坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2014年6月22日 大人と子どもが共に守る礼拝説教  「八つの幸い」

聖書 マタイによる福音書5章3〜12節 
説教者 山岡創牧師

5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

  
     「八つの幸い」

 「幸いである」。今日読んだ聖書の箇所で、イエス様は、この言葉を9回も言われました。子どもたちは「幸い」って、どういう意味だか分かりますか?まあ、小学校高学年以上の人は、字を見たら分かりますね。幸いとは、つまり“幸せ”のことです。幸せって、生きてて嬉しい、楽しい、満足ということですね。皆さんは、どんな時に“幸せだなぁ”と感じますか?
 けれども、イエス様が教える“幸せ”というのは、何か違うんじゃないか、普通に考えたら幸せじゃないよ、と思う教えが幾つもあると思いませんか?例えば、いちばん初めの3節では、こう言われています。
「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(3節)。
 心の貧しい人と、心の豊かな人だったら、どちらが幸せでしょう?単純に考えたら、心の豊かな人の方が幸せそうだと思います。だけど、イエス様は、「心の貧しい人々は、幸いである」、幸せだよと言われるのです。どうしてなのでしょう?

 ここにお財布があります。貧しいということを普通に考えると、お財布の中にはお金が?‥‥‥‥あまり入っていない状態、ない状態のことをいいますね。お財布の中が空っぽなのが、いちばん貧しい状態です。
 そこから、心が貧しいということを考えてみると、つまり心の中が空っぽということになりますね。心が空っぽだと、どういうことになるのか。このコップで考えてみましょう。このコップが私たちの心だとします。コップが空っぽだと‥‥‥このように、飲み物をたくさん入れることができます。けれども、コップがいっぱいだと、もうこれ以上は何も入りません。
 私たちの心も、空っぽの方がいっぱい入ります。イエス様の教えがいっぱい入ります。神さまの恵みがいっぱい入ります。そうすると、“救われて嬉しい”“神さま、ありがとう”という喜びと感謝が心からあふれます。
 けれども、心の中に、“自分は正しい”っていう自分中心の考えや、“自分はこんなにできるぞ”っていう自信や、“自分はこんなにやったぞ”っていう自慢や思い上がりがいっぱい入っていたらどうでしょう?もう神さまの恵みははいりません。感謝の気持は、心の中に入るところがなくなってしまうのです。

 イエス様が生きておられた頃、ファリサイ派と呼ばれる人々がいました。この人たちは、神さまのご命令をとてもよく守る人たちでした。ある意味、すばらしい信仰だと思います。けれども、この人たちは、自分はこんなに神さまのご命令を守って正しく生きているぞ!善いことしてるぞ!という自慢の気持を持ちました。そして、こんなにやっているんだから、自分は神さまのすばらしい天の国に当然入れてもらうことができるんだ、と自信を持っていました。人間って、自信と自慢が強いと、神さまに感謝することが少なくなって、人をバカにしたり、責めたりすることが多くなるんです。
 ところが、イエス様は何と教えたでしょう。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」。心の中で自分の力を自慢し、思い上がらない人は幸せです。自分は天の国にふさわしいと自信を持っていない人は幸せです。なぜなら、天の国って、そういう人が入れるからです。
 えっ!神さまの国は、神さまのご命令を守る正しい人のためにあるんじゃないの?えっ、どうして?と思った人が、イエス様の時代にも、そして今もいるでしょう。
 けれども、これを聞いて、中には涙を流して感謝した人もいたに違いありません。“じゃあ、こんな私でも神さまの国に入れてもらえるんですね。救われるんですね”。自分みたいな人間は天の国に入れてもらえないと悲しんでいた人は、イエス様のこの言葉に慰められたはずです。
 そして、自分のような人間でも神さまの国に入れるのですね、と涙を流し、感謝した人はきっと、他の人に対して、バカにしたり、責めたりせず、その人のことを優しく受け入れるようになると思います。それが「柔和(にゅうわ)な人々」(5節)です。
 また、イエス様の教えを聞いた人々の中には、ハッと自分の間違いに気づいた人もいたことでしょう。今まで自分は、これだけやったから神さまに気に入られている、天の国に入れてもらえると思っていた。だけど、考えてみれば、それって自分で勝手にそう思い込んで、思い上がってただけだ。そんな自分に気づいて、ガクッとした人もいたでしょう。ガクッとして、神さまが本当に喜んでくださることって何だろうと、もう一度考え始めた人もいたでしょう。それが、「義に飢え渇く人々」(6節)です。        
そして、神さまが本当に喜ぶことに気づける人は「心の清い人々」(8節)でしょう。そして、神さまが喜ばれるのは、心を貧しくして神さまの恵みと愛を受け入れることだ。そう気づいて、イエス様の愛と救いの恵みを受け入れた人は、他の人に対しても、優しく愛する人になるでしょう。人を愛することによって平和を造り出す人になるでしょう。それが、「憐れみ深い人々」(7節)、「平和を実現する人々」(9節)です。

 イエス様が教えてくださったような「幸い」を生きようとする人は、もしかしたら周りの人に邪魔されたり、損をしたりして、この世ではちょっと不幸せになることがあるかも知れません。でも、神さまはちゃんと見ていてくださいます。そして、天の国に大きなご褒美(ほうび)を用意して待っていてくださいます。
 昨日の夜、サムエルナイトで、参加した中学高校生と“面倒だから、しよう”という渡辺和子さんの言葉を学びました。テストの後、自分が使った机の上に出した消しゴムのかすを、ティッシュに集めて退席した学生がいました。面倒だから始末せずに出ていくか。後の人のことを考えて、かすを始末して出ていくか。私たちには、どちらだってできます。けれども、そのちょっとした面倒くさいことを、嫌がらずに、後の人のために、そして自分のためにする。それが、サムエルナイトの柱の一つである“奉仕の心”だとお話しました。面倒だから、しよう。それは、イエス様の八つの幸いの教えを行動にしたら、そうなると思います。そして、そういうちょっとした心構えが、私たちの心を可愛く、格好良く、本当の意味で豊かにするのだと思います。

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