坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2012年2月5日 礼拝説教 「人の幸い、神の幸い」

聖書 ルカによる福音書6章17〜26節
説教者 山岡創牧師

◆おびただしい病人をいやす
6:17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
6:18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
6:19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
◆幸いと不幸
6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。
6:25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
6:26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」


       「人の幸い、神の幸い」
 今日読んだ聖書箇所の直前に、〈十二人を選ぶ〉というまとまりがあります。主イエスは山の上で父なる神に祈って、弟子たちの中から12人の使徒をお選びになりました。使徒とは、主イエスに遣(つか)わされて、神の国の教えを宣(の)べ伝える使者たちです。
 そのように、いよいよ本格的な伝道の体制を整えて、使徒たちと共に山から降りて来た主イエスが、弟子たちや民衆にお語りになった最初の教えが、今日読みました〈幸いと不幸〉です。主イエスはまず、人間にとって「幸い」とは何か、「不幸」とはどんなことかをお教えになったのです。
 しかも、注意したいのは20節に書かれている言葉です。
「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」(20節)。
 主イエスは、おびただしい民衆に、よりも、「弟子たち」にお語りになったのです。弟子とは、主イエスに従って行こうとする志を持っている人々のことです。その弟子たちの中に、自分では不幸だと思っているけれど、本当は幸いな人がいる。逆に、自分では幸せだと思っているけれど、実は不幸な人がいるのです。そのことに気づかせようとして、そして、主イエスに従う「幸い」な人生を歩ませようとして、主イエスは弟子たちにお語りになったのです。
 ここに集まっている私たちは言わば、“現代の弟子たち”でありましょう。その弟子である私たちに、主イエスは直接お語りになっています。だから、他人事ではなく“自分の事”として、あの人の生活ではなく“自分の生活”に当てはめて、主イエスの言葉に耳を傾けましょう。


「貧しい人々は、幸いである。‥‥今飢えている人々は幸いである。‥‥今泣いている人々は、幸いである」(20〜21節)。
と主イエスはお語りになります。そして逆に、
「富んでいるあなたがたは、不幸である。‥‥今満腹している人々、あなたがたは不幸である。‥‥今笑っている人々は、不幸である」(24〜25節)。
と言われます。
 考えてみれば、不思議な幸福観です。私たちの価値観は普通、この教えとは逆でしょう。富んでいて、満腹できて、笑っていられる人生は幸せだと、私たちは考えるのではないでしょうか。そして、貧しく、飢え、泣いている人生は不幸だと‥‥。アジアやアフリカで飢えている人々の姿を知るたびに、食いしん坊な私は、“人間、食べられないことほど辛いことはないなあ”と感じます。どうして、貧しく、飢え、泣いている人々は幸いだと言えるのでしょうか?
 「幸い」とは、“今の状態”を見て、言えることではありません。貧しく、飢え、泣いている“今”を、幸いだとは決して言うことはできません。主イエスは、“今”を見て言うのではなく、“将来”を見据えて「幸いである」と言われるのです。今は苦しく、辛くても、やがて将来に、「神の国はあなたがたのもの」になるから、「満たされる」から、「笑うようになる」から、あなたがたは幸いだと言うのです。
 聖書もまた、人生を道や旅路にたとえますが、もし“今”がゴールであるならば、貧しく、飢え、泣いている状態は、幸いとは言えないでしょう。でも、ここがゴールではない。ゴールは先にある。将来にある。そして、そこにたどり着けば、今の現実とは違う神の国にゴール・インし、満たされ、笑えると約束されているから、幸いだと言うのです。将来の希望を信じるから、今を、辛くても、悲しくても、歯を食いしばって、必死に、あきらめずに生きることができるのです。


 人は、希望があるから“今”を生きることができます。昨日の朝日新聞の附録〈be on Saturaday〉という紙面に、作曲家である平尾昌章さんのことが記されていました。年輩(ねんぱい)の方はよくご存知でしょう。若い人は知らないかも知れない。私も、決してよく知っているとは言えませんが、もう74歳になられるんだなあ、と思いながら、〈人生観を変えた信州での入院〉という見出しの記事を読みました。
 平尾昌章さんは、1962年に肺に影が見つかり、医者から警告されながら歌手活動を自重(じちょう)しなかったため、遂に1968年、信州、諏訪湖の湖畔にある結核療養所に入院することになります。“世の中には今のぼくのような思いをしている人、ハンディのある人がたくさんいるんだ”と思いながら、孤独と闘い、希望と落胆、挫折(ざせつ)の狭間(はざま)をさまよっていた、とあります。けれども、病院の人々の親切さや地元の人々の温かさに触れ、知り合いができ、平尾さんは次第に変えられて行きます。
  若い頃はいつもステージ上にて、人も「上」から見ていた。ファンに追いかけられても、普通の人間同士のふれあいは分からない。信州で、人々に支えられて自分があることに初めて気づいた。
と平尾さんは言います。そして、入院してから1年で退院するのですが、それを可能にしたものは、人の温かい支えであると共に、“作曲をやらなきゃいけない”という意欲であった、ということです。それが、平尾昌章さんにとって、結核という“今”を生きる将来の希望だったのだと思います。
 ちなみに、このコーナーには〈逆風満帆(まんぱん)〉というタイトルがついていました。順風満帆ではなく逆風満帆、まさに今日の主イエスの幸いの教えのようです。


 では、すべての人に、そのような希望が約束されているのでしょうか。変えることができる人生もあれば、どんなに望んでも変えられない現実もあるのです。
 先週の礼拝説教で、星野富弘さんのことをお話ししました。星野さんは、高校の体育教師でしたが、授業中に器械体操の着地に失敗して首の骨を折り、首から下の体がまひして寝たきりになってしまいました。絶望のどん底で、もがき、苦しみ、やがて口に絵筆をくわえて草花の絵を描き、詩をつくるようになります。そして、聖書と出会い、平尾さんと同じように、人の温かさや自分の問題に気づくようになり、やがて神さまを信じるに至ります。そんな星野富弘さんの詩で、私がいちばん印象に残っているものを引用したいと思います。
  何のために生きているのだろう。
  何を喜びとしたらよいのだろう。
  これからどうなるのだろう。
  その時、私の横に、あなたが一枝の花を置いてくれた。
  力をぬいて、重みのままに咲いている、美しい花だった。(『鈴の鳴る道』より)
 首から下がまひして手足が動かないという現実は変わらないのです。おそらく将来にも変えられないのです。けれども、そういう動けない人生にも“美しさ”を見いだしている。重みのままに生きる意味を見いだしている。それが、満たされた笑いなのではないでしょうか。ゲラゲラと笑うのとは違いますが、苦しみのどん底でこそ手にする“魂の微笑(ほほえ)み”ではないでしょうか。そしてそれは、今、目に見えている現実だけを信じていたら得られません。将来の目には見えない神の国というゴールを、神の約束を信じるからこそ生まれる笑いではないでしょうか。信仰は、究極のポジティブ・シンキング(前向き思考)なのです。
 私たちにも、様々な貧しさがあり、涙があり、苦しみ悲しみがあります。東日本大震災のような、不条理な、どうしようもない出来事があり得ます。人生には不条理な、理不尽(りふじん)な出来事が起こり、突然、家族を、財産を、健康を、命を、奪われることがあります。人の悪意による苦しみや不幸に見舞われることもあります。
 私は、そのような苦しみ悲しみに遭(あ)った人の気持を、“もし自分がそうだったら”と置き換えて考えると共に、そういう方が時には絶望しそうになりながら、涙を流しながら、それでも歯を食いしばって、耐えて、必死で生きている姿を思うと、思わず涙が出そうになります。そして、そういう私たち人間のことを、神さまは決して見捨てないと強く思うのです。もし私が神さまだったら、決して見捨てません。何とかしてあげようと思います。まして神さまが、そのように思わないはずが、なさらないはずがありません。きっと泣いている人が、笑える日を用意してくださる。不幸な人が幸せになる時をつくってくださる。「神の国」と言われる時を備えてくださっている。理屈ではなく、本当にそう信じています。そうでなければ生きられません。


 私たちの人生にはきっと、そのような究極のゴールが用意されています。だからこそ、そのゴールを、神の国を見据(す)えて、目指すような生き方を、“今”する必要があるのではないでしょうか。苦しみ悲しみの中で希望を失わないことも、そのような生き方です。また、今、私たちが幸せを感じることがあるなら、その幸せを分かち合う。富を持っているなら、満腹なら、笑っているなら、その幸いをだれかと分かち合う生き方が、神の国にふさわしいのではないでしょうか。
 同じルカによる福音書の16章に〈金持ちとラザロ〉という話があります。毎日遊び暮らしている金持ちの屋敷の門前に、ラザロという「できものだらけの貧しい人」が横たわり、物乞(ご)いをしながら飢えをしのぎ、生きていました。やがてラザロは死んで天にある宴会場に、天使たちに連れて行かれ、他方、金持ちは陰府(よみ)に行って、炎にさいなまれながら後悔し、生きている自分の親族のところにラザロを遣わして、生き方を注意してほしいと願う話です。
 私は、富を持っていて、笑って過ごせること自体が悪いのだとは思いません。ただ、自分の持っているもの、神さまから与えられているものを独り占めにして、持っていない人と全く分かち合おうとしない生き方が、神の国にふさわしくない、すなわち“罪”なのではないでしょうか。
 例えば、世界の人口の20%の人間が80%の食糧を支配し、80%の人々が20%の食糧で飢えをしのぎ、暮らしていると言います。食糧がないのではなく、この世にある食糧を分かち合えば、飢えている人はいなくなるとも言われます。私たち日本人は、20%の人間の側でしょう。それは国際政治の課題でしょうし、私たちは政治家ではありません。けれども、一人の人間として、神を信じる人間として、何かできることがある。神の国にふさわしい、分かち合う、慎(つつ)ましい生き方ができるはずです。
 “ノブリス・オブリジェ”という言葉があります。高貴な人、力のある人には、社会に貢献し、人々に尽くす義務と責任がある、という思想です。聖書から、キリスト教信仰から生まれた人生観です。分かち合う生き方です。先ほどお話しした平尾昌晃さんも、退院後は、社会の中で恵まれない立場にいる人たちを支え、寄り添って行こうとする活動に力を入れている、と記事の最後にありました。
 お金や物だけではありません。精神的な幸いと不幸、喜びや悲しみだって、分かち合うことができます。愛によって互いに寄り添い、癒しと救いを分かち合うことが私たちにはできます。相手を受け入れ、親切に、優しく生きる道があります。
 私たちは高貴ではないでしょうが、従うべき主イエスの道は、信仰によるオブリジェ、愛のオブリジェです。愛のない私たちはつまずくことも、苦労することもしばしばですが、御言葉に励まされ、聖霊に支えられて、神の国を目指す道を歩きましょう。


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