坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年3月13日 受難節レント第1主日「信仰の古さ、新しさ」

聖書 ルカによる福音書5章17〜26節
説教者 山岡創牧師

◆中風の人をいやす
5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。
5:18 すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
5:19 しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
5:20 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
5:21 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
5:22 イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
5:25 その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。
5:26 人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。



        「信仰の古さ、新しさ」
 教会の暦の上で、3月9日・灰の水曜日から〈受難節レント〉と呼ばれる期間が始まりました。レントは、4月23日の土曜日まで、主イエス・キリストの復活を喜び祝うイースターまで続きます。詳しくは先週配布した受難節レントのプリントを読んでいただきたいと思いますが、この期間、特に私たちは、主イエスを苦しみ悩ませた人間の“罪”を思いながら歩みます。その罪のゆえに、主イエスが十字架に架けられたことを思いながら歩みます。十字架の上で人の罪を背負い、犠牲となり、罪の赦しを実現し、父なる神と“仲直り”をさせてくださったことを思って歩みます。
 けれども、その罪を犯したのはだれか? その罪を赦されたのはだれか? 当時の人々ではなく、他の誰でもなく、この“私”だ、自分自身だと考えるのが信仰です。主イエスを苦しみ悩ませた人々と同じ罪が、この“私”にもある。そのように自分の罪に気づき、悔い改める。自分の罪を主イエスが背負い、赦しを実現してくださったことを感謝する。その信仰を深めるのが、受難節レントという時です。


 今日は、受難節レントの中で最初の日曜日を迎え、聞くべき神の御言葉としてルカによる福音書5章17〜26節が与えられました。ルカによる福音書においては、既にこの時から人の罪の姿が現れ始めています。それは、「ファリサイ派の人々と律法の教師たち」(17節)において現われています。
 「ファリサイ派」とは、ユダヤ教の宗派、主流派の一つです。ファリサイとは“分離する”“清める”という意味を持ち、神の掟である律法を熱心に守ることで信仰と生活を清め、そうでない人々と自分たちを分離する人々でした。「律法の教師たち」というのは、そのようなファリサイ派にあって、特に律法を研究し、人々に教える者でした。
 彼らは、主イエスの噂を聞いて集まって来たのですが、それは病の癒しを期待してではありませんでした。その教えを聞いて、主イエスに従うためでもありませんでした。主イエスの教えと行動をチェックするためです。
 全員がそうではなかったかも知れませんが、彼らは、噂の主イエスの教えと行動が、律法に照らして正しいかどうかを調べるために集まって来たのです。しっかりと見定めて、無害であれば放っておくけれど、有害な場合は取り締まろうとしているのです。
 そして、彼らは、「子よ、あなたの罪は赦される」(20節)との主イエスの一言に、正しくないものを感じました。この一言に、彼らは、「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(21節)と考えたのです。
 やがてこの思いは、安息日における主イエスの言動をめぐって、6章11節にあるように、「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」ということになります。更に、11章53節では、「‥‥激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉尻(じり)をとらえようとねらっていた」ということになり、19章47節では、主イエスがエルサレム神殿の礼拝を批判し、正すに及んで、「祭司長、律法学者、長老たちは、イエスを殺そうと謀(はか)った」と記されるような殺意に変わります。そして遂には、主イエスを捕らえ、でっち上げの裁判を行い、主イエスの死刑判決を確定し、十字架にかけて殺してしまうに至るのです。
 主イエスは、それほど“悪いこと”をしたと言うのでしょうか。律法の定めに照らしてみれば、確かに、律法に違反していると見なされてもおかしくはない言動があります。従来のユダヤ教の伝統、慣習にそぐわないところもあります。けれども、そこには、神の掟である律法を、どのように解釈し、どのように運用するかという根本問題、精神の違いがあるのです。
 主イエスは決して、彼らが大切にしてきた律法をぶち壊そうとしているのではありません。むしろ、律法を完成させたい、という願いを持って、教え、行動しておられました。ただ、主イエスとファリサイ派の人々、律法学者とでは、律法に対する根本精神が違っていたのです。
 律法において最も大切だと主イエスが考えておられたことは何でしょう? それは、同じルカによる福音書の10章25節以下にある、律法の専門家との対話においてはっきりします。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」。
 神を愛することと人を愛すること、それが律法のハートだと主イエスは受け止めておられました。神を愛するがゆえに、神の思いに従って人を愛する。それが、主イエスの信仰でした。だから、律法全体を“愛”によって完成させようとなさいました。苦しみ悩んでいる人々が目の前にいる。その人々には、何よりも愛を傾けました。その愛の言動が、時には従来の律法の定めを形としては破ることがありました。脱線することがありました。けれども、それは主イエスにとって、神を愛し、神の御心にかなうことでした。愛を必要としている人を思い、愛を与えることでした。
 けれども、そのような主イエスの言葉と業は、ファリサイ派の人々や律法の教師たちには受け入れられなかったのです。彼らは、律法の一つ一つの定めと、それを運用する従来の解釈にこだわりました。“木を見て森を見ず”という諺がありますが、律法という森全体を見て、律法を人に与えた神の御心は“愛”にあるということを見抜かないで、一つ一つの定めという木にこだわりました。その一つ一つの定めに照らせば、主イエスは正しくない、神を冒瀆していると彼らには見えたのです。
 主イエスが大切にしたものは、律法における“愛”でした。対して、彼らが大切にしたものは、律法における“正しさ”だったと言えるでしょう。律法の定めに合っているかどうかで判断するのです。
 ふと、「文字は殺しますが、霊は生かします」という、コリントの信徒への手紙(二)3章6節の御言葉を思い起こします。律法に関わるパウロの言葉の一節ですが、“文字通り”という表現がありますが、文字通り、セオリー通りではだめな場合があります。人を生かせないことがあります。(私も牧師になった当初、それで失敗しました。いや、今も失敗しているのかも知れません)相手の現実を知り、その気持を汲み、敢えて文字から外れた方が、その人を生かせることがあります。そして、そうする方がかえって、その文字の心に、神の掟の心に適(かな)っていることがあります。それが、「霊は生かします」ということでしょう。文字通りではなく、その文字、その定めの精神を汲んで生かすのです。私は、それを“愛は生かします”と言い換えても良いと思います。
 私たちは、“これが正しい”と自分が思っていることにこだわると、ともすれば愛のない正しさになります。その正しさを主張し、絶対化し、自分の非を認めず、相手を受け入れようとせず、“お前が悪い”“お前が間違っている”と相手を斬り、裁くのです。そうすることで、人を傷つけます。愛のない正しさは、人を冷たく切って裁くだけになります。
私たちはしばしば、それで失敗するのではないでしょうか。最も身近な夫婦げんかにおいてさえも、自分が正しいと主張して、相手に非を認めさせようとするのです。家庭の中で、職場や学校で、会議の席で、日常の人間関係において、私たちはどれだけ自分の正しさを主張し、相手の言い分を聞かず、思いを受け止めずに生きているか分かりません。それで相手に勝ったと、いい気になっていたら論外です。そういう自分に気づかないなら、どんなに能力があって、頭が良くても、人間として未熟です。それが、ファリサイ派の人々と律法の教師たちの心に潜(ひそ)む罪なのだと思います。私たちの心にもある罪なのだと思います。


 律法を守ること、規則、ルールに従うこと、それは大切なことです。私たちが、社会の中で、人と共に生きている以上、疎(おろそ)かにしてはならないことです。けれども、単にそれを守るだけでは、人を生かせない。正しさは人を救えません。人を救うもの、それは愛なのです。
 そういうことから言えば、中風の人を床に乗せて運んできた男たちの行為は、愛そのものでした。確かに、普通に考えれば無茶ではあります。屋根をはがして病人を床ごと釣り降ろすなどという無謀が、どれだけその家の人、そこに集まっていた人々に迷惑をかけ、嫌な思いをさせたか分かりません。自分勝手だと責められても致し方がない。彼らとて、決して良いやり方だとは思っていなかったでしょう。
 けれども、主イエスが、その行為を敢えてとがめなかったのは、主イエスならば癒してくださる、救ってくださると信じる本気の「信仰」(20節)があったからです。そして、主イエスを信じるが故に生まれる、ひたむきな、真剣な愛があったからです。その信仰と愛に、主イエスもまた、神の御心である愛をもって応えてくださったのです。
「人よ、あなたの罪は赦された」(20節)。
 主イエスのこの言葉は、直接には中風の人にかけられた言葉でした。中風の人に、何かどうしようもない重い罪があって、そのことを言われたのではありません。当時、重い病気になるのは、その人に何か罪があるからだ、その罪の罰として病になるのだと考えられていました。特にファリサイ派の人々や律法の教師たちがそう言って、病を患っている人たちのことを、神から見捨てられた人として軽蔑していました。そのようなレッテルを貼られ、劣等感を抱き、苦しみ悩んでいる人に、主イエスは、“あなたの病は、あなたの罪のせいではないのだよ”と、心の束縛、痛みから救ってくださったのです。
 それだけでなく、中風の人を運んできた男たちは、自分たちが無茶をして、周りの人に迷惑をかけてしまったことが、主イエスに赦され、受け入れられていると感じて、ホッとしたに違いありません。
 主イエスは、彼らの信仰と愛に対して、神のまことと愛によって応えてくださいました。この関係が“信仰”と呼ばれるものです。
 けれども、私たちは自分を省みて、自己中心な自分を、愛のない自分を感じることが少なからずあるでしょう。神の愛と赦しの前に、自分を省み、罪に気づき、悔い改める。その心で受難節レントを歩ませていただきましょう。

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