坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2012年9月9日 礼拝説教「真っ白に輝く瞬間」

聖書 ルカによる福音書9章28〜36節
説教者 山岡創牧師

◆イエスの姿が変わる
9:28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。
9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。
9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
9:32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。
9:33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。
9:34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。
9:35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。
9:36 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。


        「真っ白に輝く瞬間」
 イエスさまは、ご自分が宗教指導者たちから排斥され、十字架に架けられて殺されることを予告し、弟子たちには、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)と言われました。「この話をしてから八日ほどたったとき」(28節)というのが、今日読んだところです。
 イエスさまは、3人の弟子を連れて山に登り、祈られました。どんなことを祈られたのでしょうか?たぶんご自分の願いを祈ったのではなかったでしょう。“ああしてください”“こうしてください”と願ったのではなかったと思います。そうではなくて、ご自分が十字架に架けられて殺されることが、果たして神さまの御心(お考え)なのかどうかを、改めて確認するための祈りだったと思われます。簡単に言えば、自分の進む道が神さまの願いに沿っているか、それを尋ねる祈りです。
 祈りとは何でしょう?自分の願いを神さまに申し上げていいのです。しかし、その願いを神さまに聞き届けてもらい、叶えてもらうのが祈りだと誤解してはなりません。祈りとは、自分が願ったことに対して、神さまが何とお答えになるか、神さまが自分に何を願っているか、その神さまの思いを心に感じ取り、受け取る営みなのです。


 イエスさまも、神さまがご自分に何を願っておられるかを尋ねようとして祈られました。そのような祈りに対して、最も端的に神さまのお答えを表すものとは何でしょうか?それは、聖書です。聖書の御(み)言葉です。
 イエスさまが祈っておられると、「見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである」(29節)と記されています。
 モーセは、ユダヤ人の先祖であるイスラエルの人々を奴隷の国エジプトから脱出させ、彼らのために神の掟である律法を授かり、伝えた人物です。また、エリヤは、イスラエルの人々が土着の神であるバアルを信じる宗教信仰に支配された時、これと闘った偉大なる預言者です。
 実はこの二人は、モーセは旧約聖書の律法を、エリヤは旧約聖書の預言書を象徴しています。だから、二人合わせて旧約聖書を指し示しているのです。
 ですから、モーセとエリヤが現れたということは、聖書が現れたということと同じです。つまり、イエスさまの祈りに対して、聖書の御言葉が示されたということです。聖書を通して神さまの御(み)心が示された、ということです。
 モーセとエリヤは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(31節)とあります。それは聖書が、21節でイエスさまが予告したとおりに、イエスさまの最期を、「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され(る)」、そういう最期だと語った、ということです。イエスさまが苦しみ、排斥され、殺されることが、神さまの御心、神さまのご計画なのです。
 それって、ちょっとないんじゃない!?神さまを信じている者を、しかも最も忠実に従っている人を、そんな目に遭わせることが神さまの御心だなんて!と、私たちは思うかも知れません。


 けれども、イエスさまが、そのようなご自分の「最期」の様子をモーセやエリヤと語り合っていた時、「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(29節)と言います。イエスさまは栄光に輝いていたと言います(32節)。十字架に架けられ殺されるという、惨(みじ)めな最期を遂げるイエスさまが、栄光に輝いている、というのは一体どういうことでしょうか?この輝きとは、どんな輝きなのでしょうか?
 今年の夏はロンドンでオリンピックが開催されました。夜更かしして、テレビで競技を見たという方がこの中にもおられることでしょう。メダリストたちが表彰台に立つ姿、特にその中央に立つ金メダリストの顔は、世界一という喜びに輝いていました。
 栄光に輝くと言えば、私たちは普通、こういうことを考えるでしょう。そして、こういった栄光の頂点とも言うべきものが、「全世界を手に入れる」(25節)ということではないでしょうか。イエスさまの時代、全世界を手に入れて、その権力の座に、栄光の頂点に君臨していたのはローマ皇帝でした。当時のほとんどの人が、ローマ皇帝こそ栄光のトップに輝いていると思っていたことでしょう。
 けれども、聖書はそのようには見ていないのです。イエスさまは9章25節でこう語っています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」。これはまさに、ローマ皇帝のことを言っているのです。
 全世界を手に入れて、世界のトップに立っている。けれども、それは本当の意味で栄光に輝く生き方ではない。それは、我身を滅ぼし、失う生き方だ。なぜなら、この世界をお造りになり、根底から支え治めている神さまを信じていないからです。神さまを信じないで、自分こそが神なのだと思い上がり、人々に自分を礼拝するように強制しているからです。自分を礼拝しない教会とクリスチャンを迫害し、殺しているからです。そういう生き方は輝いているとは言えない。神さまに喜ばれるような、天において永遠の命の冠をいただけるような生き方ではない、とイエスさまは言われます。
 もちろん、オリンピックで世界一を目指すような生き方そのものを、努力してトップを目指すような生き方を、聖書が否定しているわけではりません。ただ、聖書が語る輝きとは、そのような栄光の輝きとは違う、ということです。


 では、聖書が語る輝き、輝いた生き方とは、どのようなものなのでしょうか?話は変わりますが、『信徒の友』9月号に、ボランティアについての特集が組まれていました。その中に、〈生き方としての「ボランティ」論〉と題する文書が載っていました。遠州栄光教会の会員で、社会福祉法人・小羊学園の理事長をしておられる稲松義人さんという方が書かれたものです。
 稲松さんは、ボランティアというのは、ただ単に、休みの日などにする奉仕活動のことを言うのではなく、人の生き方そのものに関わることだと言われます。神さまによって助け合うように造られた人間が、神さまとの命のつながりを感じ、また人との命のつながりの中で生きようとすること、人のことを考え、人のために生きる姿勢こそボランティアだと言われます。
 そういう文書の中で、稲松さんは、〈3年B組金八先生〉というテレビ・ドラマを例に挙げ、武田鉄也演じる金八先生が、進路を決める生徒たちに語った言葉を引用されています。
  人には二通りあります。自分のためだけに生きる人と周りの人たちのことも考えて生きる人です。だから、美容師になるなら髪を切ってもらった人が幸せになるような技術を持った美容師になりなさい。サッカー選手になるなら見に来た人が感動するような試合ができる選手になりなさい。大工さんになるなら住む人が幸せになる家を建てなさい。
 周りの人たちのことも考えて、周りの人のために生きる。それが、ボランティア本来の心、人に仕え、奉仕して生きる生き方だということです。
 そして、このような人に奉仕する生き方こそ、輝いている生き方だと、聖書は示しているのだと思います。
 イエスさまが宗教指導者たちに排斥されて、殺されるような生き方は、見た目には惨めな最期、栄光の輝きなんてこれっぽっちもない生き方のように思われるかも知れません。けれども、それは人に奉仕し、人のために生きる生き方の究極の姿です。
 イエスさまは、救世主メシアともてはやされて、ユダヤ人を苦しめるローマ帝国を打ち倒すようなヒーローのような生き方を、ユダヤ人の王国を再建してその王様になるような生き方を望んではおられません。社会の中で疎外(そがい)されている人の友となり、苦しむ人を支え、悲しむ人を慰め、そうやって人と人の間に命のつながりを造り上げていくような生き方をしておられるのです。そのために宗教の“建前”をぶち壊して、指導者たちと対立することになってしまう。それでも逃げないで、そのために自分が損をしても、ピンチになっても、排斥され、十字架に架けられて殺されることになっても、自分を捨てて、最後まで人に仕え、人のために生きようとする。そういう生き方こそ輝いている。本当の命の栄光に輝いていると、神さまは聖書を通して私たちに教えておられるのです。
 そして、そういう生き方をしている人を見ると、触れると、私たちは感動します。格好いいと思うのです。そして、自分もそういう生き方を少しでもしたいと憧(あこが)れるのです。
そういう意味では、私たちの信仰は、人を愛し、私たちのために生きるイエスさまへの憧れだと言うことができるでしょう。


 ペトロら弟子たちには、この輝きの意味がまだ分からなかったようです。見た目の栄光をいつまでも保持しようとして「仮小屋」(33節)を建てようとしました。3人を祭る廟堂(びょうどう)を建てようとしたのです。弟子たちは当時、まだ何も分かっていませんでした。だから、何も話せませんでした。自分たちの中で、だれがいちばん偉いかと、いわゆるこの世の栄光を求める生き方を、自分のためだけに生きる生き方をして、その目的を遂げるためにイエスさまに従っていました。
 けれども、そういう弟子たちが、人を愛し、人のために生きる道を歩み始める時が来ます。イエスさまの十字架刑という「最期」を目の当たりにした後のことです。「最期」という言葉は、ギリシア語で“エクソドス”と言って、“出発”“旅立ち”という意味も持っています。イエスさまが、人のために生きて十字架で殺される「最期」は、神の栄光への“出発”です。そして、弟子たちも、自分のためだけに生きる生き方に死んで、周りの人のために生きる道へとエクソドス、出発したのです。
 私たちもエクソドス、人のために生きる神の栄光の道へと出発しましょう。歩き続けましょう。

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