坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2013年12月1日  待降節第1主日・礼拝説教「神の言葉にゆだねる平安」

聖書  ルカによる福音書1章26〜38節
説教者 山岡創牧師

1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った    


       「神の言葉にゆだねる平安」
 私事をお話して恐縮ですが、長男が大学に合格しました。11月半ばに、指定校推薦で面接を受けるために、日曜日を挟んで3日ほど帰って来ました。ちょうど日曜日が面接日でしたので、ほとんどの方と会えませんでしたけれども、日曜日の朝、非常に緊張して出て行きました。面接で“父”と言わずに“おやじ”と口走り、慌てて“お父さん”と言い直し、それもまずいと気づいて焦ったとか何とか‥‥帰って来て、そんなことを言っていましたが、行く前と違って、ホッとした顔で帰って来ました。
 そして、一昨日の金曜日に、新潟の本人から合格したとの電話がありました。長男はフェイスブックというのをやっています。私も詳しくは知りませんが、インターネット上で、自分個人のページを作って、そのページは許可承諾された人しか見られないような仕組みになっているようです。そのページに、大学に合格しました、との報告を載せたら、早速数名の方々から、“おめでとう”との書き込みがありました。O教会で長らくお交わりのあったNさんからも、“おめでとう。しっかり勉強するのだよ”と祝福と励ましをいただきました。
 おめでとう。私たちが、そう感じて祝福の言葉をかけるのは、普通こういったことです。本人にとって嬉しい出来事に対して、です。


 けれども、今日の聖書の中に描かれているマリアの場合はどうでしょうか?
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。
天使ガブリエルは、このようにマリアに、祝福の言葉をかけました。いったい何が「おめでとう」なのでしょう。
「あなたは身ごもって男の子を生む‥‥」(31節)。
マリアが戸惑い、考え込んでいると、天使は更に、このように告げました。
 確かに、赤ちゃんが生まれるというのはおめでたいことです。私たちも、赤ちゃんを産んだお母さんやその家族に“おめでとう”と言います。
 けれども、マリアの場合は、そんなに単純におめでたいことではありません。
「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)とマリアが答えているように、あり得ない話、おめでとうどころか、あったら困るような、不都合な話なのです。
 マリアは「ヨセフという人のいいなずけ」(27節)、つまり婚約者でしたが、まだ結婚前で、子どもができるような男女の関係を持っていませんでした。だから、そんなことは考えられないし、あったら困る話なのです。実際、マリアの妊娠を知ったヨセフは、マリアの不倫を疑ったようで、離縁しようとさえしたことが、マタイによる福音書1章に記されています。周りの人だって、どんな目でマリアを見るか分かりません。
 だから、マリアにとって「おめでとう」どころではないのです。ヨセフとの平凡な、幸せな結婚生活を思い描いていたであろう人生の歩みの中に、考えもしなかった、思いがけない、あったら困るような、不都合な出来事が起ころうとしていたのです。
 そして、どんな事が起こるかはともかくとして、私たちの人生にも、実は同じような事が起こることがあるのではないでしょうか。考えもしなかった、思いがけない、あったら困るような、苦しみ悩むような、不都合な出来事が、私たちの人生にも起こる場合がある。私たちが予想も、願いもしなかった事が起こるわけで、言わばそれは、私たちの人生に、神さまが介入してくるような、そんな出来事だと言うことができます。他人事ではないのです。
 マリアは、自分の思い描いていた人生に、神さまに介入されたのです。しかも、人生を左右するような重大な出来事です。戸惑い、考え込み、「どうして」と叫び、否定するのも無理もありません。


 「どうして」と戸惑い、否定するマリアに対して、天使ガブリエルは、“神の子誕生計画”を告げ、それは人間の思い、人間の営みと力によって起こるのではなく、
「聖霊があなたに降(くだ)り、いと高き方の力があなたを包む」(35節)。
だから、あり得るのだと語ります。そして、マリアの親類であるエリサベトも、今までずっと子どもができず、年をとってしまったが、それが今、子どもを宿し、6か月になっている、という事実を告げます。子どもを産むことはできないと思われていた女性に、それを可能にする神の力、神の恵み。その例を挙げて、天使は、
「神にできないことは何一つない」(37節)と告げます。
 この37節の天使の言葉は、この福音(ふくいん)書が元々それで書き記されたギリシア語の言葉を丁寧に直訳すると、“神においては、神が語られたすべての言葉が、不可能ということにはならない”という訳文になると、ある本に書かれていました。
 旧約聖書・イザヤ書55章11節でも同じことが預言されていたことを思い起こします。
「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」。
 神の言葉は不可能にはならない。本来37節は、そういう意味です。だから、その天使の言葉に応えて、マリアも、「お言葉どおり」(38節)と返事をしたのです。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。
 キリスト教信仰とは、どのような信仰でしょうか?信仰を求め、救いを求めて教会の門を入る時、人は、キリスト教信仰に対して、こんな信仰ではないかと何らかのイメージを持っているかも知れません。あるいは、自分の願いがこの信仰なら叶(かな)えられると思っているかも知れません。けれども、キリスト教信仰の本質とは、神の言葉を聞いて、それを信じ、従うことです。“私は、あなたの人生に、こういうふうにするよ。こうするように望んでいるよ”と語りかけられる言葉に、“よろしくお願いします”と、その言葉を信頼し、お任せし、おゆだねし、従っていく信仰です。
 だから、私たちはまず、神さまが自分に何を語りかけておられるのかを聞くことが必要です。ローマの信徒への手紙10章17節で、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と記されているとおりです。だから、私たちは神の言葉を聞くのです。礼拝において、また礼拝だけではなく、普段の生活の中で、自分で聖書を読み、神さまが自分に何を語りかけておられるかを心で受け取るのです。この教会では、3年前から、御(み)言葉のディボーションと分かち合いを大切にしましょうと呼びかけていますが、それはまさに、神さまが自分に何を語りかけているかを聞くためです。
 そのように、神の言葉を聞く信仰生活を続けていると、自分にとって嬉しい、都合の良い出来事だけではなく、不都合で、苦しく悲しい出来事でさえも受け止めることのできる信仰が、少しずつ訓練され、養われていきます。
 先週の礼拝でも、今、作成している教会20周年記念誌に書かれた、一人の女の子の文章を紹介しました。今日もその文章を、皆さんと味わいたいと思います。
  教会に来て変わったこと・・と言えば、何か難しいこと、イヤなことがあったら、「これも神様のお導き(かもしれない?)」と思うようにしています。何か分からないけど、そうすると、「とにかくチャレンジしてみよう」っていう気分になれるのが変わったことです。
 教会に来続け、神の言葉を聞き続けている女の子の中に、こんな信仰が養われているのです。マリアは、私たちが想像しているよりも若かった、10代だったと言われています。当時のユダヤ人女性が12歳で成人することを考えれば、10代前半だったことも考えられます。この文章を書いた女の子も13歳です。幼く、未熟ながらも、神さまをいちばん信頼できる年齢なのかも知れません。「お言葉どおり」に、というマリアの告白は、こういう信仰だと思います。


 もう一つ、マリアの告白の中で、大切だと思うことがあります。それは、「この身に」という思いです。神の言葉、神のご計画は、いったいどこで、だれの人生に起こるのでしょうか?もちろん、様々な場所で、様々な人の人生に起こるでしょう。自分自身を棚に上げたのでは、信仰は何の意味もありません。
 教会のある方がしばしば、“信仰とは、傍観(ぼうかん)者になってはならない。当事者になることだ”と言われます。まさにその通りだと思います。神さまは、この人にああした、あの人にこうした、と、まるで客席から他人の信仰生活の舞台を鑑賞し、批判するような信仰生活ではなりません。神さまは、“この私”に言葉をかけてくださる。“この私”に御(み)心を実現してくださるのです。
 私たちは、〈主の祈り〉において、みこころが天で行われるように、地上でも行われますように、と祈ります。“地上”とはどこでしょうか?もちろん、日本のどこか、世界のどこかで、だれかのために、思いを込めて祈ることも必要です。けれども、“地上でも”というのは何よりも、「この身に」ということ、この私の人生において、神の御心が、神の言葉が成りますように、との祈りなのです。神の御心、神の言葉は、私たちが「この身に」と祈り、嬉しい事も辛(つら)い事も、神さまが意味のあること、大切なこととして与えてくださったと信じるときに実現するのです。


「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35節)。
 私たちすべての人間の救いに関わる、世界に関わる神の子の誕生。私たちを愛して、私たちの罪のために、十字架の上で命を犠牲にしてくださった方の誕生。それは、一人の少女ともいえるマリアの信仰によって起こったことでした。
 けれども、神のご計画、神の出来事は、私たち一人ひとりの人生にも起こること、あり得ることです。私たちもまた、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と信じて、神の言葉に従い、受け止めていくならば、私たちの人生は、嬉しいことも辛い事も、神の言葉が成っています。そのように信じる心に、神の聖霊(せいれい)の力が働いて、信じさせてくださっています。否、信じ切れずに、人生の出来事と神の言葉との間で葛藤(かっとう)している人の心にも、聖霊が働いてくださっている。いつか“恵み”だったと信じられる日が来るように、招いてくださっている。
 わたしは主のはしため、主に従うしもべ。そんな信仰の心で歩んでいきたいと願います。


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