坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2013年3月3日 礼拝説教(受難週第3)「キリストが住み着く」

聖書  ルカによる福音書11章24〜28節
説教者 山岡創牧師

◆汚れた霊が戻って来る
11:24 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。
11:25 そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。
11:26 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
◆真の幸い
11:27 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
11:28 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

                      
       「キリストが住み着く」
 2月の間、私は月曜日の休みを使って、日用大工をする日が続きました。午前中にホームセンターに行って材料を買い込み、午後に組み立てをしました。その中でいちばん傑作だったのが“掘りごたつ”です。と言っても、床に穴を開けたわけではありません。最近、椅子に座ったまま入れるテーブル型のこたつがあって、いいなぁと思っていました。そこで、椅子と同じ高さがあって、こたつよりも一回り広い床を作ってやります。そして、その真ん中に足を入れられる穴を作って、そこにこたつを据え付けるという作り方です。ただし、我が家の場合は、ソファーをどこに置こう?捨てようかどうしようか?という問題があり、寄りかかれるところがあった方がいい、ということになって、掘りごたつの一面はソファーになりました。自家製掘りごたつ、なかなか快適です。
 この掘りごたつ、もう一つの副産物がありました。それは、リビングルームがきれいになる、という効果です。床にカーペットを敷いて、普通にこたつを置いていたときは、床に教科書やマンガ、脱いだ服が散らかり、ランドセルやかばん、たたんだ洗濯ものが置きっ放し、おまけにカーペットは歪んでいました。どんなに片付けなさいと言っても、きれいに掃除をしても、2日で元の状態に戻ります。ところが、自家製掘りごたつにしてから、もう1ヶ月近くリビングルームがきれいなんです。奇跡です。それは、床に寝そべらず、椅子と同じ高さで生活をしていますから、床に物を置きにくいということと、座っているお尻の下に、物を入れられる収納場所を設けたからです。掃除機もかけやすくなって、一石何鳥でしょうか、掘りごたつ様々です。家がきれいになると、何となく人を呼びたくなるから不思議ですね。


 さて、呼ばれたわけではありませんが、掃除をして整えられた家に、「汚れた霊」(24節)が戻って来るというのが今日の聖書の話です。ここでは、人が「家」(25節)にたとえられています。当時の人々は、原因不明の病気や障がい、どうしようもない状態は、悪霊(あくれい)がその人に取りついて引き起こしていると考えました。その悪霊が、人という家を、一度出て行き、砂漠をウロウロします。福音書の初めの方に、イエス・キリストと悪魔が荒れ野で対決するシーンがありますが、砂漠とか荒れ野は、悪霊の“基地”のように考えられていました。しかし、なかなか「休む場所」(24節)が見つかりません。そこで、「出て来たわが家に戻ろう」(24節)と戻ってみると、家は「掃除をして、整えられて」(25節)いました。汚れた悪霊は、“これは良い。自分一人で住んだらもったいない”と「自分よりも悪いほかの七つの霊」(26節)を連れて来て住み着きます。
「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(26節)。
主イエスはそう言われるのです。
 ところで、汚れた霊は自分から家出をしたのでしょうか?そうではありません。追い出されたのです。
 今日の聖書の箇所は、直前にある〈ベルゼブル論争〉とタイトルの付いた箇所とのつながりで読むことができます。主イエスが人の内から悪霊を追い出される。それを、心ない人は、“イエスは悪霊の王様ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているだけだ。イエス自身が悪霊の王様に取りつかれている”と中傷しました。しかし、主イエスはその非難中傷に反論し、自分は「神の指」(20節)で悪霊を追い出していると言われました。それはつまり、神の力で、更に直前の13節に書かれている「聖霊(せいれい)」の力で悪霊を追い出しているということです。その様子を、主イエスは次のようにたとえて言われました。
「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」(21〜22節)。
つまり、強い悪霊が人に住みついていると、その人は悪霊に支配されています。しかし、もっと強い聖霊がその人に働くと、その人は聖霊に満たされ、悪霊は追い出され、苦しみ悩みから解放されるのです。
 だから、悪霊(汚れた霊)は自分から出て行ったのではありません。神の力で、聖霊によって人から追い出されたのです。
 ところが、追い出された悪霊がウロウロして、再び戻って来ると、その家は「掃除をして、整えられて」いました。それだけなら何の問題もないのですが、肝心なことは、その家が“空き家”になっていた、という点です。でなければ、悪霊は、その人に入れなかったはずです。自分よりも強い聖霊が、その家の主(あるじ)として住み着いていれば、悪霊は入りたくても入れません。ところが、自分の仲間の悪霊まで連れて来て、いとも簡単に入り込んだわけですから、その人の内には聖霊が住んでおらず、空き家になっていたとしか考えられません。(並行箇所・マタイ12章44節では「空き家」と明確に書かれています)
 どうして聖霊は、その人の中から出て行ってしまったのでしょうか?そして、聖霊のいない空き家なのに、どうして掃除がしてあったのでしょう。


 その理由を考える材料として、この話を主イエスがだれに向かって語っているかを考えてみましょう。主イエスが語っているのは、直前の箇所で主イエスのことをベルゼブルと非難中傷した人々と思われます。だれとは書かれていませんが、ルカによる福音書の文脈からすると、これはファリサイ派の人々とその律法学者たちだと考えられます。
 ユダヤ教ファリサイ派は、神の掟である律法を熱心に守る人々でした。神が命じることを行い、禁じることをしないことによって、自分を整え、神の国にふさわしくあろうとしました。その志は立派なものです。
 けれども、彼らに決定的に欠けているものがありました。それは、神への感謝であり、信仰の喜びでした。彼らは、自分の行いで自分の内側を掃除し、整えようとしました。自分の力で神に救われようとしました。だから、自分の行い、自分の力を誇り、それを神さまに認めさせたい、認めてほしいという気持はあっても、神の力で、聖霊の働きによって自分が救われたという感謝がないのです。自分の行いは誇っても、神の救いに対する謙虚な感謝と喜びがないのです。そして、自分の行いを誇るあまり、行いの足らない人を非難しました。徴税人や遊女といった律法を行えない人々を裁き、神から見捨てられていると軽蔑し、差別しました。だから、ファリサイ派の人々の心には聖霊が住み着かなかったのです。
 さて、私たちもともすれば“現代のファリサイ派”になります。今、私たちは受難節レントの期間を歩んでいます。罪の悔い改めということが特に強調される時かも知れません。しかし、悔改めとは何でしょうか?自分の内側を見つめ直すことは大切な作業だと思います。けれども、“こんな自分では救われない”と自分にダメ出しをしたり、だから“もっと、もっとやらなくちゃ”と自分で何かを行って、自分を整え、掃除する必要もないのです。悔い改めとは、神さまに救われるために自分を整える行いではありません。そんなことをすれば、“まだまだ足りない。これではダメだ”と余計に落ち込むか、“自分はこんなにやった。神さまにふさわしい”と驕(おご)り高ぶり、他人を見下すのが落ちです。それはまさに、「その人の後の状態は前よりも悪く」なっているということです。
 神さまは、“お前が自分の内を掃除して、整えたら、救ってやろう”と言われる方ではありません。そうではなくて、神さま御自身が私たちの内を掃除し、整えてくださいます。神の独り子イエス・キリストという、言わば“掃除用具”を使って、私たちの内を掃除し、整えてくださいます。イエス・キリストの命と血によって、私たちの内を清めてくださいます。それが、イエス・キリストが十字架の上で死なれたことの意味です。私たちの内にある罪の心を清め、悪霊を追い出してくださるために、イエス・キリストがその命を犠牲として献げられたのです。
 だから、私たちに必要なのは、自分にダメ出しをして、だめな自分を自分の行いで変えて、神の救いにふさわしく掃除し、整えることではありません。だめなままの自分が、罪人の自分が、神の指で、神の力で、イエス・キリストの十字架の業によって掃除され、整えられ、救われていることを感謝すること。そのイエス・キリストが聖霊となって今、自分と共におり、自分の内に住み、自分を愛し、生かしてくださることを喜ぶことこそ必要なことです。それが本当の意味での悔い改めです。


 そのために、私たちは「神の言葉」(28節)を聞くのです。聞き続けるのです。神の言葉を聞くことで、私たちは、神さまが、イエス・キリストの十字架によって、神さま御自身の力で私たちを救い、イエス・キリストが私たちの内に住んで、愛し、生かしてくださる恵みを知るのです。繰り返し確認し続けるのです。自分の力で、自分の行いで何とかしなくちゃ、との思いが湧くとき、神の恵みに引き戻されるのです。
 主イエスがこの話をなさっている時、それを聞いていた女性が、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎(たい)、あなたが吸った乳房は」(27節)と叫んだと言います。しかし、主イエスはそれに同意せず、
「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(28節)
と言われました。
 妊娠という肉体的な意味でイエス・キリストを宿すことが幸いなのではありません。霊的な意味でこそキリストがその人の内に宿ること、キリストが聖霊となってその人の内に住み着くことこそ人生の幸いに他なりません。
 神の言葉を、心を開いて聞くことで、私たちの内に聖霊が働きます。聖霊が働いて、私たちに神の救いの恵みを悟らせます。恵みを悟ると感謝と喜びが生まれます。その時、イエス・キリストは私たちの内に聖霊となって住み着いておられます。もはや私たちは空き家ではありません。
 受難節レントの今、神の言葉によってもう一度、キリストの十字架によって、神の恵みによって救われることを確認しましょう。感謝と喜びを確認しましょう。

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