坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2014年2月23日 大人と子どもの礼拝説教「行け、あなたを遣わす」

聖書  使徒言行録22章17〜21節
説教者 山岡創牧師

22:17 「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、
22:18 主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』
22:19 わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。
22:20 また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』
22:21 すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」
 
  
     「行け、あなたを遣わす」
 教会って、飛び込んでみると、“あぁ、こういうところなんだ”ということが、よく分かります。そして、教会に来ると何か楽しいことがあったり、“聖書の教えって、いいな” “信じるって、いいな”“教会の人間関係はなんだか温かいな”と感じるから、続けて教会に来るのでしょう。
 では、教会に入ってみる前は、教会ってどんなところだと思っていましたか?‥‥。“どんなところなんだろう?、よく分からないや”“何だか怖そうだなあ”“入ってもいいのかな。でも、入ったら出られなくなるかも”“キリスト教って変な教えを教えているんじゃないかな。あやしいなあ”。そんなことを思っていた人もいるかも知れません。
 昔の教会は、もっとひどい誤解を受けていました。教会は、人間の肉を食べる儀式をしている。そう思われていたようです。ほら、教会の礼拝で時々、聖餐(せいさん)式というのをやりますね。洗礼を受けた人が、パンとぶどうジュースをいただくやつです。あのパンとジュースを、“これは、キリストの体です。これは、キリストの血です”と言って、いただくでしょう。だから、教会に来ていない人が、“キリスト教は、人間の肉を食べ、血を飲むあやしげな宗教だ、危険な宗教だ”。そういうふうに誤解して、迫害したようです。
 ぼくらも、中に入ってみないと、教会ってどんなところか、キリスト教ってどんな教えなのか、なかなか分からないですね。だから、誤解することもあると思います。
 坂戸いずみ教会のNさんも、来る前は、教会と全くご縁がなくて、ごく普通の日本の家庭で、どちらかと言えば、日本の文化とか、仏壇や神棚とかを大切にするお家で育った。だから、教会のことを、日本の伝統的な宗教や文化に反対する、とんでもない宗教だと思っていたそうです。そして、友だちに、教会に行ってみないかと誘われたとき、最初は行く気がなかった。でも、後になって、“よし、教会がどんなところか、よく見てやろう。そして、反対してやろう”と思って、来たそうです。でも、来てみたら、“あれっ?、自分が考えていたのと、ちょっと違うぞ”と感じた。それ以来、もう10年以上、Nさんは教会に来続けています。来ると言うよりも、もはや神さまのもとに、戻り続けている、帰り続けていると言った方がよいかもしれません。


 今日の聖書の箇所に出て来たパウロさんも、教会に反対していました。田舎からエルサレムに出て来て、ちょっと有名になったようなイエスという男のことを、救い主だ!なんて信じるのは、とんでもない宗教だ。ましてや神さまの心、神さまの掟である律法を守らないなんて、許しておけない!パウロさんは、そう感じて、教会に反対しました。反対しただけじゃない。教会をぶっ潰そうとしました。エルサレムにある教会から教会へと回って、そこにいる人たちを捕まえて、牢屋にぶち込んだり、鞭でたたいたりしました。教会の中心人物であったステファノさんという人を、あれは神さまに逆らい、バカにしていると言って、石打(いしうち)の刑で処刑しました。他にも処刑した人がいたかも知れません。そして、エルサレムの教会だけでは飽き足らず、田舎にある教会も潰しに出かけました。そして、ダマスコという町に向かったときのことです。
 その途中で、突然、天からピカーッと強烈な光が照らし、パウロさんは目が見えなくなりました。そして、その光の中で声を聞きました。“パウロ、どうして私を迫害し、潰そうとするのか”。それは、イエスさまの声でした。パウロさんは目が見えないまま、ダマスコの町に行き、町の宿屋で3日間、目の見えないまま、何も食べず飲まずに、自分はどうしたら良いのか悩み続けました。
 すると、3日目に、ダマスコの教会のアナニヤさんという人が、パウロさんのところにやって来ました。そして、イエス様があなたの目を元通りにし、あなたを聖霊(せいれい)で満たしてくださると言って、祈ってくれました。すると、パウロさんの目から、うろこのようなものが落ちて、目が見えるようになりました。そして、パウロさんは、自分が間違っていましたと心を入れ替えて、イエス様を救い主と信じますと言って、洗礼を受けたのです。


 さて、イエス様を信じて洗礼を受けたパウロさんが、まず最初にやったこと(は何だと思いますか?)‥‥‥それは、ユダヤ人である自分の仲間に、イエス様は確かに救い主キリストです、と伝えることでした。そのために、ダマスコからエルサレムに戻った。そして、教会を潰そうとしていた自分たちは間違っていた。自分たちは神さまの心に反していた。イエス様こそ、神さまがわたしたちのために遣(つか)わしてくださった救い主です、と一生懸命、仲間に伝えようとしました。さあ、パウロさんの言葉は、ユダヤ人の仲間たちに伝わったでしょうか?‥‥‥
 だめでしたね。みんな、パウロさんがおかしくなったと思いました。それどころか、裏切り者だと思いました。そして、パウロさんを殺そうとしました。それを知ったパウロさんは、エルサレムを脱出しました。
 ユダヤ人の仲間たちに、イエス様のことを伝えたい、誤解を解きたいと願ったパウロさんの志は挫折(ざせつ)しました。失敗しました。これから、パウロさんはどうしたらよいのでしょう。そのとき、イエス様がパウロさんにかけてくれた言葉が、これです。
「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」(21節)。
 イエス様に反対し、教会を潰そうと迫害し、信じる人たちをたくさん牢屋に入れ、鞭で打ち、処刑したパウロさんの、大きな大きな罪が、間違いが、イエス様によって赦(ゆる)された。自分のようなダメ人間、罪人はもうだめだ、と思っていたのに、赦されて、神さまに愛されて、洗礼も受けることができた。この感謝、この喜び、この大きな恵みを、だれかに伝えないではいられない。それを、神さまは、ユダヤ人の仲間にではなく、ユダヤ人以外の異邦人に、外国人に伝えなさいと、パウロさんに、新しい使命、新しい生きがいをくださったのです。


「行け。わたしがあなたを‥‥‥遣わすのだ」。
 私たち一人ひとりも、この教会から、神さまに遣わされて行きます。教会は、ガソリン・スタンドみたいだと、Oさんがたとえました。ぼくらは、ここから、神さまの愛と恵みという心のガソリンを補給して、信仰という車に乗って、自分の日常生活というドライブに出かけて行く。そして、ガソリンが切れたら、またこのスタンドに帰って来るわけです。でも、ドライブの途中で、“きみも、この車に乗ってみない?”とだれかを誘うことがあるかも知れない。“乗せてくれる?”という人がいるかも知れない。
 さあ、私たちはどこへ、だれのところへ、神さまに遣わされていると思いますか? 家族か、学校の友だちか、会社の同僚か、近所の知り合いか、考えてみましょう。
そして、イエス様のことを伝えるときに大切なことは何か?          “愛”です。相手のことを思いやる、あたたかい愛です。真面目に生きるよりも、正しく生きるよりも、愛が大切。愛があったら、きっとあなたの信じるイエス様は伝わっていきます。
もう一つ大切だと思うのは、“誠実さ”です。誠実というのはね、逃げないことです。嫌なことから逃げない。目の前の相手から逃げない。自分の都合ばかり考えるのではなく、相手のことを思って行動する。愛と似てますね。
ぼくらは、信仰という車に乗って遣わされるイエス様の使者です。だれかに、イエス様のことを伝えられたら、いいですね。


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