坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年11月13日 礼拝説教 「罪人を招くために」

聖書 ルカによる福音書5章27〜32節
説教者 山岡創牧師

◆レビを弟子にする
5:27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
5:29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
5:30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」


   「罪人を招くために」  
 今日読んだ聖書箇所には、「レビという徴税人」(27節)が出て来ました。レビとは何者でしょう?彼は「罪人(つみびと)」(30節)でした。少なくとも「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たち」(30節)は、徴税人を罪人と同様だと見なしていました。


 徴税人とは、その名の通り、税を集める仕事をする人でした。単にそれだけなら、何も「罪人」などと後ろ指を指され、非難されることもなかったでしょう。
 けれども、当時のユダヤ人はローマ帝国という大国に支配されていましたので、徴収された税金は、ユダヤ人のために用いられるのではなく、ローマ帝国に納められ、利用されました。支配され、苦しめられているユダヤ人が、そのような徴税を快く思うはずがありません。だから、その仕事に携わるユダヤ人の徴税人に不快感を抱いていました。
 ですから、徴税人は仕事上、ローマ人とお付き合いすることになります。ローマ人はユダヤ人から見て、真の神を信じない異邦人でした。真の神を信じず、異教・偶像の神によって汚(けが)れた罪人でした。汚れた人と付き合うと汚れが伝染する、罪が伝染するとユダヤ人は考えましたので、徴税人は、ローマ人の罪汚れに汚染された罪人でした。
 更に彼らは貪欲に税を取り立てました。当時、徴税人は、ローマ帝国に一定の金額を納めれば、残りは自分の収入にして良いシステムになっていました。だから、取り立てれば取り立てるほど、残ったお金で自分がもうかるわけです。だから、徴税人はあの手この手で税を取り立てたでしょう。そういう彼らのやり方は、十戒(じゅっかい)の“貪ってはならない”との戒(いまし)めを破る罪だと見なされました。
 ですから、徴税人は罪人の代表、代名詞のようなものでした。特に、ユダヤ人の中でも「ファリサイ派とその派の律法学者たち」は、徴税人やその他の罪人たちを差別しました。
 ユダヤ人が奉じているユダヤ教には、いくつかの宗派がありました。その中の主流派の一つがファリサイ派でした。ファリサイという言葉は“分離する”という意味です。そこには、罪と自分たちを分離するという強い意識があったに違いありません。罪から離れるために、彼らは神の掟を厳格に、熱心に守りました。そのような生き方の裏返しとして、彼らは、神の掟を守れない人々を罪人と見なし、差別し、離れました。罪が自分たちに伝染しないようにするためです。離れるとは、交流しないということ、口をきいたり、やり取りをしないということです。食事の交わりをしないということも、その一つでした。
 なぜファリサイ派の人々は、これほどまでに罪から離れようとした、罪人たちから離れようとしたのでしょうか?それは、罪人は神さまから見捨てられている、神の国に入ることができない、神の救いをいただくことができないと、彼らは考えていたからです。神の掟を守り、正しい人間となって、神の救い、神の祝福をいただくことこそ、彼らの信仰の目的、人生の目標だったからです。
 だから、主イエスが、「わたしに従いなさい」と徴税人レビを招き、またレビの招待に応じて、共に食事をしたということは、ファリサイ派の人々にとっては考えられない出来事でした。自ら神の救いを投げうって、神に見捨てられた罪人の“仲間入り”をするような行為でした。それで、彼らは、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」(30節)と、主イエスと弟子たちを非難したわけです。


 その非難に対して、主イエスはお答えになりました。
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(31〜32節)。
 この言葉の中には、ファリサイ派の人々とは全く違った「罪人」に対する見方が示されています。
 先ほどもお話ししたように、ファリサイ派の人々にとって「罪人」とは、神の掟を守れないが故に神さまに見捨てられ、神の国に招かれず、神の救いをいただくことができない人々でした。神の掟を守る人こそ、神さまに喜ばれ、神の国に招かれ、神の救いと祝福をいただくことができる人でした。
 ところが、主イエスは、神の掟を守る「正しい人」が招かれるのではなく、罪人こそ神の救いに招かれるのだと、全く正反対のことを言われました。
 「罪人」に対して、どうしてこのような見方の違いが生じるのでしょうか?それは、神さまをどのようなお方と見ているかによって変わって来るのです。
 ファリサイ派の人々にとって、神さまは“裁判官”のような存在なのでしょう。裁判官の前に立つには、法を守って正しくなければなりません。そうでなければ有罪の判決を受けることになってしまいます。「罪人」とは、神さまから有罪の判決を受ける者なのです。
 けれども、主イエスにとって、神さまは「医者」のような存在でした。そして、「罪人」とは「病人」のような者でした。罪という病を抱えた病人を診断し、治療し、癒(いや)す医者こそ、神さまの姿でした。だから、罪を抱えた病人こそ、医者のもとに行く必要があるのです。
 そのように、医者を必要とするのは、健康な人、正しい人ではなく、罪という病を抱えた病人です。けれども、逆に言えば、「医者」もまた「病人」を必要としているのではないでしょうか?
 私は、今日の聖書の御(み)言葉を黙想しながら、同じルカ福音書の15章にある主イエスが語られたたとえ話、〈見失った羊のたとえ〉と〈無くした銀貨のたとえ〉を思い起こしていました。
 百匹の羊を持っている人がいて、野原で放牧をしているときに、その中の一匹がいなくなり、見失ったとすれば、主人は99匹を野原に残して、見失った一匹を捜し回り、見つけたら大喜びする、という話です。また後者は、10枚の銀貨を持っている女が、家の中でその1枚を無くしたとすれば、念入りに捜し、見つけたら大喜びする、という話です。そして、それぞれのたとえ話の結論として、「このように悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(15章7節)、「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(15章10節)と言われています。
 ですから、これらのたとえ話において、見失った羊、無くした銀貨とは「罪人」のことを指しています。そして、羊の主人、銀貨の持ち主の女は、神さまのことを指しているのです。
 だから、「罪人」というのは、神さまの方からすれば、自分の手の中から大切なものを失くしてしまった状態を言うのです。何としてでも捜し出したい対象なのです。罪人というのは、神さまにとって、不必要な、捨てるべきものではなく、何としてでも取り戻したい、必要な、大切な、価値ある存在なのです。愛すべき存在なのです。それが、主イエスの示した神さまの見方でした。
 私たちも、ともすればファリサイ派の人々のように、罪人は神さまから喜ばれない、救われないと考えて、自分の信仰の至らなさを否定したり、落ち込んだり、他人を非難したりすることがあるかも知れません。何か罪を犯せば、神さまから見捨てられ、罰を当てられると恐れているかも知れません。
 けれども、そうではないのです。神さまは、罪人を救いへと招かれます。罪人は“神の愛する子”なのです。皆さんは、自分が神さまにいちばん愛される時はいつだと思いますか?私は、自分が罪人である時、罪人だと感じている時だと思います。罪人こそ、神の癒しの愛をいちばん必要とし、そして、最も豊かに感じられる時だと思うのです。


 けれども、神の掟を守り、神の御(み)心に従って、正しい方が良いではないか。罪人の方が招かれ、救われるというのは、おかしいではないかと納得のいかない方もいらっしゃるかも知れません。もちろん、罪人こそ神に愛されているのだと、悪い意味で甘え、開き直ったら、箕(み)も蓋(ふた)もない(意味がない)と思います。
 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」と主イエスは言われましたが、病人にとっていちばん怖いことは何でしょうか。それは、病気の自覚症状がない、ということでしょう。自覚症状がなければ医者にかかろうとは思いません。けれども、気づかないうちに病状はどんどん進行しているのかも知れません。
 罪人も、罪の自覚がなければ、神さまのもとに行って、悔い改め、罪の赦しを求めようとはしないでしょう。罪の赦しを求めるのでなければ、神の恵みのありがたさは分からず、神の愛を喜び、感謝することはありません。その中で、罪はどんどん進行します。自分は正しい人間だ、罪などないと思い込み、だから悔い改める必要はないし、自分の正しさ、自分の力で生きていけると思い上がるのです。
 今日の聖書の中で、罪を赦す医者である神の招きが必要だったのは、「徴税人や罪人」以上に、もしかしたら「ファリサイ派の人々やその律法学者たち」だったのかも知れません。律法を厳格に守っている自分たちは正しい人間だ、神さまに喜ばれ、救いに招かれる人間だとうぬぼれて、思い上がり、律法を守れない弱い人々に愛のまなざしを向けず、手を差し伸べず、差別していた彼らなのかも知れません。罪の自覚症状のない人こそ魂の病状は最も重体であり、いちばん神さまの治療が必要です。そして、このことは私たち自身にも当てはまります。


 私が尊敬する牧師の一人である藤木正三先生は、『この光にふれたら』という著書の前書きの中で、次のように書いておられます。
  私は御言葉によって、いつも自分の正当化にはたと思い当たり、そのゆがみを深く凝視(ぎょうし)させられてきた。イエスがカウンセラーとして寄り添って、援助し続けて下さったお陰でなされた自己洞察の旅、それが私の信仰生活であった。‥‥‥
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9章12〜13)
  主の「人間治療」を不可欠とする「生涯一病人」、これ以外に私の人生はないと思っている。
 聖書の御言葉による定期検診、そして御言葉による治療が、私たちの人格、私たちの魂にも必要です。御言葉によって自分の罪にハッと気づかされること、御言葉によって罪を赦され、神さまに愛されていることを知り、ホッと安心することが必要です。
 その必要を認めて、キリスト教信仰の道に入り、教会に集い、神を礼拝する私たちです。たゆまず神の御言葉を聴きながら、歩んでいきましょう。


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