坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2013年2月10日 礼拝説教 「求めなさい。そうすれば与

聖書 ルカによる福音書11章5〜13節
説教者 山岡創牧師

11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」



      「求めなさい。そうすれば与えられる」
 「わたしたちにも祈りを教えてください」(1節)と弟子たちは主イエスに願いました。この願いに応(こた)えて、主イエスは祈りを教えてくださいました。それが、先週の礼拝で取り上げた2〜4節の部分、読んでわかるように私たちクリスチャンが今も祈っている〈主の祈り〉です。先週の説教では、この主の祈りの一つひとつの祈りについてはお話しませんでした。しかし、大事なこととして、主の祈りが前半は神のための祈り、後半は人のための祈りでできていると申しました。まず父なる神さまをほめたたえ、感謝する。神さまの思いが何であるのかを考え、神さまの御心(みこころ)とご計画のために祈る。“自分”が真っ先ではない、人が中心ではない。“神さま”が先なのです。それが、私たちクリスチャンの祈りの姿勢(しせい)です。その上で、人の願いが来る、自分の願いが来る、とお話しました。
 ところが、〈主の祈り〉に続く5節以下で、主イエスは祈りについて何と教えておられるでしょうか。「求めなさい」(9節)と教えておられます。「しつように頼み」(8節)なさい、と諭(さと)しておられます。「そうすれば、与えられる」(9節)と約束してくださっています。まず神さまのために祈る〈主の祈り〉を教えながら、その後で、思いきり自分の必要を願い求めよ、と言っているのです。これは一体どういうことでしょうか?


 ところで、すぐそこの交差点の向こうにヤオコーというスーパーがあります。ある日、そのヤオコーで買い物をしておりましたら、子どもが“買って、買って!”とせがむ声が聞こえて来ました。見ると、小さな男の子が父親にせがんでいます。その声は、私が買い物をしている間中、響(ひび)いていました。皆さんも時々見かける光景でありましょう。
 その父親がその後どうしたか、分かりません。けれども、私は今日の聖書の御言葉を黙想(もくそう)しながらその時の光景を思い出しました。普通はお父さん、困っただろうなあと苦笑(にがわら)いする場面です。けれども、私は、自分の祈りに必要なのは、あの幼児のように、父なる神に向かって、本気で、懸命(けんめい)に求めることではないだろうか? ふとそう感じました。“駄々(だだ)をこねる”ほどに願い求めるのです。
 主イエスもそのように願い求めよ、と教えています。旅行中の友達が夜中に、一晩泊めてほしい、と訪ねて来た。主イエスやユダヤ人が生活していたパレスチナ地方は日中、非常に暑くて、夕方から旅に出て、目的地に夜中に着くということも少なからずあったようです。友達が夜中に突然、訪ねて来た。ユダヤ人にとって旅人をもてなすことは大切なことです。律法(神の掟)でも命じられています。ところが、あいにくもてなすパンがない。そこで同じ町に住む友達のところにパンを借りに行った。相手にしてみれば迷惑なことです。「面倒(めんどう)をかけないでください」(7節)と当然断られます。しかし、そこで“もっともだ。仕方がない”とあきらめて家に戻る、という話ではないのです。主イエスは言います。
「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て、必要なものは何でも与えるであろう」(8節)。
 しつように頼みなさい。求めなさい。そうすれば、相手は「面倒」を早く済(す)ませたいので、何でも与えてくれるだろう、というのです。そして主イエスは、祈りもそうだよ、神さまも同じだよ、しつように頼めば与えてくれるよ、と教えているのです。
 私たちは、それほど執拗(しつよう)に祈り求めたことがあるでしょうか? “この程度でいいや”とか“そんなにうまく行かないよ”と、適当なところで祈りを切り上げていないでしょうか? 主イエスは、私たちのそのような“祈りの粘(ねば)り不足”を案じておられるのです。
 一生懸命に祈り求めて、その願いが叶(かな)わなかったとき、“もう神さまなんて信じられるか”と信仰を捨てる人がいます。もちろん、その人の信仰が浅く、未熟な場合もあるでしょう。けれども、逆に言えば、それほど本気で、執拗に祈ったことが私たちにあるでしょうか。“こんなに祈ったのに、神さまは聞いてくれないなんて‥‥‥もう祈るものか、信じるものか”と本気で思うほど祈ったことがあるか? その本気さを、主イエスから問われているように思うのです。
 私たちは、心のどこかで、“イエスさま(聖書)はそう言うけれど、神さまに祈り求めたって、現実にはそうそう与えられるもんじゃないよ”と思っていないでしょうか。そして、現実的にあり得そうな範囲(はんい)の中で、自分の力で実現可能な範囲の中で、“これならあり得るんじゃないか、可能じゃないか”と予想して、その範囲の中で、“神さま、与えてください”とほどほどに祈っている。つまり、神さまを信頼せずに、この世の常識や人間の力、自分の力に頼っている。それは現実的ではあっても、信仰的ではありません。賢(かしこ)いのかも知れませんが、主イエスが喜ばれる生き方ではないのです。
 主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(9〜10節)と断言(だんげん)されました。約束されました。その主イエスの御言葉に、ひとかけらであっても本気を以って信じ、愚(おろ)かにも従って行く。しつように祈り求めて行く。そこから“信仰の第一歩”が始まるのです。


ところで、先ほどのヤオコーの話に戻りますが、あの後、お父さんは一体どうしたでしょうか? 実は、私がレジに並んでいる時も、“買って、買って!”とせがむ声はまだ聞こえていましたから、残念ながら、私はお父さんがどうしたか知りません。お父さんは、子どもが求める物を買ってあげたかも知れません。ならば、子どもは大喜びだったでしょう。けれども、買ってもらえなかったかも知れません。その場合、子どもは“どうして買ってくれないんだ。お父さんは意地悪だ”という怒りや悲しみを、しばらくは感じることでしょう。
では、立場を変えてお父さんの心を考えてみましょう。お父さんは、意地悪で買わないのでしょうか? そんな父親はいません。
 お父さんが買って与えないとしたら、どうしてでしょうか。それは、買って、買って、とねだるものをすべて買い与えていたら、我慢(がまん)のできない我(わ)がままな人間になってしまう、我が子をだめにしてしまう、と思うからです。我が子に良かれと思って、与えない。だから、お父さんから見れば、子どもがねだる物を与えないということが、かえって「良い物を与える」(13節)ことになるのです。
11節以下で、主イエスは、そういう父親の心を示しています。
「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」
 本気で、しつように願い求めても、現実には、すぐに与えられないこともしばしばあります。すべてが叶えられるわけでもありません。一生懸命に願い求めれば求めるほど、それが与えられなかった時のショックも大きいでしょう。
 しかし、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親はいない。まして天の父親は、私たちが魚を願い求めているのに、代わりに蛇を与えたりはしない。願ったものは与えられないかも知れないけれど、代わりに与えられるものは決して悪いものではない。それは、神さまが私たちに良かれと思ってくださった「良い物」なのです。いつかそれが、自分にとっても「良い物」だったと、自分が願い求めたもの以上に「良い物」だったと悟(さと)れる時がきっと来る。そう信じて、しつように祈り続けて行きたいのです。


 今日の説教のはじめに、まず神さまのご計画が成るようにと祈り求めることと、自分の必要なものが与えられるようにと願い求めることの矛盾(むじゅん)についてお話しました。主イエスはなぜ、祈りについて、このように矛盾したことを教えるのか、と。
 その答えはこうです。私たちの祈りは単純明快、“願い”でいいのです。“父なる神さま、○○してください”と一生懸命に祈る。神さまが“面倒をかけないでくれ。もう勘弁してくれ”と降参するほどに、しつように祈る。“良い子ちゃん”の祈りをしないでいい。最初から“神さまの御心が成りますように”などと心にもない祈りをしなくていい。思い出してください。イエスさまも、ゲッセマネの園で「父よ、‥‥この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14章36節)と、まず自分の願いを祈っているのです。改めてこんなことを言わなくても、私たちの願いが切実であればあるほど、私たちの祈りは強い願いになるでしょう。
 その願いどおりに神さまがしてくだされば、大感謝です。それが神さまの御心、ご計画だったのです。けれども、願い求めたとおりにならなかったらどうするか。それでも、神さまのご計画が成ったと受け止めることができるか。「良い物」が与えられたと受け止めることができるか。いや、そんなに簡単には受け止められないかも知れない。私たちには苦しみや悲しみ、怒りの感情があります。すぐには受け止められないかも知れない。それでも、信仰から離れずに生きられるか。祈りを捨てずに歩けるか。〈主の祈り〉によって求められているのはそのことです。神さまを中心にして祈る心とは、そのことです。
 そのために、神さまは「良い物」を私たちにくださいます。強力な“助っ人(すけっと)”を与えてくださいます。
「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)。
 父なる神さまは私たちに「聖霊」を与えてくださいます。これが、最大の「良い物」です。この聖霊が私たちの心に働くことによって、信仰から離れずに、祈りを捨てずに生きていける。「良い物」が与えられると信じて歩んで行けるのです。
 ニューヨークのリハビリテーション・センターの壁に、J・ロジャー・ルーシーという神父の次の言葉が刻まれています。
 大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、
    謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。
 より偉大なことができるように健康を求めたのに、
    より良きことができるようにと病弱を与えられた。
 幸せになろうとして富を求めたのに
    賢くあるようにと貧困を授かった。
 世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、
    得意にならないようにと失敗を授かった。
 人生を楽しもうとあらゆるものを求めたのに、
    あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。
 求めたものは一つとして与えられなかったが、
    願いはすべて聞き届けられた。
 神の意に沿わぬものであるにかかわらず、
    心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた。
 私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。
 もしかしたらこの人自身が、苦しいリハビリの中で、どうして神は求めるもの(癒し?)を与えてくださらないのかと苦しみ悩みながら、やがてこの信仰に達した、この心境を悟(さと)ったのかも知れません。それは、神の聖霊による賜物(たまもの)なのです。
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。いつの日か、自分の人生を振り返ってみるときに、私たちもこのように、良い物を与えられた、願いは聞き届けられた、と告白することができたらいいな、と思います。そのために、粘(ねば)り強く祈り続けて、信仰の道を歩んで行きましょう。



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