坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2013年1月13日 礼拝説教「必要なことはただ一つ」

聖書 ルカによる福音書10章38〜42節
説教者 山岡創牧師

◆マルタとマリア
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」



「必要なことはただ一つ」
 先週の礼拝では、10章25節以下にある〈善いサマリア人〉とタイトルの付いている聖書箇所から、神さまの語りかけを聞きました。ある律法の専門家(彼は72人の弟子の一人だったかも知れません)が“永遠の命を受け継ぐには?”と主イエスに尋ねる。反対に主イエスから問い返されて、彼は“神を愛することと、隣人を愛することです”と答えます。「正しい答えだ。それを実行しなさい」(28節)と言われた彼は、しかし、主イエスのその言葉に聞き従わず、自分を正当化しようとして「では、わたしの隣人とはだれですか」(29節)と反論します。その反論に対して、主イエスが〈善いサマリア人〉のたとえ話をお語りになって、彼を諭されたのです。
 先週、この聖書の御(み)言葉を聞きながら、“あれっ?”と思われた方はおられないでしょうか?どういう“あれっ?”かと申しますと、“神さまを愛するって話はどこにいったの?”という疑問です。
 律法の専門家の答えは、神を愛することと隣人を愛することでした。そのうち、主イエスとの問答の中で、隣人を愛することが問題の中心点になり、善いサマリア人の話が始まり、結論が出て終わったかのような感がありますが、よくよく考えてみると、神を愛することについては何も触れられていないのです。
「心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい」(27節)
 この教えについては、ユダヤ教徒として、神を信じる者として当然していることだから、ここではもはや話題にも問題にもしなくて良い、ということでしょうか。
 そうではないのです。この福音書の著者であるルカは、その答えをここにちゃんと置いています。神を愛するとはどういうことか?という内容を、ここで表しています。それが、今日読んだ10章38〜42節なのです。神を愛するとはどういうことか?それは主イエスの話に聞き入ることだ、神の言葉を聞くことだと、ルカは、〈マルタとマリア〉の話を通して答えを示しているのです。
 実は、神を愛するとは分かっているようで、分かりにくいことです。“神さまを愛するって、どういうことですか?”と聞かれたら、皆さんは何と答えますか?礼拝に出席することだ。献金を献げることだ。奉仕をすることだ。お祈りをすることだ‥‥‥どれも間違ってはいません。けれども、それらすべての営みの始めに求められていること、根本的に求められていることは、主イエスの教え、神の言葉を聞くということです。
 だから、礼拝に出席すれば神を愛している、と言えるかと言えば、半分当たりで半分はずれでしょう。礼拝の中心に聖書朗読と説教がある。その神の言葉を、心を尽し、力を尽くして聞く。良い聞き手は説教者を育てる、と言いますが、良く聞くということは、すなわち神を愛することなのです。献金もただ献げれば良いのではない、奉仕もただ奉仕すればよいのではない。神さまがどのように献金することを、どのように奉仕することを求めておられるかを、聖書の御言葉を通して聞き取る。お祈りも、ただ自分の願いを一方的に祈ればよいのではなく、御言葉を通して神さまが求めていることを知り、その御(み)心が成るようにと祈るのです。人との関係において、生活全般において、神の言葉を聞き、それを活かした人との接し方、御言葉を適用した生き方をする。それが神を愛するということです。その意味では、隣人を自分のように愛する、自分が隣人になるということも、神の言葉を聞いて、神を愛することの一つだと言うことができるでしょう。
 神を愛することは、神の言葉を聞くことだ。それが私たちの信仰生活において、必要なただ一つのことだ、とルカは、今日ここで示しているのです。


 主イエスと弟子たちが宣教の旅を続ける中で、「ある村にお入りに」(38節)なりました。その村にマルタという女性が住んでいて、主イエスと一行を家に迎え入れました。マルタが以前から主イエスと知り合いであったかどうかは分かりませんが、今回が初顔合わせであるにしても、主イエスの教えに賛同し、主イエスの宣教活動をサポートしようと考えていたことは間違いないと思います。マルタは主イエスと弟子たちをもてなそうとします。そのためにせわしく立ち働きます。
 ところで、マルタにはマリアという妹がいました。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(29節)と記(しる)されています。もちろん、マリアも最初から何もせずに、主イエスの話を聞いていたのではないでしょう。姉のマルタを手伝って、主イエスをもてなすために立ち働いていたと思います。しかし、主イエスが話し始めた、御言葉を語り始めたので、今はもてなすよりも、それを聞くべき時だと判断して、働く手を止めて、主イエスの足もとに座り、その言葉に聞き入ったのでしょう。
 ところが、マルタは、そういうマリアの態度が気に入らないのです。主イエスへのもてなしを考えて、次はこうしよう、あれを出そうと考えながら、マリアの手も当てにしていたでしょう。ところが、マリアがその手を止めてしまったので、自分一人でしなければならなくなり、てんてこ舞いになった。そしえ遂に堪忍袋の緒が切れて、その不満を主イエスに対して爆発させます。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(40節)。
 この気持、私たちにもよく分かります。例えば、家で洗濯物をたたんでいる時、横で家族のだれかが何もしないでテレビを見ている。自分に余裕がある時はいい。でも、他にもやらなければならないことがあって、忙しい、余裕がないと、腹が立って来る。“お前もやれよ!”と言いたくなります。
 教会で奉仕をする。余裕がある時は喜んで、楽しくできる。自分独りでもやろう、という意気込みがある。けれども、余裕がなくなってくると、“他の人はやっていない。どうして自分だけがこんなにやらなければならないのか”と不満が積り、奉仕することがむなしくなって来ます。だれも自分の奉仕を認めてくれていない、分かってくれない、そんな気持になります。マルタもそんな気持になったのに違いありません。


 けれども、マリアの不満を聞いて、主イエスは、“マルタ、その通りだね。マリアにも手伝うように命じよう”とは言わないのです。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」
(41〜42節)
 なかなか厳しい言葉です。言われた方は、やっぱり分かってもらえないと不満と悲しみを感じ、すねてしまうかも知れません。それでも主イエスははっきりと語ります。
 必要なことはただ一つなのだ。それは、わたしの言葉に聞き入ること、神の言葉に聞き従うことだ。あなたは、聞くことをせずにもてなそうとするから、大切なことを見失って、思い悩み、心が乱れるのだ。一度もてなしの手を止めて、奉仕する手を止めて、わたしの言葉を聞きなさい。そして、父なる神さまの御心を汲み取ってから、すべてを始めなさい。そのように主イエスは、マルタを諭しておられるのです。
 御言葉を聞かずに、自分の考えだけで行うと、私たちの奉仕は、行動は、生活は、根無し草で、土台なしで家を建てているようなもので、平安がありません。うまく行っても、自分の力だと思い上がり、うまく行かなければ、思い悩み、心を乱します。御言葉に聞いて、神さまの御心に従ったのだから、“これで良い”という心の平安がないのです。また、御言葉に聞いていないと、うまく行かなかったときに、人のせいや環境のせいにして、“これでよかったのかな?”と自分を省みる目を失います。乱れの元です。
 主イエスの御言葉を聞かないマルタに何が起こっているのでしょうか。ずばり自己中心になっています。神中心になっていません。そして、自己正当化を起こしています。私はイエスさまをもてなしている。イエスさまのために奉仕している。だから、私は正しいのだ。何もしないマリアが、周りの人が間違っているのだ。それを認めようとしないイエスさまも間違っているのだ。そういう正当化が起こっています。直前の箇所で、律法の専門家が自分を正当化しようとした(29節)のと同じことです。
 けれども、それはマルタ自身の考えです。自分の思いです。主イエスの思いを汲み取ろうとはしていません。相手の気持や立場を考えて行動しようとはしていないのです。それは、聞こうとしないからです。聞こうとしないから、自己中心になるのです。
 マルタという名前、どんな意味を持っているかご存知ですか?いみじくも“女主人”という意味の名前です。まさに自分が主人になっています。自分が中心になっています。主イエスが人生の主人になっていない。そういう自分を切り替えて、主イエスを主人とする生き方をする。主イエスの言葉、神の御言葉に聞き従う生き方を選ぶ。それが、神を愛するということです。私たちの信仰生活にいちばん求められていることです。


 ローマの信徒への手紙10章17節に、「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです」という御言葉があります。2011年度に、私たちの教会で掲げた御言葉です。私たちの信仰に、最も必要なことです。
 私たちの信仰は、キリストの言葉を聞くことで始まります。御言葉を聞くことで、自分の奉仕に、行動に、人間関係に、生活に、“神さまの言葉を聞いて従ったのだから、だいじょうぶ”という芯が通ります。御言葉を聞くことで、うまく行かず、思い悩み、心が乱れることがあっても、御言葉にもう一度立ち帰って、自分の心をリセットすることができます。御言葉に聞くことで、これで正しいと思い込んでいる自分に気づかされ、悔い改めへと導かれます。
 何よりもまず、聖書の御言葉に聞き従うこと、それを選んでください。礼拝での聖書朗読と説教を、心を凝らして、自分自身と照らし合わせながら、よく聞いてください。普段の生活の中で、聖書を読み、神さまが自分にどうせよと求めておられるかを聞いてください。御言葉を、信仰の仲間と分かち合う機会を大切にしてください。それが必ず、私たちの人生の祝福になります。


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