坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2012年4月1日  受難節第6主日礼拝説教  「真理を証しするために来た」   

聖書 ヨハネによる福音書18章28〜40節 
説教者 山岡創牧師

 ◆ピラトから尋問される
18:28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
18:29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
18:30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。
18:31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
18:32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18:34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18:35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18:36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18:37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
18:38 ピラトは言った。「真理とは何か。」
◆死刑の判決を受ける
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
18:39 ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」
18:40 すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
     
     「真理を証しするために来た」
 2月22日から〈受難節レント〉の歩みを続けて来ましたが、今日は受難節第6主日、受難節最後の日曜日を迎えました。今日から〈受難週〉と呼ばれる1週間が始まります。この金曜日に主イエス・キリストは十字架に架けられ、処刑されます。その苦しみの意味を思いながら、この1週間、早天(そうてん)祈祷会で祈りを共にします。
 ところで、受難節最後の日曜日は〈棕櫚の主日〉と呼ばれます。ユダヤ人最大の祭りである過越祭に参加するために、主イエスがガリラヤから上京され、ロバの子に乗ってエルサレムに入られた時、群衆が棕櫚(シュロ)の葉の枝を持って迎えたことにちなんで、そう呼ばれます。
 エルサレムで、群衆が棕櫚の枝を持ってだれかを迎えるのは、敵を打ち破って凱旋(がいせん)するイスラエルの王を迎える古(いにしえ)のしきたりでした。つまりエルサレムの人々は、主イエスにイスラエルの王、ユダヤ人の王としての強さ、リーダーシップを期待していたのです。
 当時、ユダヤ人はローマ帝国に支配されていました。そのためにイスラエルという彼らの独立国家を失っていました。税金を搾(しぼ)り取られ、多くの権利を奪われて、彼らは苦しく、屈辱的(くつじょくてき)な生活を続けていました。だから、ユダヤの人々は絶えず、ローマ帝国を打ち破り、国を復興する英雄メシアを期待していました。エルサレムの群衆は、主イエスこそ、その人ではないかと期待して迎えたのです。


 けれども、そのようなカリスマ的英雄の出現は、ローマ帝国の立場からすれば、何としても阻止(そし)しなければなりません。当時ユダヤ人を統治(とうち)していたのは、ローマ帝国から任命され、派遣されていた総督(そうとく)ピラトでした。だから、ピラトは、主イエスが祭司長ら、ユダヤ人の主だった人々に訴えられて、総督官邸に連れて来られたとき、「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)と尋ね、尋問(じんもん)の後で重ねて、「それでは、やはり王なのか」(17節)と念を押しています。ピラトにしてみれば、ユダヤ人に反乱を起こされることがいちばん責任問題になるわけで、ユダヤ人のだれかが王を名乗って現われた時には、反逆(はんぎゃく)罪として、小さいうちに芽を摘み取る必要があったのです。
 逆に言えば、反逆と反乱に関わること以外は、ピラトにとってはどうでもよかったのです。ユダヤ人の宗教上の問題など、どうでもよい。だから、これは奴らの宗教的ないざこざだと思ったピラトは、祭司長たちに「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」(31節)と言ったのです。
 実際、尋問におけるピラトと主イエスのやり取りはかみ合っていません。「ユダヤ人の王なのか」と問いただすピラトに対して、主イエスは、
「わたしの国はこの世には属していない。‥‥」(36節)。
と答え、「それでは、やはり王なのか」と念を押されると、
「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(37節)
と語っています。
 これは現世(げんせ)の王ではない、反逆罪、反乱罪ではないと判断したピラトは、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」(38節)と、訴え出た祭司長たちに示します。ところが、主イエスをねたみ、その伝道活動に反対し、怒りさえ感じている祭司長ら主だった人々は、主イエスを十字架刑へと陥(おとしい)れてしまうのです。


 「真理とは何か」(38節)。
さて、今日の御言葉の中で、ピラトがふと漏らしたこの一言が、深く印象に残って私の胸にも問いかけて来ます。「真理とは何か」。
普段、私たちは「真理」という言葉をまず口にしませんし、滅多に考えることもないと思います。聖書で読む以外、あまり縁(えん)のない言葉でしょう。けれども、意識はほとんどしていなくても、私たちの生き方に深く関わる事柄ではないでしょうか。
「真理」という言葉は、国語辞典で調べてみると、“本当の事”“間違いのない道理”と出て来ます。「真理」と言われると、何だかとても難しいことのように感じますが、そうでもない、要するに“本当の事”なのです。
“本当の事”って何でしょう? 私はふと、“本当の事”の反対は何だろう?と考えてみました。“本当の事”の反対は“嘘”です。そこでハッと気づいたのが、主イエスを訴えた祭司長たちの生き方です。彼らの生き方には嘘がある。
祭司長たちは、主イエスのことをローマ帝国に反逆するユダヤ人の王として訴えました。ところが、その訴えがピラトに受け入れられず、主イエスが釈放されそうになると、主イエスではなくバラバを釈放せよ、と大声で言い返しました。バラバは「強盗」(40節)であったと言います。
他の福音書では、バラバは「暴動と殺人のかどで投獄(とうごく)されていた」(ルカ23章25節、他)と記されています。ローマ帝国への反逆(はんぎゃく)を企(くわだ)てて暴動を起こしたか、暴動に加わったのです。つまり、ローマ帝国に反逆する者です。そのバラバを釈放せよ、と言う。
一方では、主イエスのことをローマ帝国に反逆する王だと言って訴え、他方では、実際に暴動を起こして反逆したバラバを釈放せよ、と要求する。これでは筋が通りません。矛盾しています。嘘があります。
けれども、彼らはそんな嘘など気にしない。自分たちの思い通りになれば良いのです。自分たちの気に入らない主イエスが処刑されさえすれば、何でもよいのです。そして、それは自分の我欲(がよく)、利己的な願望や利益を優先した生き方であって、“本当の事”を大切にしている生き方ではありません。その意味で、彼らは「この世に属する」人であって、「真理に属する人」ではないのです。
 けれども、それは果たして祭司長たちだけでしょうか? 私は自分を省みて、自分はどうだろうか?と考えさせられました。あからさまな嘘は言わないし、やらないかも知れない。けれども、日常生活の中で、小さな嘘をついてはいないだろうか。“嘘も方便”と言いますが、人を傷つけないための、労(いた)わるための嘘は有り、かも知れません。けれども、自分に有利に事が運ぶように、自分の思い通りになるように、自分が責められないように、言い訳がましい嘘で自分を塗り固めてはいないだろうか。覚えがあるのです。“本当の事”に生きていない自分がいるのです。皆さんはいかがでしょうか?嘘で固めた生き方は、どこかできっと破綻(はたん)します。


 「真理に属する人」になることを、この世に属さず、主イエスの国、神の国に属する人になることを、主イエスは私たちに求めておられます。
 最初の問いに戻ります。「真理とは何か」。
 ヨハネによる福音書には、他の3つの福音書に比べて、「真理」という言葉が非常に多く出て来ます。そして、もう一つ、他の福音書に比べて、圧倒的に多く使われている言葉があります。それは、「愛(する)」という言葉です。ヨハネによる福音書は“真理の福音書”“愛の福音書”だと言っても過言ではありません。そして、この二つは密接に結びついていると思います。
 真理とは愛に関わることです。そして、ヨハネによる福音書における愛の頂点が次の御言葉です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節)。
 この御言葉の内容こそ、主イエスが語る「真理」、聖書の真理、神さまの“本当の事”だと言うことができます。神は愛である。神は、お造りになったこの世のすべてを愛している。この世の人間を一人ひとり愛しておられる。そして、この“わたし”を愛しておられる。3章16節の御言葉の「世」という言葉を、皆さん、“わたし”と置き換えて、味わってみてください。
 そして、その愛を示すために、神さまはご自分の独り子イエス・キリストを、この世にお遣わしになり、人間として生まれさせた。主イエスを通して、ご自分の愛を、ご自分の真理を表すためです。その神の御心を、よく分かっておられるからこそ、主イエスは言われるのです。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」。そして、主イエスはそのとおりに、分け隔(へだ)てせず人を愛され、最後は、ご自分を処刑しようとする人とさえ戦わず、反抗せず、彼らの嘘と罪を背負って、十字架の上で死なれたのです。すべてを包み込む愛を、神の愛を、十字架の上で証しして逝(い)かれたのです。それが今日、棕櫚の主日に、私たちが心に留めるべきことです。


 嘘ではなく、本当の生き方をする。真理に属する者として生きる。自分のためばかりでなく、隣人を愛して生きる。それが、主イエスの教えられたことです。
 『こころの友』3月号に、東日本大震災の被災地で、1年間、足湯のボランティアを続けて来られた向井清子さんという、聖公会の信徒の方のことが掲載(けいさい)されていました。主イエスが十字架に架けられる前に、最後の晩餐の席上で、弟子たちの足を洗って、人に仕える愛を示された姿が、向井さんの中で、足湯ボランティアとつながったのだそうです。足湯を通して、至近距離でひざまづき、被災した方々との間に深い関係が生まれると向井さんは言います。そんな足湯ボランティアを静かに続けながら、向井さんは、
  足湯される方々の気持を理解したいと思っても、それはできないのだとわかりました。足湯する側とされる側ではやはり違うんです。でも、その違いはネガティブなものではないと感じています。立場は違うけれど、「共にいる」。それを大切にしていきたいと思っています。
 このように語る向井清子さんもまた、主イエスの姿に従い、真理を証しする者、愛を証しする者だと感じます。
 真理と愛を証しされた主イエスは、弟子たちに、私たちに、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と教えられました。私たちも、“本当の生き方”を、人を愛し、真理を証しする生き方を、心がけて行きたいと願います。


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