坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2014年3月9日 受難節第1主日・礼拝説教 「うるさいほど祈る」

聖書  ルカによる福音書18章1〜8節
説教者 山岡創牧師

18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
 
  
     「うるさいほど祈る」
3月5日(水)から〈受難節レント〉が始まりました。先週の日曜日に受難節(じゅなんせつ)レントについてのプリントを配布しましたが、受難節とは、私たちが信じる主イエス・キリストの苦しみを、特に心に刻んで過ごす期間です。受難節のことをラテン語でレントと言いまして、この期間は日曜日を除いて40日間、キリストの復活祭イースターまで続きます。ちなみに、今度のイースターは4月20日になります。
 主イエスは、人々に非難され、捕らえられ、裏切られ、裁かれ、排斥(はいせき)されて、十字架に架けられました。主が命をかけられたこの苦しみが何のためか。それは、私たちの罪のため、いや“私”の罪を引き受けて犠牲となり、その命によって“私”の罪を償われるためです。私たちもまた、自分の好みや身勝手な思いで、人を非難し、裏切り、裁き、排斥する罪を犯します。その人がいない方が良い、そんな思いを抱くことがあります。そういう“私”の罪を、主イエスが引き受けてくださったことを思い、自分の罪を見つめ直し、主の恵みに感謝する。それが、受難節レントにおける私たちの信仰生活の主旨です。
 私は、この受難節に、ぜひ皆さんに、“祈る生活”をしてほしいと思っています。信じるということは、イコール祈ることだ、とよく言われます。神さまを信じている、主イエス・キリストを信じている。その信仰が形となり、生活となって現われるのが、祈りだということです。逆に言えば、祈らない信仰というのはあり得ないということです。
 とは言え、子どもの頃から教会につながり、キリスト教に触れて来て、祈ることが自然に身に付いている人ならいざ知らず、大人になってから入信された方の中には、祈ることを難しいと感じている人も少なくないと思います。特に、洗礼を受けてしばらくはそうでしょう。何をどう祈ったらいいのか分からない、ということもあるでしょうし、祈るということが感覚的につかめない、という方もおられるのではないでしょうか。
 私も子どもの時からの教会育ちですので、祈りの感覚を説明するのがかえって難しいのですが、こんな感じかな、ということを考えてみました。滅多にないことかも知れませんが、私たちは、だれかに助けてほしいと感じる大ピンチの時に、“お母さん!”と叫ぶことがあるかも知れません。お母さんが目の前にいるわけではなく、手を出して助けてくれるような状況でなくても、思わず“お母さん!”と叫びます。それは、たとえ母親が目の前にいなくても、確かに存在し、自分を助けてくれる人だと信頼しているからです。神さまに祈るということは、そんな感覚に近いのかな、と思います。目には見えないけれど、神さまの存在を信じていて、自分を助けてくださる、救ってくださると信頼して叫ぶ。それが、祈るということではないかと思います。
 1年ほど前に、〈祈りの手引き〉という、ほんのちょっとした冊子を作りました。ほんの簡単な祈りの説明と、具体的に、礼拝での感謝祈祷(きとう)、集会の初めの祈り、集会の終わりの祈り、食事の前の祈り、朝の祈り、夜の祈りの例を載せました。自分はお祈りができないと思っている方に、祈れるようになってほしい、そのためにまず、祈りの言葉が分からないということがないように、そういう冊子をつくりました。これを見て、その言葉のまま祈ればいいです。少し慣れて来たら、自分の言葉を足していく。そのうち、何も見ずに、自分の言葉で祈れるようになります。人と一緒に、人の前でも祈れるようになります。
 私は、人に祈らせるのが下手です。特に、信仰初心者の方には労(いた)わりの気持が湧いて来て、祈ってくださいと頼むことができない。でも、それがかえっていけないのでは、と感じることがあります。労わり過ぎて、かえって祈れなくしている。祈れない信徒を生み出している。祈れるように訓練していない。それは私の牧師としての課題です。
 だから、皆さん、この受難節レントの期間に、ぜひ祈る生活をしてほしい。1日の生活の中に、落ち着いて祈る時間を設けてほしい。5分でも10分でも設けてほしい。ぜひ聖書を読んで、神の言葉を聞いて、祈るようにしてほしい。忙しくて、落ち着いて祈る時間を設けられないという人は、食事の前に一言、祈るようにしてほしい。出かける前に、玄関で30秒、祈ってから出かけるようにしてほしい。そんなふうに自分を訓練して、この受難節から、祈ることが生活の一部になるようにしてほしい。そう願っています。
祈り続けていくと、祈りが理屈ではなくて、だんだん分かって来ます。祈るということは、信仰が“知識”ではなく“魂”になるということです。知的な信仰から霊的な信仰に変わる、ということです。信仰は信仰、生活は生活ではなく、信仰が生活の中に溶け込み、一体化していくということです。

 さて、このように祈りの話をしたのも、今日の聖書の御(み)言葉において、主イエスが祈りについて語っておられるからです。
「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(1節)。
と始まる今日の御言葉の中で、主イエスは、〈やもめと裁判官〉のたとえを語られました。「ある町に、神を畏(おそ)れず、人を人とも思わない裁判官」(2節)がいました。その裁判官のところに、一人のやもめ(未亡人)がやって来て、自分を責める相手を裁いて、わたしを守ってくれ、と訴えました。悪徳裁判官は、こんな貧しいやもめの訴えを聞いて裁判をしても、金にも得にもちっともならん、と思って、取り合わなかったのかも知れません。しかし、ひっきりなしにやって来ては訴えるこのやもめに、うるさくてかなわないと、遂に音をあげて、やもめのために裁判をする、というたとえ話です。
 このやもめのように、ひっきりなしに、うるさいほど神さまに向かって祈りなさい。そうすれば、悪徳裁判官でさえ訴えを聞くのだから、まして、私たちのことを選び、愛してくださっている神さまが、「昼も夜も叫び求めている」(7節)私たちの祈りを聴いてくださらないはずがない、と主イエスは教えてくださいます。
 教会のすぐそばの交差点のところに、ヤオコーというスーパーマーケットがあります。つい先日、新装開店しまして、以前より広々として、明るくオープンな感じになりました。そのヤオコーで、以前に、小さな子どもが“買って、買って!”とせがむ声を聞いたことがあります。見ると、小さな男の子が父親にせがんでいます。皆さんも時々見かける光景でありましょう。その叫び声は、私が買い物をしている間中、レジに並んだ時にも、まだ響いていました。
 私は、今日の聖書の御言葉を黙想しながらその時の光景を思い出しまして、普通はお父さん、困っただろうなあと苦笑いする場面ですけれども、しかし私は、自分の信仰に必要なのは、あの幼児のように、父なる神さまに向かって、本気で、ひっきりなしに、うるさいほど叫び続ける、祈り続けることではないだろうか?と感じました。
 そのお父さんが、その後どうしたかは分かりません。しかし、あまりのうるささに根負けして、子どもが求める物を買ったとしたら、それはまさに〈やもめと裁判官〉のたとえ話と同じことが起こったことになります。
 ひっきりなしに、うるさいほどに、真剣に祈る祈りを、神さまが「いつまでもほうっておかれることがろうか」(7節)。その祈りは必ず聞かれると主イエスは言うのです。「神は速やかに裁いてくださる」(8節)とは、言い換えれば、祈りは聞かれる、ということにほかなりません。

 けれども、それほどに私たちは、真剣に祈っているでしょうか。祈り続けているでしょうか。主イエスもそのことを心配しておられます。
「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)。
 十字架に架かって死に、しかし復活して天に昇るご自分が、もう一度地上にやって来るとき、ひっきりなしに、うるさいほど祈っている祈りを、そのような祈りの信仰を見いだすことができるだろうかと、危ぶんでおられるのです。
 最初の1節に、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」とありました。「気を落とさずに」とは、別の聖書では“失望せずに”と訳されています。失望せずに、絶えず祈る。
 私たちは、祈りに失望しているところがないでしょうか?一生懸命に祈ったって、どうせ聞かれないと思っているところがないでしょうか?そう思って、祈ることを怠り、諦めていないでしょうか?祈りが上辺だけ、形だけになっていないでしょうか?
 私たちは、心のどこかで、“イエスさまはそう言うけれど、神さまに祈り求めたって、現実にはそうそう聞かれるもんじゃないよ”と思っているかも知れません。そう思って、絶えず、真剣に祈り求めようとはしない。そして、現実的に考えて、あり得そうな範囲の中で、自分の力でできそうな範囲の中で、“これならあり得るんじゃないか、できるんじゃないか”と思って、その範囲の中で祈っているのではないでしょうか。つまり、神さまを信頼せずに、この世の常識、人間の力、自分の力を当てにして祈る祈りで終わっているようなことがあります。それは現実的な、賢い祈りかも知れません。馬鹿を見たとショックを受けない、自分が傷つかずに済む祈りかも知れません。けれども、それは主イエスが求めておられる祈り、主イエスが喜ばれる信仰ではないと思うのです。

 ルカの教会の信徒たちの中にも、祈ることに気を落とし、失望している人々がいたと思われます。「人の子が来るとき」(8節)とありますが、主イエスが再び天からおいでになることを希望として信じるのが、私たちの信仰です。特に当時の人々は、現代の私たち以上に、主イエスの再来(再臨)をリアルに信じていました。
 ところが、すぐにも来ると思っていた主イエスが来てくださらない。苦難や困難が起こるたびに、もう来るか、もう来るかと信じて待っても、やって来ない。そうしているうちに10年、20年、30年と年月が過ぎていく。あの約束は嘘だったのだ、もう主イエスは来てくださらないと失望し、気を落として祈らなくなる信徒が出て来ても不思議ではありません。
 そんな思いに襲われるたびに、ルカの教会の信徒たちは、生前の主イエスが語られたこのたとえ話を思い起こし、お互いに励まし合ったのではないでしょうか。主イエスは必ず来てくださる。自分たちの祈りを聞いてくださる。だから、気を落とさずに絶えず祈ろうではないか、と励まし合っていたに違いありません。
 祈りはいつ、どんな形で聞かれるか、私たちにはなかなか分かりません。ある婦人の信徒が、夫の救いのため、家族の救いのために祈った。何年、何十年も祈り続けた。神さまは私の祈りを聞いてくださらないと失望して、祈らなくなってしまっても不思議ではありません。しかし、彼女の祈りは、彼女が生きている間には叶わなかったけれど、彼女が死んだ後で、家族が神さまを信じて洗礼を受けた、という話を聞いたことがあります。失望せずに、励まし合っていきたいものです。
 また、祈りは、必ずしも願ったとおりに実現するとは限りません。苦しみや悩みがあり、切なる願いがあり、こうしてほしいと懸命に祈っても、必ずそのとおりになるわけではありません。けれども、神さまは、私たちの祈りの訴えに、何らかの裁きをしてくださる、神さまの答えを出してくださる。それが分かるようになる時まで、気を落とさずに、絶えず祈っていきたいものです。
 祈れない私たちを愛して、受け入れてくださる主がおられます。その愛と赦(ゆる)しの下で、計算高い信仰ではなく、愚かにも祈り続ける信仰に生きていきましょう。


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