坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2013年11月3日 永眠者記念礼拝説教 「命を信じるか」

聖書  ヨハネによる福音書11章17〜27節 
聖書 山岡創牧師
                   
11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。    

     「命を信じるか」
 いのちが一番大切(たいせつ)だと思っていたころ、
 生きるのが苦(くる)しかった。
 いのちより大切なものがあると知った日、
 生きているのが嬉(うれ)しかった。

 この詩は、星野富弘(ほしのとみひろ)さんという詩人が『鈴(すず)の鳴(な)る道』という詩集(ししゅう)の中でつづっているものです。多くの方がご存知(ぞんじ)のことと思いますが、星野富弘さんは、高校の教師として体育の指導(しどう)をしていたときに、器械体操(きかいたいそう)の着地(ちゃくち)に失敗して首の骨を折り、首から下の体、手足が全く動かなくなってしまいました。24歳のときでした。病院のベッドで、絶望(ぜつぼう)して毎日を過ごす星野さんでしたが、ある日、聖書(せいしょ)と出会(であ)い、牧師(ぼくし)や看護師(かんごし)の方々を通(とう)してキリスト教信仰(しんこう)に心を向(む)けるようになります。そして、口に筆(ふで)を咥(くわ)えて花の絵を描(か)き、その絵に詩を添(そ)えるという生活を始めました。今では多くの花の詩画集(しがしゅう)を出版(しゅっぱん)され、郷里(きょうり)の群馬県東村には美術館(びじゅつかん)も営(いとな)まれています。
 そんな星野富弘さんがうたった詩の一つが先のものです。動(うご)かない体に絶望(ぜつぼう)し、生きるのが苦しかった星野さんが、いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった、と証(あか)ししています。
 いのちより大切なもの、って何でしょう? 星野富弘さんは、何も記(しる)していません。だから、この詩を読(よ)んだ人の心に色々な思いが広がります。いのちより大切なもの、その答(こた)えは、私たち一人ひとりが、自分の人生の中で見つけるべきものなのでしょう。
 私は、今日の聖書の御言葉(みことば)を黙想(もくそう)し、幾(いく)つかの本を読みながら、この詩を思い起(お)こしました。星野さんが“いのち”と言っているものは、生命(せいめい)のことだと思われます。身体的(しんたいてき)な命(いのち)、肉体(にくたい)の命(いのち)です。ところが星野さんは、生命(いのち)よりも大切なものを知った、と言います。それは“本当のいのち”ではないだろうか。今日の聖書の御言葉を黙想しながら、ふとそんなふうに思いました。それは、主イエスが、「わたしは復活であり、命である」(25節)と言われた「命」に通(つう)じるものではないだろか。そんなことを感じたのです。


 今日読みました聖書の御言葉は、11章1〜44節まで続(つづ)くまとまりの中の一部です。すべてを朗読(ろうどく)すると、とても長くなるので、ここだけを取り上げさせていただきました。ベタニアという村に、マルタ、マリア、ラザロという三人兄弟がいました。彼(かれ)らは、主イエスと弟子たちが宣教(せんきょう)の旅(たび)をする際(さい)に、自宅を休憩場所(きゅうけいばしょ)に開放(かいほう)し、食事(しょくじ)を供(きょう)するなどしてサポートしていたようです。その兄弟の中で、ラザロが病気(びょうき)になり、死(し)んでしまいました。主イエスはそのことを知(し)り、弟子たちに、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(11節)と言われました。弟子たちは勘違(かんちが)いしましたが、主イエスは、ラザロが死んでいることを「眠(ねむ)っている」という言葉(ことば)で表現(ひょうげん)したのです。本日は永眠者(えいみんしゃ)記念礼拝(きねんれいはい)ですが、この“永眠者”という言葉に通じるものです。
 さて、主イエスがベタニアにやって来たという知らせを聞いて、マルタは村の外(はず)れまで飛(と)び出(だ)していきました。そして、主イエスに会うなり、「主よ、もしここにいてくださいましたら‥‥」(21節)と悲しみを訴(うった)えます。そこから始まる一連(れん)の対話(たいわ)の中で、その中心は25〜26節の、主イエスが言われた御言葉だと言って良いでしょう。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
 佐古純一郎先生という文芸評論家(ぶんげいひょうろんか)であり、中渋谷教会の牧師を務(つと)められた方がおられます。この先生が、1945年の太平洋戦争(たいへいようせんそう)終了後(しゅうりょうご)、生きて対馬(つしま)の戦地(せんち)から帰還(きかん)した。そして、放心状態(ほうしんじょうたい)のような心で毎日を過(す)ごしておられた中で、聖書と出会いました。そして、1948年に中渋谷教会で洗礼(せんれい)を受け、クリスチャンになります。そのきっかけとなった御言葉の一つが、この25〜26節だったようです。「死んでも生きる」「決(けっ)して死ぬことはない」という主イエスの力強(ちからづよ)い語りかけに、何かうまく言えないけれど、とても感(かん)じるものがあったようです。「このことを信じるか」という主イエスの問(と)いかけに、佐古先生は、「はい、主よ」(27節)、信じますとお答えになったのでしょう。
私たちも「このことを信じるか」と主イエスから問いかけられます。けれども、「はい、主よ」、信じます、と素直(すなお)に言えず、一瞬(いっしゅん)、答えに詰(つ)まる“私”がいます。「死んでも生きる」とはどういうことか? 「決して死ぬことはない」とはどういうことか? 感(かん)じるよりも、考(かんが)えてしまうのです。特(とく)に、この後(のち)、38節以下で、主イエスは死んで墓(はか)に葬(ほうむ)られていたラザロを生き返らせます。それならば、「死んでも生きる」「決して死なない」とは、「復活」とは、「命」とは、そういうことを言っているのだろうか? 頭の中で考えがグルグルと巡(めぐ)ります。
私たちは、信仰告白(しんこうこくはく)において、主イエスが父と呼ぶ神が天地(てんち)を創造(そうぞう)し、生きとし生けるものに、私たち人間に命をお与えになったと信じて告白します。そのことを信じる者として、命をお与(あた)えになる神が、死んだ者にさえも再(ふたた)び命を与えて生き返(かえ)らせることができると信じます。そうでなければ、私の信仰告白は、私たちの信仰告白は、間(ま)の抜(ぬ)けたものになるのではないでしょうか。
 けれども、では信じるならば今、死んだ人が神さまによって生き返るということでしょうか。亡くした愛する者が今、生き返ると信じることでしょうか。それが、「復活」を信じ、「命」を信じ、「死んでも生きる」「決して死なない」と信じることでしょうか? そうではないと思うのです。
 生き返らされたラザロは、その後、永久に生きたわけではありません。ラザロもやがて死んだのです。また、主イエスも十字架に架けられて死なれた後、復活して弟子たちに再会(さいかい)されます。しかし、その後、永久に生きたわけではないのです。聖書は、主イエスが40日の間、弟子たちに出会われ、諭(さと)され、その後、天に昇(のぼ)られたと記しています。だから、「死んでも生きる」「決して死なない」ということは、肉体的(にくたいてき)な命を永久に生きる、ということではないのです。主イエスが教えてくださる「命」「復活」とは、そういう肉体的な命とは、全く質(しつ)の違(ちが)う命のことだと思います。私たちが信じるべきものは、そちらの命です。
 新訳聖書はギリシア語で書かれていますが、「命」のことをゾーエーと言います。これは、単に肉体的な命の意味だけではなく、“神さまから与えられる命”“永遠(えいえん)の命”という意味も持っています。神さまを信じるとき、私たちの命の質は変えられます。神さまから与えられた命という、今までと全く違った生き方が始まります。そして、神さまと共に、主イエスと共に生きるとき、私たちの命は永遠へと続くものとなるのです。それが「復活」ということの本当の意味でもあると思います。
 この「命」「復活」について、淀川キリスト教病院のホスピス長を務められた柏木哲夫先生という方が、こんなことを書き記しておられます。淀川(よどがわ)キリスト教病院では、愛する家族を失った遺族(いぞく)のために、年に1回、家族会を開くのだそうです。その中で、遺族の方は思い出や悲しみを語り、分かち合います。その家族会で、コーラス・サークルに入っていたが、夫を失ってから歌うことをやめてしまった女性(妻)が、こんな決心を語られたと言います。
 主人が亡くなってから歌を歌う気にもならないでいたんですけれども、この家族会をきっかけにして、また歌い始めたいと思います。悲しいのは私だけではない。皆さんも本当に悲しい思いをしていて、その中でがんばって生きておられる。そんな姿を見て、また歌い始めようと決心しました。(『心をいやす55のメッセージ206頁』)
 この方がこの思いに至るまで、どれほどの涙(なみだ)を流したか分かりません。けれども、もう一度歌おうと歩き始められたのです。そのように決心した女性に、柏木先生は、励ましの思いを込めて、四隅(よすみ)を切った紙に“声”という字を書いて贈ったと言います。“澄(す)み(隅)切った声で歌ってください”というエールです。
 その文章の最後で、柏木先生はこう言います。
 冒頭(ぼうとう)の御言葉(ヨハネ福音書11章25〜26節)は、私が患者さんの命ということを考えるときにいつも思い出す聖句(せいく)です。人の命は死とともになくなってしまうわけではない。神さまを信じる者には、神さまから永遠に生き続ける命が与えられる。そして、命は家族のなかに、友人のなかに生き続けていくのだと思います。また、ただ思い出として生き続けるというのではなくて、信仰を持っていれば、死んでもよみがえりの命をいただくことができるのです。(同書207頁)
 主イエスが教えてくださる「命」「復活」とは、そんな生き方を、信仰を持って生きる命の生き方を、永遠へと続く生き方を示しているのではないでしょうか。


 最後(さいご)に、冒頭でお話した星野富弘さんの、もう一つの詩をご紹介したいと思います。
 新しい命(いのち)一式(いっしき)、ありがとうございます。
 大切に使わせて頂いておりますが、
 大切なあまり仕舞(しま)いこんでしまうこともあり、申(もう)し訳(わけ) 
 なく思っております。
 いつもあなたが見ていて下さるのですし、
 使いこめば良い味も出て来ることでしょうから
 安心して思いきり使って行きたいと思っております。(『あなたの手のひら』より)
 これは、星野さんが、いのちより大切なもの、いわゆる生命(せいめい)よりも大切なものを見つけてからの生き方なのだと思います。いつも見ていてくださる神さまを信じて、“ありがとうございます”と感謝して、安心して命を使う。安心して生きる。そこに、神さまと共に生きる永遠(えいえん)の命が始まっています。
 本日は永眠者記念礼拝です。私たちは、亡くした人を記念し、偲(しの)びながら、今日の礼拝を守りました。愛する者を失うことは、辛(つら)く悲しいことです。その悲しみから、すぐには立ち直れない場合もしばしばあります。そんな私たちではありますが、主イエスは、「命」を教え、「復活」を示しながら、見守っていてくださいます。眠った者は目覚(めざ)める時が来る。いや既(すで)に目覚めている。天国に召(め)されて永遠の命に生きている。悲しみの中に、その御言葉を心にとどめて、私たちも永遠へとつながる命を生きていければと願います。


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