坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2013年10月13日 礼拝説教「神さまの捜し物」

聖書 ルカによる福音書15章1〜7節
説教者 山岡創牧師

 15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
                          
  「神さまの捜し物」
 一緒にご飯を食べるということは、古今東西いつでも、親しい交わりの象徴でありましょう。福音(ふくいん)書の中にも、主イエスがだれかと一所に食事をしている場面が数多く出てきます。
 けれども、そういう主イエスの態度に不平を鳴らす人々もいました。
「この人は罪人(つみびと)たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(2節)。
 ファリサイ派の人々や律法学者たちは、こう言ってつぶやきました。彼らは、神の掟を熱心に守る人々であり、また、掟を研究して民衆に教える人でした。神の掟をしっかりと守ることで、神さまに認められ、神の国に招き入れられる。そう考えている彼らにしてみれば、徴税人や罪人は神の掟を守らず、罪人として神から見捨てられている存在でした。だから、食事を一緒にするなど論外です。罪が移る。汚れが移る。そうなっては自分も神の国に入れなくなる。ファリサイ派や律法学者たちは、そう考えて、徴税人や罪人と一切交わりを持たなかったのです。
 ところが、主イエスの周りには、そういった人々が話を聞こうと集まって来る。主イエスも、それを拒絶しない。拒絶しないどころか、平気で彼らと一緒に食事までする。どういうつもりなのか。信仰が間違っているのではないか。そんな不満、そんな非難が、ファリサイ派や律法学者たちの中にはあったのです。


 そのような不平を洩らす彼らに対して、父なる神さまの御(み)心はこれだよ、と主イエスが示してくださったのが、今日の〈見失った羊のたとえ〉です。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友だちや近所の人を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」(4節)。
 あなたがたが、神に見捨てられていると見なしている徴税人や罪人を、神さまは、神の国に招き入れようと必死で捜しているのだ。そして、捜し当てたら「大きな喜び」(7節)が天に湧き起るのだよ。主イエスは、そういう神さまのお気持を、たとえで語っています。
 ユダヤ人にとっては馴染み深い羊の放牧も、私たちはほとんど知りません。けれども、ペットなら飼ったことがある人もおられるでしょう。そして、ペットが逃げ出してしまい、捜し回ったという経験をお持ちの方もいると思います。
 我が家では、もう10年以上、十姉妹(じゅうしまつ)を飼っています。玄関の靴箱の上に鳥かごを置いています。以前に、世話をしていたとき、2匹のうちの1匹が鳥かごから出てしまって、その時たまたま玄関のドアか窓が開いていて、外へ飛び出して逃げてしまったことがありました。私は瞬間、青くなりまして、急いで飛び出しました。でも、焦って追わずに、まず飛んで行った方向を見極めようと、階段の上から見ていました。幸い、籠の中で飼っているため、飛ぶ力が弱くなっており、あまり遠くまで飛ばず、道路の向こうのアパートの茂みに飛び込むのが見えました。私は階段を降りて行って、飛び込んだ茂みの周りを探し回りました。そして、うずくまっている十姉妹を見つけ、連れ帰って事無きを得ました。いなくならないで良かったとホッとしました。今でもその時のことをよく覚えています。
 どうして私たちは、逃げ出したペットを捜すのでしょうか。言うまでもありませんが、親しい関係を持っているからです。自分にとって大切な存在だからです。では、私の場合、もし十姉妹を10匹飼っていたらどうだったでしょう?9匹残っているから1匹ぐらいいいや、と言って、捜さなかったでしょうか。そんなことはない。やっぱり捜し回ったでしょう。これが、20匹でも、50匹でも、100匹でも同じことだと思います。そんなふうに考えてみると、かの羊飼いが99匹を野原に残しても、1匹の羊を探し回る気持が想像できます。羊飼いにとっては、どの1匹も、親しい関係を持った、大切な存在なのです。そしてそれが、私たち一人ひとりに対する神さまのお気持なのです。
 ファリサイ派の人々や律法学者たちは、神の掟を守るから、神さまは自分たちを愛してくださると言います。真面目だから、熱心だから、勤勉だから、優秀だから、良い子だから、価値ある存在と見なしてくださると言います。果たしてそうでしょうか?違います。
 旧約聖書の創世記の初めに、神さまが天地を造られた物語があります。その天地創造の中で、神さまは最初の人アダムとエヴァをお造りになり、命の息を吹き入れました。これは、人間はみな、神さまによって造られ、命を与えられている存在だということを象徴しています。しかも、神さまはアダムとエヴァを造り終えたとき、ご自分が造られた世界と人間を見て、最高傑作だと喜ばれました。私たちは一人ひとり、神さまにとって“喜び”なのです。
何かができるから、勤勉だから、優秀だから、良い子だから、神さまは私たちを愛してくださるのではありません。神さまが、思いを込めて私たち一人ひとりをお造りになったから、愛してくださるのです。愛を込めて私たち一人ひとりを造り、命をお与えになったから、だから私たち一人ひとりを大切なものとして、喜んで愛してくださるのです。ただ一人であっても、失いたくないのです。
見失った1匹に注がれる羊飼いの思い。それは、私たち一人ひとりに注がれている神さまの愛です。神さまは、“私”という一人の存在を、ご自分の心に刻み、天国の名簿に記入し、顔と名前を覚え、その髪の毛まで1本残らず数えていると言うほどに、“私”を知り、見守り、導き、支え、愛してくださるのです。


 愛するとは一対一の関係です。何人いても、百人いても、愛するとは、その一人に思いを注ぐことです。一人ひとりと、掛け替えのない存在として向かい合うということです。十把一絡(じっぱひとから)げにはできないことです。
 カトリックのシスターである渡辺和子さんが、まだ若く、修道生活をしていた頃の、あるエピソードを本で読んだことがあります。修道院で夕食のお皿をテーブルに並べていたとき、先輩のシスターが食堂に入って来ました。“何を考えてお皿を並べていますか”先輩のシスターに尋ねられました。“いいえ、何も。そう答えた彼女に対して、先輩のシスターは、“あなたは時間を無駄にしている”と言いました。何のことかと戸惑う渡辺さんに、その先輩は、“どうせお皿を並べるならば、夕食のときにその席に座るであろう一人ひとりのことを思い浮かべながら、お皿を並べてごらんなさい”と諭(さと)したそうです。その時、渡辺さんは、愛を込めるということを学んだと言います。
 実は私も、これと似たようなことをする時があります。それは、礼拝での聖餐式の時です。ご存知のように、私たちの教会の聖餐式は、その場で私がパンを裂きます。私は、礼拝中に出席者の人数を数えています。だから、何個に裂いて分ければいいか、分かっています。しかし、ある時から、私は人数でパンを裂くことをやめました。例えば、100人いるから、100個に裂けば良い、ということではないことに気づいたのです。
私は聖餐のパンを裂くとき、顔を上げて、一人ひとりの顔を見ることにしています。それに気づいている方もおられると思います。そうするのは、“今、ちぎったこのパンは、○○さんのために”と、一人ひとりのために、パンを裂こう、キリストの命を分かち合おうと考えたからです。そして、それが神さまの御心、イエス・キリストの御心だと思ったからです。顔を見、名前を心の中で呼んで、一人ひとりに、愛を込めてこのパンを裂こうと考えるようになったのです。
神さまは、見失った一人を捜し回ります。一人を愛されます。もちろん、他の99人はどうでも良いということではありません。神さまから見れば、100人が一人ひとり、この見失った一人でしょう。何としても捜し当てたい、関係を回復したい、愛し合えるようになりたい一人でしょう。
そして、この見失われた一人というのは、この“私”のことだ、自分のことだと気づいたとき、理屈抜きに、神の愛を感じたとき、悔い改めが起こっているのです。


「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(7節)。
 ところで、「悔い改める」とはどういうことでしょうか?自分の罪過ちを認めて、神に赦しを願い求めること、この世の俗事(ぞくじ)や欲望に向いている心を神さまの方に向け変えること、それが悔い改めだと私たちは考えるでしょう。その考えは間違ってはいません。
 けれども、今日のたとえ話を考えてみると、私たちは羊の立場ですから、実は羊は何もしていないのです。罪過ちを認めるとか、赦(ゆる)しを求めるとか、神さまに心を向けるとか、そういったことは何も描かれていません。動いているのは、むしろ羊飼いの方です。羊飼いが、見失った1匹の羊を必死で探し回り、見つけ出し、大喜びをする。罪人が悔い改める、私たちが悔い改めるとは、そういうことだと言うのです。
 どういうことでしょうか?それは、私たちが自分の思いや力で悔い改めようとしても、不十分だということです。悔い改めようという意識は重要ですが、それだけでは不十分なのです。大事なのは、私たちが悔い改めようと思う前に、既に神さまが、私たちのことを大切に思って、懸命に捜し回っておられたという真実。その真実な愛の中に、私は、自分が気づこうと気づくまいと、いつでも置かれていたのだという恵みに気づくということなのです。“私が”ではなく、“神さまが”なのです。私が悔い改めるのではなく、神さまが私を捜し、見つけ、愛してくださる。その愛によって、私は“人生の迷子”だったのに捜し当てられて、愛されて、生かされている。その恵みに気づいて、神さまのお計らいを信頼しておゆだねする。それが「悔い改める」ということだと主イエスは教えているのです。
 そしてそれは、神さまの「大きな喜び」なのです。天地を創造した時にまさるとも劣らない喜びなのです。救われた一人が、新たに誕生したからです。


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