坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2013年9月29日 大人と子どもの礼拝説教「弱さの中で発揮され

聖書 コリントの信徒への手紙(Ⅱ)12章1〜10節
説教者 山岡創牧師

◆主から示された事
12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。
12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。
12:3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。
12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。
12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。
12:6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、
12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。
12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。



    「弱さの中で発揮される力」
 “自分は、こういうところがすごいんだぞ”と、私たちは自分の何かを誇(ほこ)ることがあります。例えば‥‥私は走るのが早い。私はピアノが上手に弾(ひ)ける。私はサッカーがうまい。私は学校の成績が良い。私は料理(りょうり)が得意だ。私は大きな家に住んでいる。私は会社で高い地位に就(つ)いている。私は財産(ざいさん)をたくさん持っている。‥‥他にも色々と自慢(じまん)したくなることがあるかも知れません。
 では、私は自分の「弱(よわ)さ」を誇(ほこ)ります、という人はいますか?‥‥弱さを誇る、という人はなかなかいないと思います。弱さなんて誇りにならない。むしろ、人に知られないように隠(かく)しておきたい。自分の失敗(しっぱい)、恥(はじ)、できないこと、病気‥‥人に知られたら嫌(きら)われるかも知れない、バカにされるかも知れないと思う弱さは、隠しておきたいと思うのが普通(ふつう)です。ところが、今日の聖書の中で、この手紙を書いたパウロさんは、「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(9節)と言っています。どうしてでしょう? 不思議ですね。
 パウロさんにも普通に誇れること、自慢できることがありました。ユダヤ人は神さまの掟(おきて)である律法を守って生きています。この律法を人々に教える人を律法学者と言って、とても尊敬(そんけい)されていました。パウロさんはかつて、優秀(ゆうしゅう)な学校を卒業した律法学者のトップ・エリート(一番の人)でした。でも、パウロさんはそんなことを誇らない。別の手紙の中で、そんなものはゴミのようなものだとさえ言っているのです。
 また、今日の聖書箇所(せいしょかしょ)でも、他の人が味(あじ)わったことのないような経験(けいけん)をした、と書いています。自分の経験ではないように書いていますが、実は自分の経験です。それは、天にまで昇(のぼ)り、神の声を聞いたという経験です。でも、パウロさんはその経験を誇らないのです。その経験を誇ろうとすると、自分は思い上がった人間になってしまう。そう思って、パウロさんは自分を戒(いまし)めているようです。


 ところで、パウロさんは自分の体に「一つのとげ」(7節)を持っていました。とげが刺(さ)さると、痛(いた)いですね。つまり、「とげ」というのは、パウロさんにとって、それがあると痛くて、苦(くる)しくて、不都合(ふつごう)なもののことです。パウロさんのとげというのは、たぶん何かの病気、おそらく目の病気だったと想像(そうぞう)されます。
 パウロさんは、この病気に相当苦しめられたようです。イエスさまのことを伝(つた)えに行きたくても、この病気のために動けない、安静(あんせい)にしていなければならないことが、しばしばあったようです。伝道(でんどう)したいのに邪魔(じゃま)をされる。だから、パウロさんはこの病気を「サタンから送られた使い」(7節)だと言いました。サタンがこの病気によって伝道の邪魔をすると思ったからです。
 だから、元気になって、思いっきりイエスさまの救いを伝えられるようになるために、パウロさんはお祈りしました。“神さま、サタンの使いを離れさせてください。とげを抜いてください。この病気を癒(いや)してください”と、熱心(ねっしん)に祈ったに違いありません。
 けれども、神さまは“よろしい。あなたの病気を癒してあげよう”とは言いませんでした。神さまは、パウロさんの目の病気を治(なお)してはくださらなかったのです。
 けれども、そこでパウロさんは、“こんなに祈っているのに聞いてくれないなんて、もう神さまなんか、信じないぞ”とは思いませんでした。パウロさんは、神さまが治してくださらないということは、この病気によって、神さまが私に伝えたい何か意味(いみ)があるのだ、と考えました。それで、神さま、その意味を教えてくださいと、更(さら)に祈り続けたと思います。すると、不思議な答えが神さまから返って来ました。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)
 病気が治ったら恵みは十分、ということではない。病気を抱(かか)えたままで、今のままで、わたしの恵みは十分だと神さまは言われたのです。そして、神の力は、人の弱さの中でこそ、十分に発揮(はっき)されるのだ、と。どういうことでしょうか?
 ここにコップがあります。もし、このコップに半分、水が入っていたら、入れられるのは残り半分です。もしコップにいっぱいまで水が入っていたら、もう何も入れられません。でも、このコップが空(から)っぽだったら、このコップにすべて何かを入れることができます。私たち人間と神さまの関係も同じです。私たちの心コップに、私たちの思いや私たちの力が入っていたら、その分だけ、神さまの力は注(そそ)げなくなります。もし私たちの心がすべて、自分の力で満(み)たされていたら、もはや神さまを必要としなくなるでしょう。でも、私たちが誇れるものを何も持っていない。つまり、弱くて、心のコップが空っぽだと、それだけ神さまの力がワーッと入って来るのです。
 もしパウロさんが、病気もなく、健康(けんこう)で元気だったら、思いきりイエスさまのことを伝道することができたでしょう。でも、もしかしたら“これは、おれの力だ”と思い上がっていたかも知れません。神さまの力だと、あまり思わず、感謝(かんしゃ)しなかったかも知れません。でも、パウロさんが病気で、弱かったからこそ、神さまが支えてくださり、助けてくださり、導いてくださり、力を与えてくださった恵みを感じることができたのです。自分の力ではなく、弱さの中で神の力が働(はたら)くことを実感(じっかん)することができたのです。


 人の弱さの中でこそ、神の力は十分に発揮(はっき)される。この恵みは、頭で考えても分かりません。自分が弱くなったときに、一生懸命にお祈りして、神さまに支えていただいたと理屈抜(りくつぬ)きに感じて、初めて分かることです。
 ところで、2020年にオリンピックが東京で開催(かいさい)されることが決まりました。もしかしたら、この中から東京オリンピックに出場‥‥‥なんていう人が出るかも分かりません。
 マドリードにするか、イスタンブールにするか、東京にするか。開催国(かいさいこく)を決めるために、オリンピック委員たちの前で、自分の国の良さをアピールするプレゼンテーションというのがありました。日本では、滝川クリステルさんが言った“おもてなし”が、世界に知られるようになりましたね。
 私は、佐藤真海さんという人の言葉がとても印象(いんしょう)に残りました。佐藤さんは、障がいを負った人たちが競(きそう)うパラリンピックの走り幅跳(はばと)びの選手です。最初は、健常(けんじょう)な体でした。けれども、19歳の時に骨肉腫(こつにくしゅ)という骨(ほね)の癌(がん)の病気になって、右足のひざから下を切断(せつだん)する手術(しゅじゅつ)をした。スポーツやチア・リーディングをずっと続けて来た佐藤さんは、絶望(ぜつぼう)して、家に引きこもるような生活になってしまったと言います。そんなとき、お母さんが一つの言葉を掛けてくれた。“神さまは、その人が乗り越えられないような試練(しれん)は与えない”。その言葉に、佐藤さんはとても感じるものがあったのでしょう。絶望から立ち上がり、義足(ぎそく)を付けて、走り幅跳びを始めた。そして、パラリンピックに出場するまでになったのです。佐藤さんは、先の言葉を今も、いつも大切にしていると言います。
 右足を失うという弱さの中で、一つの言葉に力を与えられて生きている。私は、今日のパウロさんのお話と重(かさ)なるものを感じました。
 「弱さ」って、できれば無くしたいものですが、でもマイナスばかりではありません。私たちに大切なことを教えてくれます。神の力を教えてくれます。感謝を教えてくれます。


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