坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年8月14日  ルカによる福音書4章31〜37節「その言葉には権威があった」

聖書 ルカによる福音書4章31〜37節
説教者 山岡創牧師

◆汚れた霊に取りつかれた男をいやす
4:31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
4:32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
4:33 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
4:34 「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
4:35 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
4:36 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」
4:37 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。


        「その言葉には権威があった」 
「イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた」(31節)
 聖霊に満たされ、神の恵みを宣(の)べ伝える使命に燃えて、故郷ガリラヤ地方に帰って来た主イエスが、宣教活動の拠点としておられた町は、カファルナウムでした。この町はガリラヤ湖畔にあり、その地方では物流の中心地としてかなり繁栄した町であったようです。
 主イエスの出身地はガリラヤ地方の山里にあるナザレでしたので、そこからユダヤ人の安息日(土曜日)の度に湖畔のカファルナウムに下って行って、会堂で教えておられたようです。


 カファルナウムの会堂に集まるユダヤ人たちは、主イエスがお語りになる教えにとても驚いたと言います。その教えがどの御言葉を教えたもので、どんな内容であったかは分かりません。しかし、次のように聖書に書かれています。
「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである」(32節)。
 主イエスの語る言葉に「権威」があったから、人々は驚いたと言うのです。裏を返せば、今まで権威のある言葉に出会ったことがなかった、ということでしょう。
 ちょっと変だなあ、と思います。と言うのは、その道の専門家として認められている人のことを、私たちは“権威”と言います。例えば、書道であれば、その指導者として広く認められている人を“書道の権威”と呼んだりするわけです。そして、そういう人が教えることは、その道の大切な教えとして人々は尊びます。それが権威です。
ユダヤ人の会堂では、聖書の御言葉が語られました。神の掟である律法が説き明かされ、教えられました。律法の専門家と言えば、律法学者です。中には“律法の権威”と目される人もいたでしょう。そういう律法学者、律法の権威が教える言葉に「権威」がなかったというのはどういうことだろうか? そこが変だなあ、と感じるところです。
今日読んだ聖書の御言葉とほぼ同じ内容が記されている箇所が、マルコによる福音書1章21節以下にあります。そこを読むと、次のように書かれています。
「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(1章22節)。
 この御言葉によれば、律法学者は人々にとって、「権威ある者」ではなかったことになります。百歩譲っても、少なくとも主イエスの言葉が持っている「権威」と、律法学者たちの言葉が持つ権威は、全く違うものだったと言うことです。
 なぜ律法の専門家、権威であるはずの律法学者が語る言葉には「権威」がなかったのでしょう? 一つの理由としては、彼らが“伝承”という権威に基づいて語っていたからではないかと思われます。平たく言えば、“○○先生はこう言った”とか“今まで、このように考えられてきた”という、今まで(過去)の教えの蓄積を基にして教えたということです。今までの伝承を基にするということは、ある意味で大切なことだと思います。けれども、そこには“新しさ”が欠けている。その人自身が、聖書の御言葉(律法)を通して、神さまから直接こう受け取った、というものが欠けていたのかも知れません。
 それに対して、主イエスの語る言葉には、“新しさ”があった。神さまから直接受け取った内容があった。リビング・バイブルは、そのような主イエスの「権威」を、こんなふうに訳しています。「イエスが、自分を権威づけるために、むやみに他人の意見を引用するのではなく、真理を知っている者のように語られたからです」(32節)。
 神の真理を知る者として語る主イエスの言葉には「権威」があった。他方、そうではない律法学者の言葉には権威がなかったのです。
 けれども、他人事ではありません。私は牧師です。そして、牧師とは聖書の専門家です。説教の専門家です。そういう私の語る言葉に、果たして「権威」はあるのだろうか。少なからず皆さんを眠らせてしまう説教に、「権威」があると言えるのだろうか。主イエスのように権威ある言葉を語りたいと思っても、律法学者のように、権威のない言葉を語ってしまう現実が、ここにあります。「権威」とは何だろうか? 改めて考えさせられることです。


 「権威」とは何でしょうか? それは、人を動かす力だと言って良いでしょう。そして、主イエスの言葉にいち早く動かされたのは、「汚れた悪霊に取りつかれた男」(33節)でした。
 当時、原因の分らない病気や障がいは、悪霊の仕業だと考えられていました。この男の人も何らかの病か障がいを負っていたと思われます。そういう人が、主イエスの言葉によって悪霊を追い出され、病気や障がいが取り除かれたのです。
 現代人である私たちは、「悪霊」というものを、当時の人々のようにリアルには考えないでしょう。病気や障がいの原因も、その多くが医学的に解明されているので、悪霊の仕業とは思わないでしょう。
 それでは、主イエスがその権威ある言葉によって、人から悪霊を追い出すという救いの業は、現代のクリスチャンである私たちにとっては意味のない、関係のないことなのでしょうか。
 そうではありません。私は、こういうふうに受け止められると考えています。悪霊に取りつかれた人というのは、現代流に言えば、どんな人だと考えられるでしょうか。私は、例えば物事を自己中心に考えがちな人は、“自己中心の悪霊”に取りつかれた人だとたとえても良いのではないかと思います。あるいは、物事をマイナス思考で、消極的に考えてしまう人、その結果、目の前の現実に左右され、絶望し、人生をあきらめている人だと言うこともできます。“絶望”という名の悪霊に取りつかれているのです。
 もちろん、絶望せずにはおられないような過酷な苦しみ、深い悲しみの現実を突き付けられている人がいます。3月に起こった東日本大震災も、そのような現実の一つです。そのために、あきらめの気持が湧き、人生に悲観的になり、マイナス思考な考え方になったとしても、決して不思議ではないのです。それが悪いと非難されるような筋合のことではないのです。もちろん私も、そんなことを言おうとしているのではありません。
 そういう悪霊を吹き飛ばす力が、主イエスの言葉にはある、と言いたいのです。自己中心な人間を、隣人を愛する人に変える力が、主イエスの言葉にはあるのです。マイナス思考の人をプラス思考の人に変える力があるのです。絶望している人に慰めを与え、希望を抱かせる力があるのです。人生の重荷を背負っている人を、その重荷から解放する力があるのです。自分の過ちに押し潰(つぶ)されそうな人を赦して救う力があるのです。私たちの心をハッとさせ、またホッとさせる力が、主イエスの言葉にはあるのです。それが「権威」です。そして、主イエスの言葉の「権威」に出会うとき、私たちは救われるのです。


 先週10日(水)〜12日(金)にかけて、埼玉地区の中学生KKSキャンプが軽井沢で行われました。私たちの教会からも、中学高校生が5名と、引率でNさんと私が参加しました。楽しく、有意義な3日間を過ごしました。
 ところで、このキャンプの中で、私の心に残ったことの一つは、早天礼拝でのM牧師(S教会)の説教でした。M先生はまず、“I love ○○”ということばを紙に書いて掲げ、この○○の中に、あなたはどんな言葉を入れますか?と問いかけました。Friend(友だち)という答えが挙がりました。私も指されたので、Family(家族)と答えました。他にも、健康とか自分の趣味、お金なんていう答えも出るかも知れません。
 M先生は、そこで井上ひさし、という作家が、“I love 日常生活”と言ったと話されました。I love 日常生活。ハッと何かを感じさせられる、深い言葉です。毎日繰り返される平凡な日常生活。ともすれば、その生活に何の感動も感謝も感じないで過ごしてしまいますが、そういう鈍い感性を反省させられる言葉でもあります。
 M先生のお連れ合いは、M.Tさんといって、医療関係の仕事をなさっています。M.Tさんは、阪神淡路大震災を経験して、それ以後、日本で、あるいは海外で、毎年のように起こる災害で被災した地域に、医者を派遣する働きをして来ました。今回の東日本大震災でも6千人近い医者を現地に送る働きのコーディネイトをした。そして、ご自分も福島の地を訪れたそうです。
 その後、教会で結婚式があって、M.Tさんがそのお祝い会の司会進行をなさった。ところが、途中で涙がどっと溢れて来て、モノが言えなくなってしまったのだそうです。しばらく涙を流してから、M.Tさんは、今、目の前にある幸せな結婚式、幸せな現実を見ながら、ふと福島の人々の、日常生活を失ってしまった現実を思い出した時、どうにも涙が溢れて止まらなくなってしまった。今、ここにある生活は決して当たり前のことではありません。本当に感謝すべきことなのです、と話されたそうです。その言葉に、新郎新婦も参列した人々も涙を流し、結婚式はまた一味違った意味で感動的なものになったということです。
 そして、そのような日常生活の中で、なかなか被災地でのボランティアといった非日常生活に飛び込んでいくことはできないけれど、その日常生活の中で、苦しみ悲しむ人々のために毎日、祈りをささげることの大切さを改めて教えられました。
 その話を聞きながら、思わず私も涙していました。心を動かされていました。そして、祈ることしかできない、というマイナス思考から、祈ることができる、というプラス思考へと変えられました。


 このように、聖書の御言葉には、私たちを動かす力があります。変える力があります。「権威」があります。
 だからこそ、この「権威」が、聖霊の力が、自分の心を動かすことを信じて、真剣に御言葉と接してください。毎日の日常生活の中で、聖書を読み、御言葉に聴いてください。日曜日の礼拝で語られる牧師の説教のために、その聖書の御言葉を土曜日に読み、牧師の準備のために祈ってください。
 そうすればきっと、御言葉の権威が私たちを動かします。私たちを生き生きと生かします。

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