坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2013年3月31日 礼拝説教(復活祭イースター)「あなたがたが赦せば」

聖書 ヨハネによる福音書20章19〜29節
説教者 山岡創牧師

◆イエス、弟子たちに現れる
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
◆イエスとトマス
20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

                      
       「あなたがたが赦(ゆる)せば」
 今日の聖書の箇所を読むたびに思います。トマスとはどんな人だったのだろう?と復活した主イエスが、ほかの弟子たちのもとに来られたとき、彼はその場に居合わせませんでした。そのために、ほかの弟子たちが「わたしたちは主を見た」(25節)と言っても、トマスは信じませんでした。それどころか、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)と言い張ったのです。
 トマスは、それは主イエスではないだろう、と疑っているのです。もし主イエスが復活して現れたというのであれば、その手に十字架に架けられた時の釘の跡があるはずだ。わき腹に槍で刺された跡があるはずだ。そこに自分の指を、自分の手を入れてみなければ、決して信じないぞ。つまりトマスは、その人が主イエスだと分かる確かな証拠、目に見える証拠を求めたのです。


 トマスとはどんな人だったのでしょうか?このことからトマスは疑い深い人だと言われることがあります。
 けれども、私はほかの弟子と比べて、トマスだけが特別疑い深いとは思いません。主イエスが来られたとき、トマスはそこにいなかったのです。復活した主イエスを見ていないのです。十字架に架けられて死んだ人間が復活するなんて、普通の常識と理性では考えられないことです。疑って当然です。信じられないのも無理はありません。
 だから、私はトマスを特別疑い深い人間だとは思いません。むしろ注目すべきは、トマスが吐いた言葉の内容と意味です。ただ、“信じない”と言ったのではない。「この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ」とまで言っています。
ひどい言葉だと思います。暴言です。トマスと主イエスの師弟関係を考えたら、本当にひどい、無情な言葉だと思います。主イエスが聞いたら、どんなに悲しむだろうか。復活した主イエスが本当に現れたら、本当に指と手を突っ込む気なのか?と言いたくなります。果たして、これはトマスの本心なのでしょうか?
そのように考えてみると、私は、この言葉はトマスの本心ではない、と思うのです。ならば、トマスの心にはどんな思いがあったのでしょうか。
私は、トマスはただ“寂しかった”のだと思います。主イエスが弟子たちのもとに来られた時、自分一人だけがその場に居合わせなかったのです。ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と確信的に語っているのに、自分一人だけが、その驚きと喜びの輪の中に入れない。同じ気持を共有できない。主の復活に沸く空気から取り残されている。寂しい。自分一人、疎外されている。おそらく、ほかの弟子たちには、驚きと喜びのために、無理もないことかも知れませんが、トマスの気持を配慮する余裕のある者は一人もいなかったのでしょう。だから、トマスはその疎外感と孤独感から意固地になって、信じないと言ってしまったのではないでしょうか。その気持を推測できないほかの弟子たちは、“何を!”と言い返したに違いありません。そのように言い合っているうちに売り言葉に買い言葉で、トマスはあそこまで言ってしまったのではないか。私はそう思うのです。後になってトマス自身、自分はどうしてあんなことを言ってしまったのかと後悔し、反省したに違いない。けれども、みんなの前で「信じない」と啖呵(たんか)を切ってしまった手前、素直になることができなくなってしまったのです。


 そんなトマスの気持を、主イエスだけが分かってくださいました。「八日の後」(26節)、つまり1週間後の日曜日です、主イエスは再び弟子たちのもとに来てくださいました。しかし、トマスにしてみれば、復活した主イエスにお目にかかれた喜びよりも、あんな暴言を吐いてしまった自分が、何と言って叱られるか、裁かれるかとビクビクしていただろうと思うのです。ところが、意に反して主イエスは叱りも、罵(ののし)りもしなかった。それどころか、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と、トマスの暴言をそのまま受け止めてくださった。その言葉に、トマスは、自分の孤独感と疎外感が受け止められた、否、自分のすべてが丸ごと受け止められているとの喜びを感じたに違いない。そこには、すべてを包む、あたたかい愛があった。その愛が、「わたしの主よ、わたしの神よ」(28節)との信仰告白を生んだ。その愛を感じた時に、トマスの心に湧き上がった喜びと悔い改めとが、この信仰告白を生んだのです。


 さて、ここまでは以前にもお話したことがあります。しかし、今日与えられた聖書箇所は、24節からではなく19節からです。私は今回、この〈イエスとトマス〉のエピソードを初めて、19節以下と結びつけて考える機会が与えられました。
 復活した主イエスは弟子たちのもとに来られて、もう1度、弟子たちを福音(ふくいん)宣教のために遣(つか)わすと宣言されました。そして、その際、「聖霊(せいれい)を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(22〜23節)と諭(さと)されたのです。
 その主イエスが再び現れて、トマスの言葉を、気持を受け止められた。トマスを信仰へと招かれた。その言葉と態度は、23節との関連で言えば、主イエスがトマスを“赦した”ということだと思います。公(おおやけ)の場で、ほかの弟子たちの前で吐いてしまった、赦すべからざるトマスの暴言を、ほかの弟子たちの前で、主イエスは赦してみせたのです。それは、罪の赦しのために弟子たちを遣わす主イエスが、赦すとはこういうことだよ、と見本を示してくださったということです。その赦しの前に、トマスは喜びと悔い改めを強く感じたでしょうし、ほかの弟子たちもトマスに対して腹を立てていたことを反省したに違いありません。そのようにして主イエスは、赦しによって、「あなたがたに平和があるように」(26節)と言われた平和を、弟子たちの間に造り出されたのです。
 その主イエスが、弟子たちを、否、現代の弟子である私たちを、この世へと、社会へと、職場へ、学校へ、家庭へとお遣わしになるのです。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。
 何のために?赦すためです。赦すことによって平和を造り出すためです。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」。
(22〜23節)   
 私たちが赦せば、その人の罪は消える。神の記録に残らない。私たちはそれほどの権威を託されて、遣わされるのです。
 赦すことは本当に難しいことです。自分が受けた傷や痛みを真っ先に考えたら、赦すことはできません。自分の力ではなく、聖霊の助けが必要です。相手のことを考え始めるとき、赦しの扉は少しずつ開かれて行きます。その扉の向こうに何があるか知っていますか?‥‥‥十字架が立っています。私たちの罪の贖(あがな)い、罪の赦しのしるしである主イエスの十字架が立っています。人を赦して、その扉を開けたとき、私たちは、十字架をはっきりと見るでしょう。自分が主イエスの十字架によって、命によって、愛によって赦されて生きている、生かされていることを、心から知るようになるでしょう。
 そのような神の赦し、キリストの赦しを知り、赦しに生き始める。それが復活の命です。そこから、天を目指す復活の命を生きることが始まるのです。


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