは何かということを考えて来ました。教会とは、公の礼拝を守る集まりである。福音を正しく宣(の)べ伝える集まりである。バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行う集まりである。そして今日、皆さまとご一緒に御言葉に聴いて考えたいのは、“愛の業に励みつつ”という内容、つまり教会は愛の業に励む集まりである、ということです。
教会が愛の業に励むのはなぜか? それは、最初の弟子たちが、主イエス・キリストから次のように命じられたからです。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15章12節)。
主イエスは、最後の晩餐の席上で、ご自分の死が目前に迫っていることを予感しながら、まるで遺言を残すかのように、弟子たちにこう言われました。
ヨハネによる福音書では、13章から最後の晩餐について記されていますが、そのいちばん最初にこう書かれています。
「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13章1節)。
この後、主イエスは、ご自分が仕える者となって弟子たちの足を洗いました。ご自分を裏切るイスカリオテのユダを、ご自分との関係を否定するペトロを、ご自分を見捨てて逃げ去る弟子たちを愛し抜かれたのです。主イエスは弟子たちを、裏切らず、否定せず、見捨てなかったのです。弟子たちを愛するために、主イエスは“自分”を捨てていました。
先の「互いに愛し合いなさい」との御言葉の後に、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)と語られていますが、主イエス御自身が、友と呼ぶ弟子たちのために“自分”を、「自分の命」を捨ててかかっておられました。その主の愛の心が、はっきりとした見える形になって現われたのが十字架の死でした。十字架は、主イエスがご自分の命を捨てて弟子たちを愛し抜かれた愛のしるし、神の愛の現れです。
このように、主イエスご自身がまず、弟子たちを愛されました。その愛に倣(なら)って、主イエスの愛の姿に従って、弟子たちも互いに愛し合うことが命じられています。そして、この弟子たちの交わりを受け継ぐ教会、“現代の弟子”である私たちも当然、主イエスに愛されたように、互いに愛し合うことが求められているのです。愛の業に励む教会の根拠がここにあります。
だから、私たちは、まずここに、「互いに愛し合う」交わりをつくることを目指します。互いに愛し合うことを命じられているのは、主イエスを信じ、教会に集う私たち自身です。主イエスを信じる者同士、現代の弟子同士がここで、互いに愛し合うことを、身をもって学ぶのです。
互いに愛し合う交わりとは、どんなものでしょうか。私たちはここに、気の合う者同士の“仲良しサロン”をつくろうとしているのではありません。そんなものを目指していたら、気が合わなくなったら終わりです。教会は分裂します。教会に来なくなる人が出ます。私たちは、そんな人為的な交わりをつくろうとしているのではありません。
しっかりと御言葉に聴きながら、御言葉と信仰に基づいた愛で互いに愛し合う交わりを目指しているのです。ただ単に、好き嫌いや考え意見の違いに左右されない、自分中心な思いと行いに陥らない、主イエスを中心とした、主イエスに従う愛の交わりを目指しているのです。なかなかに厳しい道ですよ。自分の小さな力で実行しようとしてもできません。だからこそ、“神さま、助けてください”と、聖霊の助けを祈りながら、目指すのです。
愛の始まりは、相手に関心を持つことだと思います。私たちの教会に、だれがいるのか、どんな人なのか、関心を持つ。愛の反対は憎しみではなく、無関心だと言った人がいます。もちろん礼儀とデリカシー(きめこまかさ)は必要ですが、無関心であってはなりません。その第一歩はまず、できるだけ、お互いの顔と名前を覚えることです。(皆さん、どれぐらいの方をご存知ですか?)そこから少しずつ、その人のことを知っていく。そのための交流の機会を、できるだけ多く設けたいと思います。
けれども、そのような交流が人のうわさ話をし、非難するような機会になってはなりません。だれかに関心を持つと、それがうわさ話の種になることがあります。興味本位で人のうわさ話をする。それならまだ無関心の方がましかも知れません。私たちは、そのようなこの世の交わりにうんざりし、嫌気がさしている人も少なからずいるでしょう。教会に、そのような交わりを持ち込んではなりません。
うわさ話のサロン的な交わりと互いに愛し合う交わりとの違いは何か。そこに祈りがあるかどうかです。だれかのことを話題にする必要があるならば、その人のために祈ってこそ教会の交わり、主イエスに従う交わりでありましょう。そうでなければ、面白半分の興味か、非難の気持で、その人の話を取り上げていることになります。そうではなくて、愛の祈りを共に祈る交わりこそ、主イエスに喜ばれます。
神を信じ、主イエスに従って生きる者は、相手に関心を持てば、そこに祈りが生まれて来ます。相手のために陰で取りなしの祈りをする。互いに祈り合う。直接助けることができなくても、あるいは相手の内に踏み込まないことが、かえって愛であり、配慮であることもあります。けれども、相手のために陰で祈る。祈り合う。そのように、教会の仲間に祈られている。その陰ながらの愛を、お互いに信じ合える交わりでありたいと、私は思います。毎日の祈りを、そこで教会の仲間のためにとりなす祈りを大切にしてください。自分が祈ってこそ、人から祈られていることを信じることができるのです。
相手への関心は祈りを生みます。そして、祈りは行動を生み出します。相手に声を掛ける。当たり前のことかも知れませんが、気持の良い挨拶を心がけましょう。気持ち良く挨拶することは、相手に対する愛なのです。自分がよく知っている人だけでなく、よく知らない人にも、教会の中でだれにでも、挨拶をしましょう。そこからお互いの交流が始まります。話ができるようになります。
そして、時には安否を尋ねて手紙を書いたり、電話をかけたりする。家を訪ねてみる。1枚の葉書にとても励まされることがあります。1度の電話にとても心温まることがあります。
そのようにして交わりが深まってくれば、相手の悩みや困難を知り、具体的に助けるようなことも出て来ます。もちろん、してあげたくても、できないこともあれば、できない時もあります。できない自分に心を痛め、葛藤することもあります。それでもいい、と私は言いたい。相手に対する愛と祈りを忘れない。そして、互いの愛を信じ合う。そういう交わりでありたいと思います。
愛が行いになる。少し話が変わりますが、教会における奉仕の業も、愛が行いになったものです。皆さんは、教会の奉仕が“愛”だとお考えになったことがありますか?
教会の奉仕とは、主イエス・キリストが私たちを愛して救ってくださった恵みに応えてなす働きです。キリストへの応答、その意味でキリストへの愛ということになります。
しかし、同時にそれは、互いに愛し合う愛でもあります。教会の交わり、営みは、ここに連なる一人一人の奉仕によって成り立っています。もし、その奉仕の業が欠けたら、私たちは教会の交わりを続けていくことができません。だから、奉仕することは自分のためでもありますが、教会の仲間が、安心してこの交わりに加わり、関わり、続けていくことができるために、自分も教会の一部を担って奉仕しているのです。それは、まさに互いに愛し合って教会を造り上げる愛に他なりません。
愛の業に励む教会。私たちは、教会の内に互いに愛し合う交わりをつくることを祈りながら目指します。
けれども、愛の業は教会の内側だけにとどまるものではありません。主イエス・キリストに愛され、互いに愛し合った愛は、教会の外へとあふれていくものです。キリストの愛は、教会の中だけで独り占めにするものではなく、教会の外の隣人にも分かち合うものです。
主イエスは、言われました。
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。
この御言葉を最も身をもって生きた方の一人が、マザー・テレサでしょう。マザーはいつもこの御言葉を心にとどめていたようです。カトリックのシスターとして、インドのスラム街に赴(おもむ)き、そこに〈死を待つ人の家〉をつくり上げました。あるいは病気にかかり、あるいは飢えて、路上で死んでいくような人々を、その家に受け入れ、最後のお世話と看取(みと)りをする。孤独から解放され、愛の中で、その人は“ありがとう”と感謝して、安心して死んでいくのです。そして、葬式はキリスト教式にこだわらず、その人の宗教信仰によって営む。それは、まさに“愛”だなあ、「最も小さい者の一人」に対する愛だなあ、と思うのです。
最近もう一つ感じたことは、群馬県の小学6年生の自殺が大きく報道される中で、新潟市にある敬和学園高校の小西二己夫先生(校長)が、学校のホームページの中で、敬和への入学を考えている子どもに語りかけている、“学校から愛されたことがありますか”という一言でした。小西先生自身も学生時代、愛されたと感じたことはなかったと語っておられました。学校から叱られ、ダメだしされることはあっても、愛されたと感じたことがある生徒は決して多くないかも知れません。そのような中で、キリスト教信仰に立って、生徒を愛する教育を目指している敬和学園の方針には、心惹かれるものがありました。
私たちの教会が現状で、教会の外の隣人と分かち合える愛は小さなものかも知れません。また、一人一人が神さまに置かれた生活の場所でできることは小さなことかも知れません。大きなことは簡単にはできない。
けれども、私たちの心にキリストの愛が宿っていれば、何かきっと、できることがあります。家族に対して、友人や同僚に対して、そして、会ったこともないけれど、この社会、世界の中で悩み苦しんでいる隣人のために、小さくてもできる愛の業がきっとあります。
先日の神学校日礼拝の際の長尾有起神学生の説教には感じるところが大いにありました。フィリピンの神学校との交流を通して、現地の人々の生活を知り、心を痛めたとの話を伺い、私自身も考えさせられました。そして、その日の夜に行われた中学高校生会で、子どもたちと、食事の時に自分の小遣いの中から最低10円を献げて、アジア・アフリカの食事をとれない人々のために送ろうと決めました。
私たちにも、小さくてもできる愛の業が何かあります。その小さな愛を主イエスに“どうぞお用いください”と献げて、分かち合おうとする時、主イエスはその愛を、五つのパンと二匹の魚のように、用いてくださると信じましょう。そこに、愛の業に励む教会が1歩1歩、作り上げられていきます。
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日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.H.P http://sakadoizumi.holy.jp/