坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年4月3日 受難節レント第4主日 「栄光を見るためには」

聖書 ルカによる福音書9章28〜36節
説教者 山岡創牧師

◆イエスの姿が変わる
9:28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。
9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。
9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
9:32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。
9:33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。
9:34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。
9:35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。
9:36 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

          「栄光を見るためには」
 先週の日曜日の礼拝では、今日読んだ聖書の直前の箇所、ルカによる福音書9章18〜27節を読みました。そこでは、主イエスが“何者か”ということが問題になっていました。(イエス様とは何者なのでしょう?)
 実は、弟子のペトロが答える前に、群衆の答えが問われています。群衆、つまり当時のユダヤの人々は、主イエスのことを「洗礼者ヨハネだ」と言ったり、「エリヤだ」と言ったり、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」(19節)と言っていました。
 簡単に言うと、昔の偉大な人物が生き返って、もう一度やって来たのだ、と人々は思っていたということです。
それに対して、弟子たちの答えはどうだったでしょう。ペトロがみんなを代表するように答えました。「神からのメシアです」(20節)。先週の礼拝でもお話ししましたが、これは、神さまのもとから送られて来た救い主という意味です。
そこで、今日の聖書箇所ですが、この前の聖書箇所からの“続き”のようになっています。どういうことかと言えば、主イエスは何者かという問いかけがあって、群衆の答えがありました。弟子たちの答えがありました。そして、今日読んだ箇所には、もう一つの答えがあります。神さまの答え、父なる神ご自身の答えです。35節がそれです。
「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」(35節)。
群衆や弟子たちの答えに対して、神さまご自身が“正解はこれだ”と示してくださったのです。群衆や弟子たちの答えが正解からズレている。ちょっと違っている。“18+7は?”と聞かれて、群衆は“55”と大きくズレている。弟子たちはちょっとましで“30”と答えているようなものです。それに対して、神さまが“答えは25だ”と教えてくださった。そんな感じです。
“これは、わたしの子だ。神の子だ。わたしが選んだ者だ。だから、これの語る言葉
はわたしの言葉そのものだ。これの言葉に聴き従いなさい”
 神さまは、そのように答えを示してくださったのです。そして、主イエスが選ばれた“神の子”であるしるし(証拠)も見せてくれました。32節にあるように、「栄光に輝くイエス」の姿です。普段は、ごく普通の人と同じような姿に見えたでしょう。いや、普通の人よりもみすぼらしい身なりだったかも知れません。それが、この時だけは「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(29節)というのです。“神の子”としての本当の姿が見えたのです。


 その時、主イエスは祈っておられました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、山に登り、祈っておられました。主イエスは、祈りを教えたとき、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れたところで、神さまに祈りなさい、とお教えになりました。つまり、人に自分の信仰を見せるために祈るのではなく、神さまとマン・ツー・マンで、1対1になって祈りなさい、ということです。主イエスは、町から町、村から村へと、神の救いを宣(の)べ伝える伝道旅行をされていましたから、いつも部屋があったわけではありません。野宿することも少なくなかったでしょう。そういうとき、主イエスは山に登り、人から離れ、独りになって、父なる神さまに祈っておられたのです。独りで祈り、父なる神が“自分に”何をせよとお示しになるかを心の耳で聴きとっておられたのです。ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れていますが、これは4人で一緒に祈るためではなく、祈りとはこうするものだと3人の弟子たちに身をもって教えるためだったと思われます。
 そのように主イエスが祈っていると、その「顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」というのです。そのように変わったのは、そこに、栄光に包まれた「モーセとエリヤ」(30節)が現れたからです。
 モーセはその昔、エジプトで奴隷にされていたイスラエル民族を救い出し、また神の掟である十戒、律法を人々に伝えた人物でした。またエリヤは、イスラエル王国の中にバアルの神を信じる信仰がはびこった時に、本当の神を、主なる神を信じる信仰を取り戻そうと戦った預言者でした。
 余談ですが、私は、この聖書箇所の場面を思い浮かべると、不思議に思い、おかしく感じることがあります。それは、モーセとエリヤが現れたとき、どうしてイエスさまは、その二人がモーセとエリヤだと分かったのだろうか、ということです。イエスさまは、モーセとエリヤの顔を知らなかったはずです。顔写真などあるわけがありませんし、二人が“わたしはモーセだ”“わたしはエリヤだ”と名乗ったのだろうか? それとも、胸に大きく“モーセ”“エリヤ”と書かれた名札を付けていたのだろうか? そんなバカなことを想像しては、ちょっと聖書を楽しんだりします。
 もちろん、今、私が想像したようなことは、どうでもいい、楽しい空想です。モーセとエリヤが現れたということ、それは実際に起こったことと言うよりは、そこで主イエスに“神の御言葉”が示されたということを意味しているのです。
 モーセは、旧約聖書の律法を象徴する人物です。また、エリヤは旧約聖書の預言書を象徴する人物です。律法と預言書、それが主イエスの当時の聖書であり、神の御言葉です。だから、祈りの中でモーセとエリヤが現れたというのは、祈りの中で神の御言葉が主イエスに語りかけられた、神の御心が示されたということを表しているわけです。
 私たちが、普段の信仰生活の中で祈るとき、聖書を読むこととセットにして祈ることの大切さが、ここでも教えられています。もちろん、祈るときはいつも聖書を開かなければならない、というわけではありません。一々そうしていたら面倒で、その場でちょっと祈る、一言祈るといったことができなくなります。けれども、一日に一度、聖書を読んで祈る時間があってほしい。5分でいい。座って5分も難しいなら、家を出る時に1節聖書を読んで、一言祈るだけでもいい。朝でも、昼でも、夜でもいい。その積み重ねが、私たちを内側から変えていくのです。神さまが自分に何を望んでいるかを、自分で聴き取り、従う、自立した信仰へと変えていくのです。“これが神さまの御心だ”と信じられたら、生活に1本、芯が通る。人生に芯が通る。神さまと共に歩んでいるという自信と平安の芯が通るのです。
 別の言い方をすれば、それによって、神の「栄光」を見る心の目、信仰の目が与えられるのです。


 主イエスの「栄光」とは何でしょうか? 31節に、モーセとエリヤが「栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂(と)げようとしておられる最期(さいご)について話していた」と記されています。主イエスがエルサレムで遂げる最期、それは十字架に架けられて殺されるということです。主イエスご自身が、22節で「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥(はいせき)されて殺される」と語っておられたことです。そういう「最期」が、「栄光」の中で語られていたのです。主イエスが、神の国を建て、王座に就き、名誉と力を得る、というような栄光が語られていたのではないのです。
 これは、私たちが普通に考える栄光とは全く違うものです。昇進して高い地位を得たとか、学校で優秀な成績を収めたとか、何か善い行い、善い功績を残して表彰されたとか、そういったこの世の栄光とは全く違うものです。排斥されて、十字架に架けられ、殺されるのですから、むしろ正反対だと言ってよいでしょう。そのような人生に、一体どんな「栄光」があると言うのでしょう?
 モーセとエリヤが現れ、主イエスの「最期」について、主イエスと話し合っていた、と言います。それはつまり、聖書、神の御言葉によって、主イエスの「最期」の意味が示された、ということでしょう。主イエスの「最期」。それは単なる処刑ではない。犬死(いぬじに)でもない。多くの人々の罪を背負って、愛する弟子たちの罪を背負って、身代わりとなって罪を贖い、命を救う“偉大なる死”だと、“愛による死”だということが示されたに違いありません。そして、それが父なる神の、私たち罪深い人間を救うご計画なのだ、ということも。
 だから、一見すると、栄光のかけらもないように見える主イエスの死、十字架の死にも、大きな意味があるのです。人のために生き、人のために死ぬ。自分を犠牲にした愛に生き、愛に殉(じゅん)じる。それによって人を生かす。それが、「自分を捨て、自分の十字架を背負う」(23節)ことでもあります。そのような生き方に、栄光を見つけることのできる目、命の輝きを見ることができる目、それが信仰です。聖書から、主イエスから教えられた私たちの信仰です。
 人を愛して生きる。それは、人のために自分の時間を使うことです。自分の命を使うことです。ある意味で自分を捨てることです。それは、決して華々しいことではありません。普段の生活の中で、だれかを愛することは、だれかに認められ、ほめられるようなことではないでしょう。地味な、小さな、隠れた行い、ちょっとした言葉です。けれども、神さまはそれを見ていて、喜んでくださいます。そういう神さまの喜びに「栄光」を感じて、喜んで生きられる私たちでありたいと願います。

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