坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2013年5月12日 礼拝説教「人の命は財産によらず」

聖書 ルカによる福音書12章13〜21節
説教者 山岡創牧師

◆「愚かな金持ち」のたとえ
12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

                      
「人の命は財産によらず」
 聖書の翻訳には様々なものがありますが、できるだけ分かりやすく意訳した聖書で、リビング・バイブルというものがあります。その中で、今日の聖書箇所の19節「食べたり飲んだりして楽しめ」という言葉が次のように訳されていました。
“さあ、酒だ、女だ、歌だ!”。
非常にリアルな翻訳です。財産を得た者が宴を開き、酒と女に手を出すのです。
 神学校を卒業して、牧師として社会に出るとき、教授から諭(さと)されたことがあります。“牧師には気をつけなければいけないものが三つある。それは、金、酒、女だ”。そう言われたことを思い出しました。人間の欲望がいちばん醜くあらわになるのは、この三つだということでしょう。もっとも、これは何も牧師に限ったことではないと思います。どんな人でも、酒と金と色恋沙汰には気をつけなければなりません。


 「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」(13節)。今日の聖書箇所では、その3つの中でお金に関わる欲望、貪欲(どんよく)の問題が取り上げられています。遺産をめぐって兄弟、親族が争い合う姿を、私たちは現実に報道で、あるいは身近なところで耳にするのではなでしょうか。その争いを見聞きしながら、私たちは、自分なら、そのようなつまらない争いは引き起こさないと思うかも知れません。けれども、果たしてそうでしょうか?
 私は冗談でこんなことを考えたことがあります。だれかにも話したことがあるかも知れませんが、教会の資金作りのために、また会計に余裕を持たせるために、みんなで少しずつお金を出し合って、宝くじを連番で買う。連番の方が当たる可能性が少しは上がるからです。実際、そういう“宝くじサークル”もあるようです。例えば、40人の人が1人5枚分のお金を出資すれば、200枚の宝くじを連番で買うことができます。そして、もし当たった人がいたら、半分は教会に献金し、半分は自分の取り分として良い。どうでしょう?みんなで教会会計のことを考えながら、ちょっと楽しい夢が見られるかも知れません。
 けれども、もしもまかり間違って本当にだれかが3億円を当てたらどうなるだろうか?当たった本人は半分献金するのが惜しくなるかもしれない。周りの人は、当たった人をねたむかも知れない。きちんと記帳をしておかなかったら、そのくじは私のものだ、いや、私のだ‥‥という泥沼の争いが起こるかも知れない。教会がお金という名の悪魔に支配されます。
 何もないところではそんなことは考えないのでしょうが、いざ実際にお金があるということになったら、私たちは欲望をつつかれ、誘惑され、貪欲に陥り、人をねたみ、争うような罪の弱さを、心のどこかに抱えているかも知れないのです。


 遺産分配の調停を願うこの人に、主イエスは言われました。
「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」(14節)。
遺産問題の調停や裁判は律法学者の仕事であったようです。この人も、主イエスのことを、神の掟を教える律法の教師の一人と思って、自分の抱えている問題を申し出たのでしょう。けれども、主イエスはこの問題を取り合わず、こう言われたのです。
「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(15節)。
 主イエスは、この世の遺産問題を解決してくださる方ではありません。けれども、この世の遺産問題に臨む心の在り方を教えてくださる“命の調停者”“命の裁判官”です。人の命に関わるのは、人が自分の外側に持っている物ではなく、自分の内に持っているものだ。その心の在り方だ。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」。そう教えてくださるのです。
 そう言って主イエスは一つのたとえを語られました。たとえと言うより、主イエスがどこかで見聞きした実話だと言っても良いかも知れません。改めてお話する必要もないかも知れませんが、「ある金持ちの畑が豊作だった」(16節)と言います。彼は既に金持ちだったのです。ここらで静かに命の問題を思い巡らしたら良かったかも知れません。けれども、畑が豊作になった。大量の収穫物をどうしようか。彼の心に貪欲を呼び起こすような出来事が起きたのです。思い巡らした末に、彼はもっと大きな倉を建てることにしました。そして、その大きな倉に穀物や財産をすべてしまい込んで、自分に向かってこう言うのです。
「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり、飲んだりして楽しめ」(19節)。
 彼は大金持ちになったのです。言わば、人生の成功者です。その彼が、自分が積み上げた財産を使って快楽を買おうとする。快楽の中に幸せを求めようとする。私たちだったらどうしたでしょう。ともかく、彼は“命の在り方”を富と快楽の中に定めました。自分の幸せを富と快楽に求めたのです。その生き方が「貪欲」ということなのでしょう。
 けれども、その夜、神さまはこの大金持ちに言われます。
「愚かな者よ。今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(20節)。
神さまって、なんて意地悪なんだろう、と思います。せっかく倉を建て直して、すべて蓄えて、さあ楽しもうと思ったその夜に、命を取り上げるなんて!けれども、それが私たちの現実、私たちの命です。命は財産によってはどうにもならない。命は財産では買えないのです。命だけではありません。私たちが、自分の手の中にある、自分のものだ、と思っているものが、思いがけなく、自分の手の中からこぼれ落ちていきます。突然奪い去られます。財産はもちろん、仕事とそれによって築き上げた地位や名誉も、健康や美貌も、愛する家族や親しい友人さえも、失われる時があります。そして、それらが失われる時、私たちの楽しみも、幸せも、生きる希望も失われるのです。
 私たちが、財産や仕事、地位や名誉、健康や美貌、家族や友人関係といったものに自分の人生の基盤を置くのは当然のことです。無理からぬことです。とても大事な、大切なものなのです。
 けれども、それらはいつかやがて失われるものです。永遠ではないのです。だから、それらを永遠のものと思い込んで、もしくは永遠に続くようにと願って、それらのものにこだわり、しがみつく執着、それを「貪欲」というのかも知れません。
 そのような「貪欲」から解放されて、と言っても、そう簡単にはいきませんから、解放されることを願って、解放されることを目指して、それとは違う幸せを、喜びを、希望を、平安を求めて生きる。主イエスが教えようとされているのは、そのことだと思います。人の命は財産によらないというのは、ただ単に命の長さ、寿命を問題にしているのではありません。命をどう生きるか、その命の在り方、生き方を問いかけておられる。何を自分の命の土台としたら良いのか、それをよく考えなさいと言っておられるのです。


 先日、教会のある方をお訪ねして、お話をしました。その方は、週に1回、施設のデイ・サービスに通っておられるのですが、その施設で多くのご高齢の方々と話をする。それが楽しみと言っておられました。そして、この施設でのエピソードの中で、これは今日の聖書の御(み)言葉に関わりがあると思って、私が心に留めた話があります。それは、ご高齢のある方と人生とお金のことを話題にしていた時のことだと思われますが、その方が、“財産はその日暮らしていけるだけのものがあればいい。それよりももっと必要なのは‥‥”ということをしみじみと話されたというのです。
 その方はある程度、財産をお持ちの方だったのかも知れません。しかし、財産を持っていても幸せに、平安になれるわけではない。もっと大切なのは‥‥と言われたのです。ところが、私は覚えていたはずなのに、肝心の後半部分、人生にもっと必要な、大切なものは‥‥というくだりを忘れてしまいました。後でもう一度、そのお話を聞いてみようと思いますが、とてもうなずかせる話、心にストンと落ちる内容だったという印象が残っています。財産ではなくて、もっと必要な、大切なもの。それは結局、自分自身で見つけて、味わい、納得する以外にないものだということかも知れません。
 主イエスは、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(21節)と最後に言われました。神の前に豊かになること、それが主イエスの教える、人生の土台とすべき、必要な、大切なことです。
 では、神の前に豊かになるとは、どのように生きることでしょうか?今日の聖書箇所の直後に〈思い悩むな〉という主イエスの教えがあります。神さまが必要を満たしてくださるから、何を食べようか、何を着ようかと思い悩まずに、神さまを信頼しておゆだねしなさい、という内容です。この箇所と今日の聖書箇所はセットで読むと互いに補い合う内容です。この直後の箇所の最後に、「自分の持ち物を売り払って施(ほどこ)しなさい。擦(す)り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」(33節)と記されています。これが、神の前に豊かになるということだと言って良いでしょう。
 そこで思い出したのが、徴税人(ちょうぜいにん)ザアカイの話です。ルカによる福音書19章に出て来ます。ザアカイは「徴税人の頭(かしら)で、金持ちであった」と書かれています。金持ちになるために、相当あこぎな取り立てをしたに違いありません。けれども、金持ちになっても心が豊かに満たされないことに、ザアカイは次第に気づいていったようです。
 そんな時、ザアカイは主イエスと出会います。主イエスに声をかけられ、食事を共にし、家に泊める中で、ザアカイは全く変えられます。財産の半分を貧しい人に施し、だまし取った人には4倍にして返すと、主イエスの前で宣言したのです。せっかく蓄えてきた財産が、それではほとんど無くなってしまうだろうと思うのです。けれども、そうなっても惜しくはない。そう思わせる別の喜びが、別の幸せが、ザアカイの心を豊かに、決定的に満たしていました。それは、神さまを知り、神さまとつながる嬉しさであり、神さまに認められ、愛される幸せであり、神さまに教えられ、導かれて生きる平安でした。そして、神さまのために生きるが故に、人のために生きる喜びでした。ザアカイは財産への貪欲を捨て、神さまとの関係に命の土台を置き換えたのです。
 財産が全く要らないというのではありません。生活のためにお金は必要です。楽しみたい時だってあります。ただし、財産に対する貪欲を捨てる。こだわらない。縛られない。支配されない。失われるこの世のものを第一として執着せず、神との関係、人との関係において、愛によって自分を内側へと掘り下げ、充実させていく。
 神に愛されていることを喜ぶからこそ、神のため、人のために生きる。そこに私たちの命の豊かさは実現していく。その豊かさを、自分自身の人生として味わう歩みをさせていただきたいと願います。


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