坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年10月2日 主日礼拝  「手を差し伸べて」

聖書 ルカによる福音書5章12〜16節
説教者 山岡創牧師

5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
◆重い皮膚病を患っている人をいやす
5:12 イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。
5:13 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
5:14 イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」
5:15 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
5:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

    「手を差し伸べて」 
 今日の聖書の箇所には、「全身重い皮膚病にかかった人」(12節)と主イエスの出会いが描かれています。
主イエスは、「ある町におられたとき」(12節)、この人と出会います。けれども、それは“街中”ではなかったはずです。街の外れか、街の外か、いずれにしても人のいない、社会から外れた場所であったはずです。なぜなら、重い皮膚病にかかった人は、社会から隔離(かくり)され、人と共に生活することを禁じられていたからです。
ユダヤ人の社会は、律法によって規定された社会でした。旧約聖書のレビ記13章に、皮膚病の診断についての記述が非常に詳しく記されています。当時の人々が、皮膚病の正確な診断をいかに重視し、皮膚病の伝染を防ごうとしていたかが伝わって来ます。
けれども、病人本人にとっては、非常につらい決まりでした。家族から離れ、人々が生活する社会から隔離された場所で生活しなければなりません。しかも、衣服を裂き、髪をほどき、一目でそれと分かる格好をして、もし人が近づいてきたら、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」(レビ記13章45節)と大声で叫んで知らせなければなりませんでした。とても惨(みじ)めな気持になったでしょうし、人の交わりから疎外された深い寂しさを感じながら生きていたに違いありません。病気の苦しみと共に、心の苦しみも負いながら生きていたのです。


 そんな、重い皮膚病にかかった人が、近くを通りかかった主イエスの姿を見つけたのです。主イエスの噂を聞き知っていたかも知れません。この人に願ったら癒(いや)してもらえる‥‥‥そう思ったとき、彼は「わたしは汚れた者です」と叫んで知らせる代わりに、癒されたい一心で求めました。
「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(12節)。
 あれっ?と思いませんか? どうしてこんなに回りくどい言い方をするのだろう、と皆さんもお感じになると思います。癒されたい一心で必死に叫んだのなら、もっと端的な言葉がほとばしり出るのではないだろうか。“主よ、わたしを清めてください”“主よ、わたしを癒してください”。そんな言葉が飛び出るだろうと想像される場面です。けれども、彼が主に向かって放った言葉は、これでした。どうしてでしょうか?
 一つには、この人の“悲しい遠慮”がそう言わせたのではないかと思います。自分のことを惨めな者、だめな者、人に認められない者と思っていると、“こんなことを言って良いのだろうか、やって良いのだろうか、お願いして良いのだろうか”と、つい言葉や態度が遠慮がちになるということが、私たちにもあるのではないでしょうか。彼はもちろん、自分が重い皮膚病にかかっていることを知っていました。社会から隔離され、人と交わりを持ってはならない者であることを知っていました。そのような卑下(ひげ)と遠慮から、“私のような者の言葉を聞いていただけるでしょうか。聞いていただけるなら、私を清くしていただきたいのです”というようなニュアンスの言葉が発されたのではないかと思います。
 もう一つ、この回りくどい言葉から考えさせられることは、信仰と癒しの関係です。主イエスは病を癒すことができたかも知れません。けれども、約50年後、ルカによる福音書が書かれた時代には、もちろん主イエスはいません。だから、後の教会において、主イエスのように病をいやし、清めることができたかどうか分かりません。主イエスを信じて祈っても、病が癒されないことがしばしばあったのではないでしょうか。信じて祈っているのに、どうして病は癒されないのか、願いは聞き届けられないのか。信じることは無駄なのではないか。そんな苛立(いらだ)ちや疑いが、人々の心に生じたでしょう。ルカは、そのような苛立ち、疑い、不信仰と向かい合いながら、どうしてだろうと考えながら、主イエスが十字架刑にされる前に、「御心なら」と祈っていたことを思い出していたかも知れません。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(22章42節)。父なる神の御心が実現する。そう信じて、主イエスは、十字架刑を取り除いてほしい。しかし、私の願いが優先ではなく、神の御心のままに行ってください、と主イエスは祈られました。そして、主イエスの願いは叶えられず、主は十字架に架けられました。けれども、その死には、すべての人の罪を贖うという意味と復活の希望が付いていました。
 そのことを思い出しながら、ルカは、祈り願っても癒されないこと、叶えられないこともある。だからと言って、信仰は無駄なわけではない。無意味なのではない。信仰とは、自分に神を従わせることではなく、神の御心に従って生きることである。祈りとは、自分の願いを叶えさせることではなく、神の御心を求めることである。そして、神さまの御心が自分の願いと違うことだってたくさんある。だから、癒されないことも叶わないことも、しばしばある。苦しくて、悲しくて、つらいこともある。けれども、そこにもきっと神の御心はある。神さまの愛と希望がある。それを信じて、それを探しながら生きるのが信仰ではないかと、ルカは示されたのではないでしょうか。それで、この重い皮膚病の人の口を通して、「御心ならば」と言わせたのではないか。もしかしたら、この人は“主よ、癒してください”と端的に叫んだのかも知れない。けれども、ルカは敢えて、「御心ならば」と言わせることで、信じるってこういうことだよ、というメッセージを込めたのではないかと思います。


 いずれにせよ、彼が、清めてほしい、癒してほしいと願う気持が切実だということには変わりないと思います。そして、主イエスは御心によって彼の願いを聞き届けてくださいました。「よろしい。清くなれ」(13節)。そう言って、「手を差し伸べてその人に触れ」(13節)、重い皮膚病を癒してくださったのです。
 ただ癒したのではなく、手を差し伸べてその人に触れて癒した。私は、そこに深い神の愛が込められていると感じます。
 話は変わりますが、我が家の長男は今、新潟の敬和学園で寮生活を謳歌(おうか)していますが、家を出すにあたり、いちばん心配だったのはアトピーでした。環境が変わって、ストレスで病気が悪化しないだろうか。学校生活を辞めるようなことにならないだろうかと考えました。中3の時、ちょっと状態が悪くなりまして、“どうして自分は、こんな肌(病)なのか”と愚痴をこぼしながら、保湿のためのワセリンを塗っていました。その苦しみの言葉を聞くのは正直、親として辛く、重いのです。けれども、その言葉から逃げてはならないと思いました。そして、どうしてやることもできないけれど、せめて‥‥と思い、手の届かない背中にワセリンを塗ってやりました。言葉を聞き、手で触れて薬を塗ってやることが、私の小さな愛でした。
 主イエスが手を差し伸べて、重い皮膚病にかかった人に触れる。そこには、慈愛に満ちた神のやさしさが込められています。重い皮膚病の人に触れることで、病が伝染するかも知れません。病が移らなくとも、少なくとも汚(けが)れは移ったと見なされます。そのために、主イエスも社会から隔離される危険を犯すことになるのです。汚れた者と見なされる疎外感を負うことになるのです。それを承知で、主イエスは彼に触れたのです。だから、それは、相手の苦しみを自分も共に負う、ということです。自分を守れる安全な立場を捨てて、自分も痛むということです。
 その差し伸べる手から、重い皮膚病の人に伝わったものは何でしょうか。もちろん、病を癒す力です。でも、それ以上に愛だったのではないでしょうか。
 もしかしたら、彼の必死の叫びを聞くのも、主イエスにとって、決して楽ではない、重いことだったかも知れません。はらわたの痛む思いだったかも知れません。でも、その言葉に耳をふさがない。聞き届ける。それは、相手と共に苦しもうとする愛がなさしめる業なのです。
 差し伸べる主イエスの手によって、彼の重い皮膚病は去りました。癒されました。私は考えます。現代における病の癒しとは何だろか、と。もちろん、現実に病が治るに越したことはありません。けれども、私たちは医者ではありませんし、医者でも癒せない病もあります。信仰があれば病は治るなどとは言えません。
 私たちがお互いにできることとは何でしょうか。相手の言葉を聴くことはできるのではないでしょうか。それが、聞きづらい、重苦しい内容であっても、できる限り聴く。聞いて受け止める。手を伸ばせば届くぐらい、相手の傍に行って、何もできなくても、ただ寄り添う。相手の痛み、苦しみを分かち合う。
 そうすることによって癒されるものがあります。相手の魂です。傷つき痛んだ心です。不完全かも知れないけれど、一時でも、その人の心に温かい気持がよみがえります。孤独感が溶かされます。
 信仰を通して主イエスが癒されるものも、病の癒し以上に、魂の癒しなのではないでしょうか。


 ところで、主イエスは、重い皮膚病を癒されたこの人に、「だれにも話してはいけない」と「厳しくお命じになった」(14節)とあります。社会に復帰できるように、人との交わりに戻れるように、治ったことの証明をモーセの律法に従って行(おこな)ったら、後は自分の内にとどめて、だれにも話すな、と言うのです。これもまた、どうして? と不思議に思う言葉ではないでしょうか。主イエスは別の箇所では、むしろ福音を宣(の)べ伝えることをしばしば命じておられますし、救いを伝えることは宗教の持つ使命のようなものです。それなのに、主イエスはなぜ、この人に「話してはならない」と命じたのでしょうか。
 色々なことが考えられますが、今日、私がいちばんに感じたことは、安易に話してはいけないよ、神さまと自分の救いの関係を、自分の中で見つめ直し、発酵(はっこう)させ、深めなさい、と主イエスは求めておられるのではないかということです。そうしないと、癒されたという奇跡的な現実と、そこで働いた神の“力”にばかり目がいって、信仰とは、神の力によって自分の願いが叶えられることだと勘違いするかも知れないからです。実際、そのように癒しの力を求めて集まって来た人々を、主イエスは一時、「人里離れた所に退いて」(16節)避けられました。
 主イエスは、神と人との、人格的な1対1の関係、“神と私”という関係を、とても大切になさるようです。そして、そこで心の目に見えて来るものは、神の力以上に、神の愛なのでしょう。手を差し伸べて私の痛みに触れ、そばにいて苦しみを共に負ってくださる愛なのでしょう。
 私たちの人生には良いこともあれば、悪いこともあります。自分の思い通り、願いどおりには行きません。でも、そんな私の人生にも、神の御心は生きて働いており、神の愛が注がれている。そう信じて生きられるところに、信仰の恵みがあるのです。

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