坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年9月4日 主日礼拝「ほかの町にも、ほかの人にも」

聖書 ルカによる福音書4章38〜44節
説教者 山岡創牧師

◆多くの病人をいやす
4:38 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。
4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
4:40 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
4:41 悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。
◆巡回して宣教する
4:42 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。
4:43 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」
4:44 そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。


     「ほかの町にも、ほかの人にも」 
 カファルナウムの会堂で、一人の男から悪霊(あくれい)を追い出した主イエスの力に、人々は驚き、「こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」(37節)と言います。集会が終わり、会堂を立ち去る主イエスの周りを、多くの人が取り囲むようにして、しばらくの間、ついて来たことでしょう。これからどこへ行くのか、と尋ねる人もいれば、よかったらおいでください、と自宅へ招く人もあったのではないでしょうか。
 そのような中で、主イエスは「シモンの家にお入りに」(38節)なりました。どうしてシモンの家が選ばれたのか、その理由は定かではありません。「シモンのしゅうとめが高い熱で苦しんでいたので」(38節)、悪霊を追い出すところを見たシモンが、家に来てしゅうとめを癒(いや)してくださいと、しきりに願ったのかも知れません。
 ところで、このシモンとは一体だれでしょう?直後の5章を読むと、8節にこういう名前が出て来ます。「シモン・ペトロ」。そうです。シモンとは、しばらく教会生活をしたことがある人ならよく知っているペトロ、やがて主イエスの一番弟子となるペトロのことなのです。そして、ペトロと主イエスの出会いは、これが最初でした。
 私たちの中には、ペトロが初めて主イエスと出会ったのは、ガリラヤ湖畔で漁師の仕事をしていたペトロを、主イエスが弟子に招かれた場面だと思っておられる方が多いのではないでしょうか。けれども、実はそうではなくて、既にペトロは主イエスと出会っていました。会堂で主イエスの力ある御(み)言葉を聞き、自宅で主イエスの癒しの業(わざ)を見、そのような関わりがあって、やがて主イエスに召された時、弟子として従って行く決心をするのです。しかし、それはもう少し後の話‥‥‥。
 しゅうとめの癒しを頼まれた主イエスは、彼女の熱病を癒し、しゅうとめは主イエスをもてなしたと言います。


 「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた」(40節)と記(しる)されています。
 そんなに目立たない、何気ない言葉です。けれども、この言葉をよーく味わうと、グッと来るものがあります。一つは、病気で苦しむ人本人が主イエスのもとにやって来たとは書かれておらず、病人を「抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た」と書かれている点です。
病気を患っている人がいちばん苦しいのは言うまでもありません。けれども、見落とされがちなのは、その病人を抱えている周りの人です。病人の苦しみを見守り、看病し、介護し、共に労苦している家族です。
 帰省していた長男が8月末に、新潟の高校に戻って行きました。学校生活、寮生活に関して、特に何も心配はしていません(本人も、早く寮に帰りたいと言うほど、学校生活を楽しんでいます)。でも、一つだけ心配があります。それは、体調のことです。長男はアトピーです。日常生活ができるのですから、そんなにひどい方ではないのかも知れません。けれども、時々、家族の前で愚痴をこぼします。それを聞き、彼の肌を見て、その治療を見守り、時にはワセリンや薬を塗ってやりながら、代われるものなら代わってやりたいと思います。“なんでこの子は、この病気になってしまったのだろう”と思うこともあります。一方では、神さまの御(み)心、神さまの御業(みわざ)と思いながら、そんなふうに考えてしまいます。まして、もっと重病の家族を抱えている方は尚更、苦しみ悩むこととでしょう。
毎日、病人の苦しみを見守りながら、“どうして”と思い、何とか治らないものかと心を痛めている家族がいる。そういう人が、ここに連れて行けば癒されると一縷(いちる)の希望を持って、病人を主イエスのもとに連れて来たのです。その気持を思うと、胸が切なくなります。
 主イエスは、その気持に応えてくださいました。しかも、主イエスが、病人の「一人一人に手を置いていやされた」という点です。40節の御言葉でもう一つかんじるところは、その点です。
 最近、病院では、患者を触診しない医者が増えた。触診どころか、パソコンのデータばかり見ていて、顔もほとんど見ない、という話を、少なからぬ人から聞きます。私はもちろん医療に関して専門家ではないので、現代医療に触診が必要なのかどうかは分かりません。けれども、その訴えに込められているのは、医療技術の問題であるよりも、人と人との関係の問題、“心”の問題なのだと思います。患者にとっては、自分のことを、一人の“生きた人間”として見てほしい。データとして見るのではなく、不安を抱え、一喜一憂する生きた人間として、暖かい目で見てほしいという願いの表れなのでしょう。そして、そういう目で、そういう心で向かい合っているよ、という医者の姿勢を象徴するものが触診なのかも知れません。
 主イエスは、病人に手を置いていやされました。その手から伝わって来たものは、病気を癒す“力”ではなく、病人の気持を暖かく包む“愛”だったかも知れません。一人の、生きた人間として見る主イエスの“心”だったかも知れません。
 そして、主イエスの心は、病人の一人一人に向けられました。十把一絡(じゅっぱひとから)げに癒されたのではなく、一人一人と向かい合い、手を置き、癒しをなさったのです。
 私は、この御言葉を黙想しながら、主イエスがなさった〈見失った羊のたとえ〉を思い起こしていました。ルカによる福音書15章にあります。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(15章5節)。そして、その一匹を見つけ出したら大喜びする、というたとえ話です。しかし、この世は組織を優先し、社会全体を優先し、99匹を守るために一匹を見捨てることが多々あるのではないか。いや、私たち自身がそのように考えてしまうこともあるのではないか。
 けれども、99匹を残しても一匹を捜し回ることこそ、生きた一人の人間を大切にすることが、主イエスの心、神の心なのです。そして、それが“愛”というものです。そういう心で、主イエスは一人一人と接し、手を置いて、癒しをなさっている。いや、今も、主イエスは私たち一人一人と向かい合い、私を見守ってくださっている。その愛に、“これぞ、愛!”と感動しながら、同時に自分の行動、自分の生き方を省みずにはおられない私たちではないでしょうか。


 さて、一人一人に手を置いて、その病を癒された主イエスは、「朝になると‥‥人里離れた所へ出て行かれた」(42節)とあります。5章16節を読むと、そこには「イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」と記されています。主イエスが人里離れた所へ出て行くのは、祈るためでした。祈りの中で、父なる神の御心が何であるかを黙想し、受け取るためでした。
 主イエスのこの黙想と祈りが、ディボーションのモデルです。私たちの教会でも、昨年からディボーション講座を開いていますが、そんな堅い呼び方でなくてもいい、講座なんて言うと、難しい勉強でもするのだろうかと思われるかも知れませんが、要は、主イエスのように、独りになって聖書を読み、神さまの御心が何であるかを考え、受け止め、祈りをもって生活に生かしていくための“トレーニングの会”です。必ずしも、この会に参加しなければいけないわけではない。大切なのは、私たち一人ひとりが、自分の日常生活の中で、人里から離れる時間を作ることです。短くていい。人から離れ、目に見えない神さまと1対1で向かい合い、聖書を読んで祈る。神さまが自分に何を語りかけておられるかを考え、心の耳で聴く。そういう毎日の時間を、私たちも主イエスのように大切にしていきましょう。
 人里離れたところで祈る中で、主イエスが受け止められた神の御心は、「ほかの町にも神の福音(ふくいん)を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」(43節)ということでした。
 けれども、カファルナウムの人々は、「自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」(42節)とあります。当然と言えば、当然でしょう。どんな病気も癒してくださる“スーパーマン”が自分たちの町にいるのです。そんな人を出て行かせる手はありません。
 けれども、主イエスを引き留める人々の心は、ある意味、自己中心と言わねばなりません。主イエスの恵みを、いや、自分にとって都合の良い利益を手放したくないのです。独り占めにしていたいのです。けれども、省みれば、そういう心は私たちの内にもあるのではないでしょうか。
 例えば、坂戸いずみ教会から、だれか教会の方が引っ越して遠くに行ったとします。でも、他の教会に移ってほしくないのです。一方では、自分が移り住んだ町の教会に通い、お客さんではなく転会してその教会の会員となり、しっかり教会生活をしてほしい。それが本人の信仰にとっていちばん良いことだと思っているのです。けれども、心のどこかで、坂戸いずみ教会のメンバーが減る。離れてほしくないという気持が働いているのです。また、今まではまだありませんが、この教会から献身して牧師になる人が出たとします。日本の伝道と教会にとって、とてもすばらしいことです。まさに「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせ」る人になるわけです。けれども、心のどこかで、そうなってほしくない。自分の教会が減る。そんな、自分勝手で、けちなことを考えている自分がいるのです。それは、カファルナウムの人々が自分のことだけを考えている心と同じではないだろうか。
 主イエスに離れて行ってほしくない。主イエスの恵みを手放したくない。私たちはどうも、自分勝手なためか、勇気がないためか、主イエスの恵みをほかの人と分かち合うのが下手なところがあります。どのように伝えたらいいのか、どのように分ち合ったらいいのか分らない。良いやり方が見つからず、しり込みしてしまう面もあります。
 けれども、私たちは効果とか結果とかを考えずに、主イエスがなさったように、一人一人に手を置くように、周りにいるだれかと関わったら良いのではないでしょうか。主イエスのような癒しはできませんが、主イエスのように、一人を大切に接したら良いのではないでしょうか。病気の苦しみを抱えた一人の人に寄り添う。病気で苦しむ者を抱えている一人の人に寄り添う。悲しみや不安を抱えている一人の人に寄り添う。そこに生まれる暖かい人間関係こそ、「神の国の福音」であり、その関係の中に、主イエスが生きて働いておられるのです。
 一人の人を大切にする。そこにこそ、主イエスの御心があります。福音があります。

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