坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2012年9月30日 礼拝説教「いつまで共にいられるか」

聖書 ルカによる福音書9章37〜43節
説教者 山岡創牧師

◆悪霊に取りつかれた子をいやす
9:37 翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。
9:38 そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。
9:39 悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。
9:40 この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」
9:41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」
9:42 その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。
9:43 人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。


     「いつまで共にいられるか」
今日読んだ聖書箇所に、一人の父親が出て来ました。彼には「一人息子」(38節)がいました。けれども、健やかに成長していませんでした。息子は悪霊(あくれい)に取りつかれていたのです。突然叫び出し、けいれんし、泡を吹くという症状が度々起こりました。
 これと同じ内容が書かれているマタイによる福音書(ふくいんしょ)17章14節以下を読みますと、そこにはこの息子が「てんかん」だったと、その病名が記(しる)されています。それが「悪霊」の仕業と言われているのは、当時、原因不明の症状が起こるのは悪霊のせいだと考えられていたからです。
 病を抱えて生きる、という現実が私たちにもあります。もちろん自分自身が何らかの病を患(わずら)いながら生きることも辛いことだと思います。けれども、それだけではなくて、自分の家族が病を抱えて生きているという状況も、やはり辛いことです。特に、この父親のように自分の子どもが病に苦しんでいたら、親は辛いのです。できることなら、子どもが苦しんでいる様子は見たくない。子どもに“どうして自分は、こんな病を持って生まれて来たのか。どうして苦しまなければならないのか”と言われたら、親は、まるで自分のせいで我が子がそうなったかのように、自分を責めたりします。できるものなら自分が代わってやりたい、治してやりたい、と思います。
 私も、この父親の気持が少し分かります。“この父親の姿は、自分のことなんだなあ”と、今日の御(み)言葉を黙想しているうちに気づかされました。聖書の物語がグッと身近に感じました。


 この父親は、イエスの弟子たちに、息子の悪霊を追い出して癒(いや)してくれるようにと頼みました。けれども、弟子たちにはそれができなかったので、山から降りて来たイエスに、「どうかわたしの子を見てやってください」(38節)と願ったのです。
 けれども、その願いに対するイエスの返事は、いささか冷たいような気がします。苛立(いらだ)っているようにも見えます。
「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」(41節)。
 子どもの病を治してやってください、と願ったら、信仰がないと叱られた。信仰がないあなたたちといつまでも一緒にはいられない。いつまでも我慢できない、と当たられた。訳が分からない。こんなことをいきなり言われたら、イエスにつまづいてしまうかも知れない。この父親が“もう2度と来るもんか”と思っても、不思議ではない主イエスの返事です。
 今までイエスは、このようなことを言ったことはありませんでした。どちらかと言えば、積極的に人の病や障がいを癒して来られました。その主イエスがどうして、ここでこのようなことを言われたのでしょうか。
 それは、イエスが、ご自分の最期が近いことを予期しておられたからだと思います。直前の聖書箇所でも、モーセとエリヤが現れて、イエスと3人で、イエスの「最期」(31節)について話し合っていた、と書かれています。これは、(旧約)聖書の御言葉によって、イエスがご自分の「最期」を示されていたということです。また、その直前の21節でも、「人の子(=イエス)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥(はいせき)されて殺され‥」と、イエスはご自分の最期を弟子たちに予告しておられます。また、今日の聖書箇所の直後でも、ご自分の死を予告しておられます。
 長老、祭司長、律法学者といったユダヤ教の指導者、社会の有力者たちから、イエスは煙たがられ、敵視され、狙われていました。だから、遠からず彼らに捕らえられ、裁かれ、十字架に架けられることを、イエスは予期していたのです。
 それで、イエスはあのように言われたのでしょう。だから、イエスの言葉はお叱りや苛立ちと言うよりも、“もうすぐあなたがたと共にいられなくなる。もう信仰のないあなたがたに忍耐し、あなたがたの信仰が目覚め、成長してくるのを待つことができなくなるんだよ”というイエスの心配であり、労(いた)わりです。そしてそれは、裏を返せば、たとえご自分がいなくなっても神を信じてほしい、信じ続けてほしいと願う祈りなのだと思います。


 イエスが共にいなくなっても、神を信じる信仰。神さまが共にいて、愛し、支えてくださることを信じる信仰。イエスはそのような信仰を持てるようにと願い、心の中で祈っておられるのです。
 ルカの教会の信徒たちが置かれていた状況がまさに、もうイエスは共におられない、という状況でした。イエスが十字架に架けられてから約50年の年月が過ぎている。イエスがいないのはおろか、イエスの直(じき)弟子たちももう死んでいなくなっていたでしょう。イエスの業(わざ)を直接見た、その話を直接聞いたという信徒たちも、もうほとんどいなくなっていたでしょう。そういう中で、どのようにイエスを信じ、神さまを信じて生きていくか、教会を続けていくか、とても重大な課題だったのだと思われます。
 そこで、イエスがいなくても信じる信仰が信徒たちに求められた。それは“見ないのに信じる信仰”だったのではないかと思います。イエスを見たから信じるのではなく、イエスを見なくても信じる信仰です。
 話は変わりますが、ヨハネによる福音書20章後半に、十字架の死から復活したイエスと弟子のトマスの話が出て来ます。他の弟子たちが“復活したイエスさまとお会いした”と喜んでいたとき、トマスはその場に居合わせませんでした。そのため弟子たちの“喜びの輪”の中に入れず、除者(のけもの)にされたような、寂しいような、悔しいような気持から、“皆の前に現れたのはイエスだとは認めない。その手に、十字架に架けられたときの釘跡があり、その釘跡に指を入れなければ信じない”とトマスは啖呵(たんか)を切ってしまいます。
 そんなトマスの前に、復活したイエスは現れ、手の釘跡をよく見なさい、指を入れて確かめてみなさい、信じる者になりなさい、と語りかけられました。そのイエスの優しさに触れて、トマスは信じます。けれども、その時イエスはトマスにこう言われたのです。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20章29節)。
 イエスを見たから信じるのではなく、見なくても信じられるようになりなさい、とヨハネの教会の信徒たちは求められています。それは、ルカの教会の信徒たちにとっても同じことです。


 では、イエスが共にいなくても信じる信仰、イエスを見なくても信じる信仰とは、どのように信じることでしょうか?それは、病が癒されるという奇跡が起こらなくても信じる信仰、自分にとって良いことが起こる事実を見なくても、神さまが自分を愛し、支え、導いてくださると信じる信仰だと思います。生前のイエスが共にいるなら、病は癒されるかも知れない。けれども、イエスはもういない。それならば、信じても病が癒されないから信じないか、病が癒されなくても信じるか、そのどちらかです。
 神さまを信じているのに病が治らない、問題が解決しない。不幸に見舞われる。これは、神さまを信じる者にとって重大な疑問かも知れません。特に、信仰の道に入ったばかりの頃はそうでしょう。
 今、『信徒の友』の〈日毎の糧〉コーナーで、旧約聖書のヨブ記を読んでいます。ヨブは、神を畏(おそ)れ、悪を避けて生きている、無垢(むく)で正しい人物として紹介されます。「よこしま」(41節)なところが全くないのです。ところが、そのヨブを災難が見舞います。全財産を失い、すべての息子・娘を失い、自分はひどい病に襲われて苦しみます。そのような苦しみ悲しみの中で、ついにヨブは、神を呪い、神が間違っていると非難し始めるのです。ヨブ記は、神を信じて正しく生きている者が、どうして幸いを与えられず、災いに遭うのか、という疑問を真正面から投げかけて来ます。
 病にかからず健康でいたい。家族が無事で、家庭が平和であってほしい。仕事・商売がうまくいって儲けたい。私たちは神さまを信じて、そんな幸せを願い、祈ります。もちろん、私たちの人生はそうであってほしい。けれども、人生は残念ながら、私たちの願うようには行きません。
 信仰のことを話していると、時々、神さまを信じたら良いことがある。現実的に幸せにされる。健康でいられる。家族が無事で、家庭がうまくいく。商売が繁盛する。神さまがそうしてくれる、と信じている人に出会います。そういう人を前にして、私は言葉に詰まります。“それは違います”と丸っきり否定はできない。そういう人生もあるかも知れません。けれども、信じたら神さまがすべて祝福し、良くしてくださると信じるのが、信仰の本来ではなのです。確かに、トラブルや災いが起これば苦しく辛い。不安に胸が揺れたり、絶望しそうになることもあるでしょう。けれども、そういう人生の現実の中で、良いこともあれば悪いこともある現実の中で、良いことも悪いことも一切込みで、神さまが私の人生を導き支えてくださっている。私を愛してくださっている。そう信じて、希望と勇気を失わずに生きていけることが“救い”なのです。信仰の本来なのです。イエスが共にいなくても信じる信仰、見ないのに信じる信仰です。
 そしてそれは、私たちの信仰が、イエスの十字架と復活を土台として成り立っているからです。十字架という苦しみから3日目に復活という栄光を、弟子たちが見たように、私たちも苦しみの中で、復活によって示された人生の希望を信じていくのです。


 イエスは、この父親の願いを聞いて、一人息子のてんかんの病を癒してくださいました。しかし今、信じる私たちのもとにイエスはおられません。だから、そのような私たちに期待されているのは、病を負って苦しむ息子と共に生きていくことです。“この苦しみの中にも神は共におられる”と信じて、自分の人生を否定しない。苦しみから逃げない。辛いけど、大変だけど、息子の苦しみを共に負って生きていく。その勇気と希望を、神さまは必ず私たちに与えてくださいます。必要な支えと助けを、御言葉によってきっと与えてくださいます。
 イエスはもう共におられない、と今日の説教で言い続けて来ました。確かに、生前のイエスは共におられない。でも、私たちの苦しみの中に、私たちの人生の中に、イエスは目には見えないけれど聖霊となって働き、私たちの心が折れないように支えてくださる。それが、本当の意味で“神が私(たち)と共にいてくださる”という恵みなのです。

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