坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2012年12月23日 待降節第4主日クリスマス礼拝説教「喜びを探し当てる旅」

聖書  マタイによる福音書2章1〜12節
説教者 山岡創牧師

◆占星術の学者たちが訪れる
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


「喜びを探し当てる旅」
 新約聖書の中で、マタイによる福音書とルカによる福音書がイエス・キリストの誕生にまつわる物語を語ります。お生まれになった救い主イエス・キリストを最初に礼拝したのは、ルカでは羊飼いたちになっています。他方、マタイは羊飼いたちのことを語りません。マタイ福音書では、最初にイエス・キリストを礼拝したのは、「占星術(せんせいじゅつ)の学者たち」(1節)でした。
 彼らは、ユダヤから見て東の方の国からやって来ました。おそらくペルシアの祭司たちではないかと言われています。彼らは、新しい「ユダヤ人の王」(2節)が生まれたことを、「星」(2節)を見て知りました。ユダヤ人の王と言っても、これが普通の王だったら、外国人である彼らがやって来ることはなかったでしょう。特別な王が生まれた、「メシア」(4節、=キリスト)と呼ばれる“救世主”が生まれたことを、彼らは星を調べていて知ったのです。自分たちが信奉(しんぽう)している星が啓示(けいじ)する救世主とは、どんなお方だろうか? 彼らは、それを知るために、東の方からはるばる、星に促(うなが)されて旅立ちました。


 私はふと、旧約聖書に登場するアブラハムという人のことを思い起こしました。アブラハムは、神さまに選ばれてユダヤ人のルーツとなった人物です。彼は、神さまから次の言葉をかけられました。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福(しゅくふく)し、あなたの名を高める。祝福の源(みなもと)となるように」(創世記12章2節)。
 こうしてアブラハムは、ハランという土地から、神さまに召し出されて旅立ちます。今までの自分と決別(けつべつ)し、“新しい自分”と出会うために、新しい生き方をするために旅立つのです。「祝福」を探す旅です。
占星術の学者たちは、星によって神の声、神の啓示(けいじ)に触れました。アブラハムは何によって神の声を聞いたのでしょうか? そう言えば、別のシーンで、アブラハムが星を通して神さまの声を聞く場面があります(創世記15章)。祝福の約束を神さまからいただいたとは言え、アブラハムには年老いても後を継ぐ子どもが生まれず、不安でした。そんなアブラハムが、夜、テントから外に出て、満天の星を仰いだとき、「あなたの子孫はこの(星の数の)ようになる」(15章5節)という神の声を聞いたのです。


 神の声に促されて、アブラハムは祝福を探し当てるべく旅をしました。占星術の学者たちも、星に促されて、新しい王を探し当てるべく旅立ちました。けれども、アブラハムの旅がそうであったように、学者たちの旅も決して、簡単な、楽な旅ではなかったと思われます。
 学者たちは途中で星を見失います。どっちへ進めばいいか分からない。迷い、不安に陥(おちい)ります。そこで、取りあえずユダヤの都エルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(2節)と情報を集めようとします。
 その学者たちの動きに、逸早(いちはや)く食いついたのは「ヘロデ王」(3節)でした。新しい王の誕生を喜んだからではありません。「不安を抱いた」(3節)からです。自分を王の座から追い落とすかも知れない存在だからです。そこでヘロデ王は悪事(あくじ)を企(くわだ)てます。学者たちを利用して新しい王の所在を知り、「わたしも行って拝もう」(8節)とは表向き、後で殺してしまおうと考えたのです。
 人の良い学者たちは、危(あや)うくだまされて、悪事に加担(かたん)させられそうになります。旅にはそういう危機もある、ということです。あるいは、学者たちもそう馬鹿ではない。ヘロデ王の意図など分かっていた。けれども、メシアの情報を提供する代わりに、見つけたらその居場所を教えろ、とギブ・アンド・テイクのような取引を持ちかけられたのかも知れません。
 けれども、そのような迷いや不安、危機を伴う旅路(たびじ)の末に、学者たちは、新しい王である救い主イエス・キリストを探し当てます。その鍵となったのは、聖書の御言葉であったと私は思います。
「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者(ぼくしゃ)となるからである」(6節)
 これは、旧約聖書ミカ書5章1節の御言葉です。この言葉に語りかけられて、学者たちは自分の進むべき道が見えたのです。見失っていた星をもう一度見つけたのです。そして、幼子イエス・キリストのいる場所の上に止まった星を見て、学者たちは「喜びにあふれた」(10節)のです。彼らは、聖書の言葉によってイエス・キリストを探し当てました。それは、「喜び」を探し当てる旅であったと言っても良いでしょう。
 私たちクリスチャンの人生もまた、聖書の言葉によって導かれる旅路です。迷いや不安、危険や悪事の中で、聖書の言葉を聞いて進む。聖書の言葉を信じて生きる。それは、「喜び」を探し当てるためです。


 聖書の言葉を聞いて進む人生の歩みの中で探し当てる喜びとは何でしょうか? 私は、今日の説教を準備しながら、一つの詩と出会いました。それは、〈星を動かす少女〉という松田明三郎という人の詩です。
クリスマスのページェント(宗教劇)で、日曜学校の上級生たちは、
三人の博士や、牧羊者の群や、マリヤなど
それぞれ人の眼につく役をふりあてられたが、
一人の少女は、誰も見ていない舞台の背後にかくれて、星を動かす役があたった。
「お母さん、私は今夜、星を動かすの。見ていてちょうだいねー」
その夜、堂に満ちた会衆は、
ベツレヘムの星を動かしたものが誰であるか気づかなかったけれど、
彼女の母だけは知っていた。
そこに少女の喜びがあった。
 クリスマス物語の劇の中で、舞台裏で星を動かす。だれも見ない。だれも知らない。だれもほめてくれない。だけれども、この少女の母親だけは、それがだれなのか知っている。見ていてくれる。それだけでいい。そこに少女の喜びがあった、と言うのです。
 占星術の学者たちは、星によって示された新しい王、神の救い主がどんなお方なのかを知るために旅をして来ました。そして、そのお方を探し当てました。そのお方がどんな方なのかを知りました。
 けれども、そのとき学者たちが知ったのは、自分たちが神さまに“知られている”ということだったのではないか。私は、〈星を動かす少女〉という詩から、ふとそのように思いました。自分たちが星に促されて旅を始めたことも、迷ったことも、ヘロデ王にだまされて悪事に加担(かたん)しそうになったことも、そういった誰も知らない、見ていない労苦と不安を、常に知ってくださっている方がいた。見守ってくれている方がいた。認めてくださる方がいた。受け入れてくださる方がいた。今まで気づかなかった、この“人生の舞台裏”を知った、神の恵みを知ったことが、学者たちにとって最大の「喜び」ではなかったかと思うのです。もう少し深く言えば、生きている自分ではなく“生かされてある自分”に出会ったということでしょう。
 最近テレビ番組を見ていると、しばしば“お母さん、あのね‥”というコマーシャルを目にします。一人の女性が、小さな子どものときに、高校生のときに、大人になってから、そして結婚して子どもを連れて実家に帰って来たときに、その度に“お母さん、あのね‥”と話しかける。何を話したのか、その内容は出て来ません。けれども、“お母さん、あのね”と、自分のことを聞いてもらう。それは、自分のことをこの母親がいつも見守ってくれている、分かってくれているという信頼があるからです。それは、この女性にとってきっと喜びであるはずです。
 自分が神さまに知られている、見守られている、認められているという喜び。それは、言い換えれば、このコマーシャルの女性が“お母さん、あのね”と話しかけているように、私たちにも話しかける相手ができた、ということです。“神さま、あのね‥”と信頼して話しかけられる相手ができたということです。もちろん神さまは目には見えません。目の前にいるわけではありません。だから、心の中で“神さま、あのね”と話しかける。それが祈りということでしょう。


 占星術の学者たちは、自分が神さまに知られていることを知りました。自分と共にいてくださる方と出会いました。それが、彼らの探し当てた大きな喜びでした。
 そしてそこから、新しい旅が始まります。新しい人生が始まります。
「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(12節)。
と最後にありますが、地理的な意味で、エルサレムには、ヘロデ王の城には戻らない別の道を帰って行ったという意味だけではない。神のいない人生から、神を信じ、神と共に歩む別の人生を歩き始めるのです。
 信じられるものがあるということ。これは、人間にとって幸せであり、喜びです。私たちも、“神さま、あのね‥”と話しかけられる人生を歩んで行きましょう。

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